3ー6

 大原さんにタオルを渡し、入口で濡れた身体を拭いてもらったところで、大原さんは茜ちゃんが座っていた席に腰掛けた。カウンターの上には、確かにほとんど手つかずの出汁巻き定食が残されている。


 そして俺はと言えば、結局会計をするタイミングを見失い、この騒動に付き合わされることになった。


「いやぁこの出汁巻きは美味いですなぁ」


 大原さんが感嘆の声を上げた。ご飯を片手に、夢中で出汁巻きをかっこんでいる。


「私もたまに家で作りますが、水分が多い分、どうしても形が崩れてしまいましてなぁ……。それをこんだけ綺麗に作れるいうのは、やっぱりプロは違いますなぁ」


 大原さんは忙しなく喋りながら出汁巻きとご飯を交互にかっこんでいる。見ていて気持ちのよくなる食べっぷりだ。


「大原さんもお料理されるんですね。奥さんも喜ばれるんじゃないですか?」


 喜美が大原さんの隣に座り、笑みを浮かべて言った。だが、大原さんは途端に表情を曇らせた。


「いや、それが……。わしは1年ほど前に妻を亡くしましてな。だから料理も自分でせざるを得んのですわ」


「あ、そうなんですか? すみません。辛いこと思い出させちゃって」喜美がしおらしく頭を下げた。


「いや、ええんですわ。まぁ、おかげで子育てには苦労しとるわけですが……」大原さんが苦笑した。


「さっき夜遊びがひどいって言ってましたね。いつもこうやって夜に出歩いているんですか?」俺は話に割り込んだ。


「そうなんですわ」大原さんが渋面を作った。「帰宅するのは大体日付が変わってからで、2、3日帰ってこんこともあります。不良仲間との付き合いがあるんで、そいつらの家に泊めてもらっとるんでしょうな。私が何度注意しても全く聞く耳を持ちよらんで……」


「ふうん……。父親1人で女の子を育てるのって、やっぱり難しいんですかね」


「そうやと思いますわ。中学までは茜も普通に学校に行ってて、夜に出歩くこともなかったんですわ。

 ただ、高校に進学して何ヶ月か後に妻が死んで、それから目に見えて素行が悪くなりましてな……。不良の友達と付き合うようになって、夜遊びや外泊の機会が増えたんです。夜遅うに帰ってきて、朝起きれんからと言って学校を休み、それで成績が下がって余計に学校に行かなくなっての悪循環でしてな……。1年の時も出席日数はギリギリでしたんで、今年は留年するかもしれません。私が学校に行くよう言うても、反発するばかりでしてな……。若い人達の前でこんなことを言うのは恥ずかしいんですが、正直お手上げなんですわ」


 大原さんは実際に両手を上げた。俺は同情して眉を下げた。男手一つで女の子を育てるなんて考えただけでも大変なのに、その上娘がグレてしまっては途方に暮れるのも無理はない。


「まぁ、でも……そういう非行って、年齢重ねるうちに落ち着いてくるものじゃないですか?」俺は大原さんを励まそうと言った。「俺の姉ちゃんも高校の時はかなり荒れてましたけど、今は普通にOLやってますし。茜ちゃんもそのうち落ち着くんじゃないですか?」


「私もそう思いたいんですが、それまでに茜が犯罪に巻き込まれんかが心配なんですわ」大原さんはため息をついた。「今日みたいに1人でふらふらしとると、いつおかしな奴に声をかけられるかわかりません」


 俺は頷いた。大原さんの心配はよく理解できた。夜に1人で出歩く女子高生なんて、犯罪者からしたら格好の餌食だ。


「あの、1つ質問なんですけど、茜ちゃんがグレたのって、本当に奥さんが亡くなった直後だったんですか?」しばらく黙っていた喜美が口を挟んできた。


「はい。茜は妻には懐いとりましたからな」大原さんが頷いた。「妻が亡くなったことがよっぽどショックだったんでしょう」


「グレる前の茜ちゃんはどんな様子だったんですか?」


「そうですなぁ……。生意気なところはありましたが、少なくとも夜はちゃんと帰ってきてましたな。夕食も、今は大抵どこかで食べて帰ってくるんですが、当時は3人揃って食べてましたし……」


「ちなみに、茜ちゃんの好きなメニューってあったんですか?」


「好きなメニューですか? 食卓に出ると喜んどったのは、筑前煮、さばの味噌煮、茶碗蒸し辺りでしたかな……」


「中学生にしては渋い好みですね」俺は思わず言った。


「あぁ、妻が和食の料理教室に通ってましてな。だから家で作るもんは大抵が和食で、その影響やと思いますわ」大原さんが笑みを漏らした。「逆に洋食は苦手で、ハンバーグやら子どもが好きそうな料理を作っても、茜はまずい言うて残してましたわ」


「そうなんですか。意外ですね」俺は茜ちゃんの派手な風貌を思い出しながら言った。


「ええ。ですから小学校までの給食も、口に合わん言うてよう残してましたわ。中学になると弁当に変わったんで、残すこともなくなったんですが……あぁ」そこで大原さんが何かを思い出した顔になった。


「どうかしましたか?」俺は尋ねた。


「いや……そういえば妻が弁当に、よう出汁巻きを入れとったことを思い出したんです。普通、弁当のおかず言うたら卵焼きが一般的やと思うんですが、茜は卵焼きより出汁巻きがいい言いましてな。出汁巻きは妻の得意料理でしたから、茜も食べ慣れとったんでしょうな」


「ちなみに、奥さんが亡くなった後は、お弁当はどうされたんですか?」喜美が割り込んできた。


「あぁ……一応私が作るようになりました。それまで料理なんかほとんどしたことがなかったもんですから、最初は卵を焼くだけでも一苦労でしたわ。それでも何とか出汁巻きを食わしてやりたかったんで、卵焼きではなく出汁巻きを作っとったんです。まぁ、言うてる間に茜が学校に行かなくなったんで、弁当作る機会もなくなってしまったんですが」


 大原さんが苦笑交じりに言った。喜美はいつになく真面目な顔をしてじっと考え込んでいたが、やがてにっこり笑って言った。


「なるほど。よくわかりました。あの、ところで大原さん、1つお願いがあるんですけど、今度茜ちゃんが家に帰ってきたら、うちの店に連れてきてもらえませんか?」


「この店に……ですか?」大原さんが目を丸くした。「構いませんが、またご迷惑をおかけすることになるんでは?」


「大丈夫です。上手くいけば、茜ちゃんの夜遊び問題が解決するかもしれません」


 喜美はまた謎めいたことを言う。大原さんは狐につままれたような顔ではぁ、と頷いた。


 俺がちらりと喜美の方を見ると、視線に気づいた喜美が悪戯っぽい笑みを向けてきた。どうせまたろくでもないことを考えているんだろう。俺はさっさと退出したかったが、喜美は話が終わるまで会計をしてくれそうにない。俺はため息をついて自らの不運を呪った。

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