2ー5

「おい、いいのかよ」


 勘定を終えて戻ってきた喜美に向かって俺は声をかけた。喜美がきょとんとした顔で俺を見返す。


「いいのかって、何が?」


「定食だよ! あの人、結局一口しか食べずに帰っちまったけど、ちゃんと食ってから帰れよって思わないのか?」


「全然? あのお客さんに必要なのはあたしの卵焼きじゃなかったからね」喜美があっけらかんと言った。


「はぁ……それでよく食堂の店長が務まるな」


 俺は呆れ顔でため息をついた。料理人たるもの、自分が丹精込めて作った料理を残されたら気分を害するのが普通だろうに、こいつは気にしないという。俺は呆れを通り越して感心する思いだった。


「それにしても変な店だよな、ここ」俺は改めて言った。「客のプライバシーに踏み込んだと思ったら、いつの間にか悩み解決してるし」


「まぁ、それがこの食堂のコンセプトだからね」喜美が訳知り顔で頷いた。


「コンセプト?」


「ほら、前に言ったでしょ?この食堂を開いたのには2つ理由があるって!」


「あぁ……そんなこと言ってたな。確か名前が卵みたいだからだっけ?」


「そう! よく覚えてたね! でも、重要なのはもう1つの方なんだ。それはね、卵の可能性を伝えたいからってこと!」


「卵の可能性?」


 俺は目を細めた。いきなり何を言い出すんだこいつは。


「卵ってね、それ1つで何にでも変われる奇跡の食材なんだよ!」


 喜美が両手で頬杖を突き、目をきらきらさせながら言った。


「冷蔵庫に材料が何にもなくて、あー、困ったって時も卵があれば何とかなっちゃう。料理人の世界でも同じで、卵があれば和食も洋食も中華も何だって作れちゃう。それでね、あたし、そうやって色んなものに変われるのが、人間も同じだって思うんだ!」


「……はぁ」


 俺は曖昧に頷いた。喜美の熱弁は続いている。


「人間も卵と同じで、殻の中に色々な可能性を秘めてる。でも殻を割らなかったら、その可能性を試すこともできない。だからあたし、みんなもっと殻を割って、他の何かに変われる可能性を知ってほしいと思ってこの食堂を開いたんだ!」


「他の何かに、変わる……」


 俺は喜美の言葉をゆっくりと反芻した。昼間の昌平との会話が頭を掠める。


「じゃあ、さっきのお客さんにカウンセリングみたいなことしたのも、あの人に殻を割ってほしかったからなのか?」俺は尋ねた。


「そう! 料理はあくまでそのための手段だから。お客さんが殻を割ろうって決めてくれたのなら、あたしはそれで満足なんだ」


「はぁ……そういうもんなのか」


 俺は納得したようなしていないような顔で頷いた。卵は色々な可能性を秘めた食材で、人間も卵と同じ。卵にそんな深い意味があるなんて今まで考えたこともなかった。


「だからね、あたし、涼ちゃんにも自分の殻を割ってほしいんだ」


 喜美が急に真面目な顔になった。話が自分の方に向き、俺は咄嗟に身構える。


「もし、涼ちゃんが今何か不満を感じてることがあって、でもそれを変えられないんだとしたら、それは殻を割るのを怖がってるだけかもしれない。

 殻を割るのは確かに勇気がいるけど、だからって殻の中に閉じこもったままでいると、自分の可能性を狭めるだけってことを知ってほしい。もし、勇気を出して殻を割れば、今とは違う自分と出会えるかもしれないしね」


 俺は答えなかった。普段は馬鹿げているとしか思えない喜美の言葉が、なぜか今はずしりと心に落ちる。


「さて、それじゃ話はここまで。涼ちゃん、『喜美ちゃんの愛情たっぷり卵焼き定食』食べるでしょ?」


 1人考えに耽っていた俺は、喜美のその言葉で椅子から転げ落ちそうになった。こいつ、冗談かと思ったら、本気で食わせるつもるだったのか。


「いらないって言ってるだろ!つーか勝手にメニューの名前変えるな!」


「えー、せっかく愛情込めて作ったんだから、一口くらい食べてってよー」喜美が眉を下げて懇願した。


「……いらん。っていうか俺、こんなに長居するつもりじゃなかったんだ。バイトで疲れてるってのに、変なことに巻き込まれたせいで余計に疲れちまった」


 俺は当てつけるように言うと、椅子から立ち上がってレジへと向かった。だが、言葉とは裏腹に、店に来る前よりも身体が軽くなった感覚がある。


「ちぇー、しょうがないなぁ。でも、次もまた来てよね! その時は『卵焼き定食』の実演調理したげるから!」喜美が満面の笑みを浮かべて言った。


「……次はもう絶対来ない。これ以上面倒事に巻き込まれるのなんてごめんだ」


 俺はぶすっとしながら言うと、トレーに千円札を置いた。さっきは絆されそうになったけど、やっぱりもうこいつとは関わりたくない。食堂なんて飯を食えれば十分だ。俺は人生相談するほど悩んでないし、人の愚痴を聞かされるのもうっとうしい。


 そう言いながらも俺の頭には、帰宅したあの男性が、奥さんの作った焦げた卵焼きを美味そうに頬張る光景が浮かぶのだった。

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