3ー3

 厨房に入った喜美は、すぐにカーテンをしゃっと開けて実演調理の準備を始めた。実演調理はいらないと断ったのだが、初めてのメニューなので見せると言って聞かなかったのだ。


「まずは材料ね!」喜美が張り切って始めた。「卵は3個、砂糖は大さじ1、塩は小さじ2分の1。砂糖の種類は何でもいいけど、グラニュー糖だと焦げやすいから注意ね! 後は水ね!」


「水?」俺は聞き返した。


「うん。水を入れると水分が増えて、ふわふわに仕上がるんだ! 量は大さじ2くらいかな。で、まずは卵をボウルに割り入れて、調味料を溶かした水を入れるよ!」


 喜美はそう言うと、さっそく卵を次々と割ってボウルに入れていった。


「で、ここから卵を混ぜるんだけど、今回はホイッパーを使うよ! 最初に黄身を潰して、泡立てないようにしっかり混ぜるよ!」


「何で菜箸じゃないんだ?」


「卵焼きのポイントはね、卵黄と卵白が均一になるまでしっかり混ぜることなんだ! 卵黄と卵白とで成分が違って、混ぜ方にムラがあると色がまだらになるんだ。だから菜箸より、ホイッパーを使った方がやりやすいと思うんだ!」


「ふうん……。でも、泡立てちゃいけないのは何でなんだ?」


「卵白に含まれるタンパク質の中に、泡立てると膨張する成分があるんだよ。で、その成分が膨張すると、形がでこぼこになって食感が悪くなるんだ。だから、混ぜる時はボウルの底にホイッパーを当てて、空気を入れないようにするのが大事なんだ!」


「へぇ……簡単なようで、色々と細かい工夫があるんだな」


 俺は感心して頷いた。卵焼きをよく作っていたという山本さんの奥さんは、きっと嬉々として喜美の話を聞いていたのだろう。


「で、卵を均一になるまで混ぜたら、さらにムラをなくすために1回濾すよ!」


 喜美はホイッパーをかちゃかちゃさせていた手を止めると、別のボウルの上に濾し器を置き、卵液を流し込んだ。濾し器を取ると、さらさらになった卵液が現れる。


「さぁ、ここからいよいよ焼いていくよ! まずは油を用意して、折り畳んだキッチンペーパーに染み込ませておくよ!

 で、フライパンを熱して油を引いていくんだけど、ここで涼ちゃんに問題。卵焼きの火加減はどのくらいでしょう?」


「え、知らねぇよそんなの」いきなり振られ、俺はうろたえながら答えた。「俺、料理なんかしたことないし……」


「そうなの? ダメだよ、今どき男の子でも卵焼きくらい作れるようにならないと!」


 喜美が小さい子を叱るように人差し指を立てた。俺はそっぽを向いて無視する。


「じゃ、とりあえず想像で答えてみてよ」喜美が食い下がった。


「えー……全然わかんないけど、さすがに強火じゃないだろ。巻くのに時間かかること考えたら、弱火でじっくり焼くんじゃないか?」


「うんうん、やっぱりそう思うよね」喜美が訳知り顔で頷いた。「でも外れ。弱火で時間をかけて焼くと、水分が蒸発してパサパサになっちゃうんだ。だから中火で手早く巻くのが正解! 火が強いとタンパク質が膨張して、ふっくらしやすいってのもあるし!」


「はぁ。でもそれだと、巻いてる途中で焦げるんじゃないか?」


「卵液が固まるの待ってたらそうなるね。だから半熟の状態で巻いていくのがポイントなんだ! 今から実践するから見ててね!」


 黄身はそう言うと、かちりとコンロを捻って火をつけた。火加減を調節して中火にする。


「フライパンはしっかり温めておいてね! 卵との温度差ではがれやすくなるから。

 で、温まったところで油を全体に引いて、卵液を流し込んでいくよ! 巻く回数が多いと水分が飛んじゃうから、2、3回くらいで巻けるように調整してね!」


 黄身はボウルを慎重に傾け、ゆっくりと卵液を流し込んだ。それから素早く菜箸を手に取る。


「で、半熟になったら奥から手前に巻いていくんだけど、この時、右手じゃなくて左手で巻いていくイメージね!」


「左手? 箸持ってない方の手でどうやって巻くんだよ」


「まず、左手でフライパンを軽く持ち上げるでしょ。その時に右手の箸で卵を立てて、フライパンを下ろす時に手前に倒す感じ? 左手の遠心力で巻いて、右手はあくまで添えるだけって感じかな」


「はぁ、でも何で右手で巻いたら駄目なんだ?」


「右手で巻こうとすると、手に力が入って卵が破れやすいんだよ。卵は繊細だから、扱いには注意しないといけないんだ! まるであたしみたいだよね?」


 喜美が同意を求めるように俺を見たが、俺は無視した。


「で、巻き終わったら奥へ移動させて、油を引き直してから新しい卵液を投入するよ!」喜美が何事もなかったように続けた。「最初に焼いた卵を持ち上げて下にも卵液を入れて、後はさっきの繰り返し! あ、気泡は破れる原因になるから、箸で潰しておくよ!」


 喜美が卵液の上に浮かんだ気泡を潰しながら言った。その後、再び器用に手首を返してリズムよく卵を巻いていく。見てる分には簡単そうだけど、実際には慣れがいるんだろうな。

 その後、3回目を巻き終わったところで喜美は火を止めた。フライパンの端から卵がはみ出ていて、見るからにふんわりしているのがわかる。


「さて、焼き上がったところでさっそく切り分け! ……と言いたいところだけど、その前に形を整えるよ! ここで使うのは巻き簾ね!」


「巻き簾? あの巻き寿司作る時に使うやつか?」


「そう! 巻き簾の上にキッチンペーパーを敷いておいて、卵を乗せて巻いていくよ! 熱い状態の方が変形しやすいから、作業は手早くね! で、形を整えたら水分が浸透するまで少し寝かせて、それでようやく完成!」


 巻いてから30秒ほど経ったところで、喜美はゆっくりと巻き簾を捲った。1ヶ月前に見たのと同じ、艶やかな黄色をした卵焼きがそこに乗っている。


「はい! 完成!『喜美ちゃんの愛情たっぷり、卵焼き』の出来上がりー!」


 喜美が破顔してぱちぱちと手を叩いた。実演調理に見入っていた俺はつられて拍手をしかけたが、すんでのところで思い留まった。


「あとご飯とか用意するから、もうちょっと待っててね! 待ってる間、あたしの昔の恋愛話でも聞かせてあげようか?」


「いらんからさっさと用意しろ」


 俺はすげなく言った。喜美は「ちぇー」と唇を尖らせると、いそいそと炊飯器の方に向かった。毎度のことだが、料理中の真剣な顔と普段のギャップはどうにかならないのだろうか。

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