3ー2
それから1時間ほどでバイトは終わり、俺はたまご食堂へと向かった。
季節は6月。梅雨真っ盛りのこの時期の多分に漏れず、今日もしとしととした雨が降っており、誰もが傘を片手に足早に帰路についている。この天気なら、たまご食堂に来る客もいないだろう。客さえいなければ、用事を済ませた上でさっさと帰ることができる。オムライスの誘惑に抗えずに来店を決意したものの、これ以上喜美から妙なことを吹き込まれるのはごめんだった。
10分ほど歩いたところで店に到着し、ガラガラと入口の引き戸を開けた。案の定客はおらず、俺はほっと息をつく。しかし毎回これだけ閑古鳥が鳴いていて、経営は大丈夫なんだろうか。
「あ、いらっしゃーい!」
聞き慣れた声が厨房から飛び込んできて、次いでパタパタという足音が聞こえる。どうせすぐに俺だと気づかれるのだろうが、少しでも見破られるのを遅らせようと思い、俺は顔を背けてビニール傘を畳む振りをした。
「いらっしゃい! 1名様……ってやだ、涼ちゃんじゃない」
結局秒で正体を見破られた。
俺が渋々顔を上げると、きょとんとした喜美の姿があった。150センチにも満たない小柄な身長、2つ結びのソバージュヘア。3回目ともなるとその子ども染みた姿もさすがに見慣れてしまった。
「よかった! また来てくれたんだね!」喜美がはち切れんばかりの笑顔で言った。「あたし心配してたんだよ。涼ちゃんがあたしのこと忘れてたらどうしようかなーと思って!」
「……まぁ、できれば忘れたかったけど」俺は遠い目をして言った。「インパクトあり過ぎて、忘れたくても忘れられなかった」
「あ、そう? でもよかった! 涼ちゃんがいない間、あたし寂しかったんだ! 涼ちゃんも来てくれたってことは、あたしが恋しくなっちゃったんだよね?」
「それはない」俺は断言した。
「えー、そうなの?」喜美が唇を尖らせた。「せっかく菊の花で花占いしてたのに。来る、来ない、来る、来ないって……」
「……余計なことしなくていい。っていうか何で菊の花なんだよ。花びら多過ぎるだろ」
「この前親戚の葬儀があったんだけど、注文し過ぎて余っちゃったんだ! せっかくだから有効活用しようと思って」
「……はぁ」
俺は疲れた顔でため息をついた。異様なまでのポジティブ思考は相変わらずだ。
「ま、とにかく座って!」喜美がカウンターを指し示した。「今日はこんな天気だから、お客さんも少なくってさ」
「この店はいつも客いないだろ」俺は椅子に座りながら答えた。
「あ、失礼だなー」喜美がむっとして腰に手を当てた。「こう見えても結構繁盛してるんだからね? リピーターの人も多いし」
「リピーターねぇ……。見たことないけど」
「それは涼ちゃんのタイミングが悪いんだよ! 最近だと……ほら、この前来た人覚えてる? あのサラリーマンの人!」
俺は記憶を手繰り寄せた。1ヶ月前、俺がオムライスを堪能していた時にやってきた客だ。喜美が作った卵焼きを一口食べて、奥さんの卵焼きの味を思い出した人。
「あの人、1週間前くらいに奥さんと一緒に来店してくれてさ。今度はちゃんと『卵焼き定食』食べてくれたよ!」喜美が両手を合わせた。「名前、山本さんっていうんだけど、奥さんと仲良さそうだったよ。あれから色々喋ったんだろうね」
「ふぅん……」
俺は1ヶ月前に会った山本さんの顔を思い浮かべた。見るからに悲哀の漂うサラリーマンといった風体で、仕事も家庭も上手くいっていない様子だったあの人。でも少なくとも、家庭の方は円満な方向に進んでいるようだ。
「ね、涼ちゃんもさ、せっかくだし『卵焼き定食』食べない?」喜美が尋ねた。「山本さんの奥さんからも絶賛されちゃったし。一度試してみるのも悪くないと思うんだ!」
「卵焼きか……」
俺は山本さんが注文した卵焼き定食を思い浮かべた。綺麗な黄色をした卵焼き。山本さんはあれを食べて、「お菓子みたいだ」と評していた。オムライスも捨てがたいが、確かにあの卵焼きも気になっていた。
「じゃあ、今日は俺も卵焼きにする」
「りょうかーい! 『喜美ちゃんの愛情たっぷり卵焼き定食』、入りまーす!」
喜美が誰もいないはずの厨房に向かって叫んだ。恥ずかしいメニューの名前を大声で呼ばれ、俺はとっさに喜美を殴りつけたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます