3ー4
その後3分ほど経ったところで、喜美が卵焼き定食を運んできた。湯気の立つご飯とみそ汁、漬物に冷奴、そして艶やかな卵焼き。見るからに食欲をそそるメニューを前に、口の中が早くも唾でいっぱいになる。
「はい! おまちどおさま! 『喜美ちゃんの愛情たっぷり……』」
「いちいち正式名称で言わなくていいから」
俺は喜美を遮ると、箸を持って目の前に置かれた定食を見回した。どれから食べようか迷ったが、やはりまずは卵焼きから手をつけることにする。箸で一口サイズに切り、そっと口に運ぶ。
途端に俺は驚きに目を見張った。ふっくらとした卵焼きは柔らかくて舌触りがよく、口の中で卵液がじゅわっとあふれ出すようだ。ざらつきやパサつきは全くなく、噛むたびに心地よい旨味が口の中に広がっていく。山本さんは「お菓子みたい」と評していたが、口の中で溶けるような優しい味わいは、ほんのりと甘い風味も相まって確かにケーキのようだ。卵焼きがこんなに美味いものとは知らず、俺は夢中になって2切れ、3切れ目をかっこんでいた。
「ふふん、その様子を見ると、気に入ってくれたみたいだね?」
横から喜美の声がした。俺がはっとして顔を上げると、喜美が席の横に立ち、不敵な笑みを浮かべて俺を見つめていた。何だかデジャヴを感じる。
「……うるせぇな。人が飯食ってんだから黙ってろよ」俺はばつが悪そうに喜美から目を逸らした。
「もう、涼ちゃんたら相変わらず素直じゃないなぁ。正直に言えばいいじゃない。美味しすぎてハート撃ち抜かれちゃいましたって!」
「何だよその昭和的な表現」
「何たって『愛情たっぷり』だから、喜美ちゃんの愛情の深さにノックアウトされたって感じ?」
喜美は片目を瞑って言うと、両手で銃の形を作って90度上に傾けて見せた。ピストルを撃つジェスチャーをしているつもりなのだろう。28歳のくせに妙に言動が古臭い。
「何でもいいからちょっと黙ってろよ。せっかくの飯がまずくなる」
「はいはいわかったよ。じゃ、あたし洗い物してるから、食べ終わったら呼んでね!」
意外にも喜美はすぐに引き下がると、さっさと厨房に引っ込んでしまった。しつこいのかあっさりしているのか、今一つ判断のつきにくい奴だ。
その後、20分ほどかけて俺は『卵焼き定食』を堪能した。
卵焼きが美味いのはもちろんだが、他の料理も遜色のない出来栄えだった。ご飯は艶やかでふっくらとしていて、味噌汁は出汁の旨味がしっかりと効いていて、とにかく全体的にとても美味かった。千円ちょっとの値段でこれだけ美味い飯が食えるのなら、リピーターがいるのも頷ける。
完食したところでふうっと息を漏らし、お冷を飲みながら壁の時計を見やる。時刻は22時過ぎ。結局1時間近くいてしまったようだ。でもこれ以上の長居は無用。俺は厨房にいる喜美に声をかけようとした。
その時だった。入口の引き戸がガラガラと開く音がして俺はそちらを向いた。こんな時間から客とは珍しい。仕事が遅くなったサラリーマンだろうか。
と思ったら、そこにいたのは1人の女の子だった。
制服を着ていることからして高校生だろうか。顔には派手な化粧をし、長い髪を茶色く染め、短いスカートに今どき珍しいルーズソックスを合わせている。店内には入ってこず、入口から中の様子を窺っている。
「あ、いらっしゃーい!」
客に気づいた喜美が厨房から店内に走ってきた。女の子の姿を見ると一瞬おや、という顔をしたが、すぐににっこり笑って続ける。
「いらっしゃい! 1名様ね! カウンターとテーブル席はどっちがいい?」
「あ、えーと……。あたしお金あんまり持ってないんだけど」女の子が警戒した様子で言った。「千円ちょっとしかなくて。でもお腹ペコペコなんだ。何か食べれるものある?」
「それだけあれば十分だよ! うちの店は『安くて美味くて楽しくて』がモットーだからね!」
初めて聞いた。っていうか最初の2つはともかく、「楽しくて」って必要なんだろうか。
「ふうん……。じゃ、入ろうかな。あ、ここって何時まで?」女の子が尋ねた。
「23時までだよ! でもちょっとくらいなら待てるから、急いで食べなくても大丈夫だよ!」
「そうなんだ。まぁそんなに長居する気ないけど」
女の子は頷くと、ピンク色の傘を畳んで店内に入ってきた。俺の顔をちらりと見た後、すぐに興味なさそうに視線を外し、一番端のカウンター席に腰掛ける。
「はい! これがお品書きね!」喜美が黒表紙のメニューを女の子の前に置いた。「あたし奥で洗い物してるから、決まったら呼んで……」
「あ、大丈夫。すぐ決めるから」
厨房に戻ろうとする喜美を女の子は呼び止めた。メニューをぱらぱらと捲り、簡単に視線を走らせた後、一点を指差して言う。
「これでいいよ。そんなに時間かかんないんでしょ?」
「『お袋の味・
「じゃあそれで」
「りょうかい! すぐ作るから待っててね!」
喜美はにっこり笑って言うと、いそいそと厨房に戻って行った。お会計をするタイミングを見失い、俺はその場を取り繕うように追加のお冷をグラスに注いだ。お冷を口に運びながら、ちらりと女の子の方に視線をやる。女の子はスクールバッグからスマホを取り出し、気のない顔でそれをいじっている。よく見ると耳には大量のピアスが付けられ、爪には派手なネイルが施されている。見るからに不良っぽいその風体は、学校に行っていないことを窺わせた。
俺がぼんやりと女の子を見つめていると、視線に気づいたのか、女の子がスマホから顔を上げてこちらを見た。
「何?」女の子が不機嫌そうに尋ねてきた。
「あ、ごめん。その、女の子が1人で定食屋に来るの珍しいなって思って」俺は慌てて弁解した。
「ふん。ガキは家で大人しく飯食ってろって? 大きなお世話なんだけど」女の子がじろりと睨んできた。
「いや、別にそこまで言ってないけど……」
俺はたじろぎながら答えた。軽い気持ちで話しただけなのに、この攻撃的な態度は何なんだ。
「っていうか、今もう22時回ってるけど、こんな時間に1人で出歩いて大丈夫なのか?」俺はなおも尋ねた。
「何、やっぱり人のこと子ども扱いするわけ?」女の子が眉を吊り上げた。「まだ17だけど、補導とかされたことないから」
「あ、そう……。でも親は心配するんじゃ?」
「心配なんかしてない。あたしのことなんかどうだっていいんだから」
「はぁ……」
よくわからないが、親との関係が上手くいっていないのだろう。それ以上詮索すると藪蛇になりそうだったので、俺は厨房にいる喜美に声をかけることにした。
「なぁ、会計してくれよ」
だが、喜美から返事はない。カーテンが閉まっているので見えないが、出汁巻きを作るのに夢中で聞こえていないのかもしれない。俺は頭を掻くと、再び女の子の方にちらりと視線をやった。女の子はすでにスマホの操作に戻っている。
「っていうか、出汁巻き好きなんだね」
俺は何気ない調子を装って会話を続けた。女の子から、『店員に気づいてもらえず、時間を持て余している可哀そうな人』みたいに思われるのは嫌だった。
「なに、女子高生が出汁巻き頼んじゃ悪い?」女の子が挑発的な視線を向けてきた。
「いや、そういうわけじゃないけど……オムライスとか他にも色々メニューあるのに、迷わず出汁巻き頼んだなって思って」
「オムライスとか子どもの食べ物でしょ。17にもなって頼むとか恥ずかしい」
女の子が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。じゃあ20歳超えて2回もオムライスを頼んだ俺は何なんだ、と怒りと恥ずかしさが入り混じった気持ちになる。
「……まぁ、オムライスはともかく」俺は気分を落ち着かせながら言った。「あえて卵焼きじゃなくて出汁巻き選んだってとこが、何か渋いなって思ってさ」
「……別に。好みは人それぞれだから」
女の子は頬杖をついて言うと、再びスマホをいじり始めた。これ以上会話を続ける気はないようだ。
俺はため息をつき、諦めて喜美が戻ってくるのを待つことにした。
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