2ー4

 それから15分ほど経った後、喜美がお盆を持って厨房から出てきた。ご飯にみそ汁、漬物に冷奴、それに綺麗な色をした卵焼きが並んでいる。


「はい、お待ちどおさま!『愛情たっぷり・卵焼き定食』です!」


 喜美がそう言ってお盆を男性の前に置いた。オムライスを食べ終わった俺は、見るともなしにその光景を眺める。


「わぁ……美味しそうですね。色がとても綺麗です。妻が作ったのとは全然違うな……」男性が感嘆の息を漏らした。


「奥様もよく卵焼きを作られるんですか?」喜美が尋ねた。


「はい、妻は元々料理を全くしなかったんですが、結婚を機に始めましてね。それで最初に作ったのが卵焼きだったんです。もっとも、よく焦がしていましたから、こんなに綺麗な色にはなりませんでしたけどね」男性が苦笑した。


「卵は意外と扱いが難しいですからね。で、お客さんはそれを食べたんですか?」


「ええ。味もしょっぱかったり、逆に甘すぎたりと極端でしたが、それでも残さずに食べましたよ。妻が一生懸命作っている姿を知っていましたからね」


「そうなんですか。奥様もきっと、お客さんが食べてくれるから何回も作ろうって気になったんでしょうね」


「そうかもしれませんね……」


 男性はしみじみと言うと、箸を手にして卵焼きを割り、一欠片を口に運んだ。途端に衝撃を受けた様子で、かっと目を見開いて硬直する。


「美味しい……。全体がふっくらとして柔らかくて、とても口当たりがいい。まるでお菓子を食べているみたいだ……。どうやったらこんな卵焼きが作れるんです?」


 男性が信じられない様子で喜美を見つめた。喜美が得意げに両手を腰に当てる。


「ちょっとした手間をかけてるんですよ。今日は省略しましたけど、いつもは実演調理もやってますんで、また来てもらったらお見せできますよ」


「そうなんですか。今度妻を連れて来ようかな……」


 男性がそこで言葉を切った。卵焼きをゆっくりと咀嚼しながら、かちりと箸を置く。しばらく俯いた後、その目からみるみる涙が溢れ始める。


「え!? ちょっと、大丈夫ですか!? 今ティッシュを……!」


 俺は慌てて鞄を探ったが、喜美が片手を出してそれを制した。男性がスーツのポケットからハンカチを取り出し、そっと目元を拭う。


「すみません。お恥ずかしいところをお見せして……。この卵焼きを食べていたら、妻のことを思い出してしまって……」男性が掠れた声で言った。「妻は専業主婦で、いつも料理を作って私の帰りを待っていてくれました。ですが、仕事が忙しくなると、家で食事をするよりも、外食の機会の方が多くなってしまって……。それからです。妻が私に小言を言うようになったのは……」


 男性はそこで再び言葉を切った。噛み締めるように卵焼きを咀嚼した後、ごくりと呑み込んでから続ける。


「私の帰宅が遅くなってからも、妻は料理を作るのを止めませんでした。私が外で食べてきたから夕食はいいと言うと、黙って料理をごみ箱に捨て……。ですが、妻も本当は我慢していたのでしょうね……。私はずっと、妻が私の気持ちを理解してくれないと思っていました。ですが……本当に理解していないのは私の方だったのかもしれません」


 男性はそう言ってじっと卵焼きを見つめた。喜美が作った綺麗な卵焼き。その卵焼きを通して、彼の目は何を見ているのだろう。


「奥さん。今もお客さんの帰りを待ってるんじゃないですか?」喜美が言った。「お客さんが本当に食べたいのは、あたしじゃなくて、奥さんが作った卵焼きじゃないんですか?」


 男性は答えなかった。眉根を寄せてしばらく考え込んだ後、意を決心したようにすっと立ち上がる。


「……すみません。せっかく作ってもらったのに申し訳ないんですが、これで失礼してもよろしいでしょうか? お代はちゃんと払いますので」


「あ、大丈夫ですよ。残った分は涼ちゃんが食べますので」


 喜美がにっこり笑った。俺は思わずむせ返りそうになる。


「いや、何で俺が残飯処理しなきゃいけないんだよ!俺もう腹いっぱいだから!」


「男の子なんだからこれくらい食べれるでしょ?デザートは別腹っていうし」喜美がしれっと言った。


「……いくらお菓子みたいだからって、卵焼きはデザートにならないだろ」


 俺は呆れて息をついた。それを見て男性がくすりと笑う。


「あ、すみません。あなた達を見ていると、新婚当初のことを思い出してしまって……」男性が頭を掻いた。「私達も当時は些細なことで笑い合っていたものです。今は会話すらほとんどなくなってしまいましたが……」


「今からでもやり直せると思いますよ。まずは今日の卵焼きの話をしてみたらどうですか?」喜美が提案した。


「……そうですね。妻は今でもよく卵焼きを作りますから、きっと興味を持ってくれると思います。それで、少しずつ話ができるようになったら……もっと重大な相談もしてみようかと思います」


 男性は穏やかな笑みを浮かべながら言うと、俺と喜美に向かって頭を下げた。男性がレジの方に向かい、喜美も小走りでその後を追う。


 勘定を済ませる2人を俺は妙な気分で見つめていたが、不意に卵焼き定食の方に視線をやった。ほとんど手つかずの卵焼き。普段の俺であれば、金払ってるのにもったいないと思うのだが、その時は文句を言う気にはならなかった。

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