2ー3

「あなたはまだ学生さんですか?」男性が尋ねてきた。


「あ、はい。大学2回生です」


「大学生ですか。いいですねぇ。あの頃の私は社会に出れば、バリバリと仕事ができるものだと信じていましたよ。でも現実は上手くいかなくて、ミスをしては上司には罵倒され、ノルマを達成できなくては同僚に嫌味を言われる日々です。そのくせ人付き合いも苦手ですから、社内政治も上手くいかず、結果出世コースから外れています。クビにならないだけ有難いのかもしれませんが」


「はぁ……大変ですね」


 俺はだんだん気が滅入ってきた。俺はオムライスを食いに来ただけなのに、何で見知らぬサラリーマンの愚痴を聞かされなければいけないんだろう。


「せめて努力だけは評価してもらおうと思って、毎日夜遅くまで仕事をしています」男性は続けた。


「残業代はつきませんが、私にはそれくらいしか出来ませんからね。ただ、おかげで妻から帰りが遅いと小言を言われるようになりました。私は家族のために仕事をしているのに、その家族が私の頑張りをわかってくれないんですから、世知辛いですね……」


 男性は自嘲気味に笑ったが、俺は胃の辺りが重くなっていくのを感じた。


「あの……俺がこんなこと言うのもなんですけど、転職してみたらいいんじゃないですか?」俺は堪りかねて言った。「もしかしたら仕事が合ってないのかもしれないし、人間関係だって転職したら変わるかも……」


「確かに、何度か転職は考えました」男性は頷いた。「ですが、私のような人間を雇ってくれる会社があるのか、と考えると不安になりましてね。私のような何の取り柄もない人間が環境を変えたところで、かえって状況が悪化するだけではないかと……。それなら今の会社にぶら下がっていた方が得だという気持ちもあります」


「それは……何となくわかる気がします」


俺は頷いた。昼間の昌平との会話を思い出す。結局昌平もこの男性も、現状を変えたいと願いながらもその一歩を踏み出せずにいるのだ。


「……と、すみません。つい話し過ぎてしまいました。退屈でしたよね」


 男性が申し訳なさそうに言った。肯定するわけにもいかず、俺は短く「いえ」と言った。

 男性が鞄から新聞を取り出して読み始めたので、俺はほっと息をついた。そこへちょうど喜美がオムライスを運んでくる。


「はい、涼ちゃんお待ちどおさま!『たまご食堂特製・ふわとろオムライス』です!」


 忘れかけていたその名前を大声で言われ、俺は喜美を殴りつけたくなった。男性の方にちらりと視線をやるが、特に気にした様子はない。


「……普通にオムライスって言えばいいだろ。何でいちいち『ふわとろ』をつけるんだ」俺はじろりと喜美を睨みつけた。


「えー、だってこれが正式名称だし。あっちのお客さんが頼んだ卵焼きだって……」


「はいはいわかったから。さっさと厨房行って卵焼き作れよ」


 俺はすげなく言ったが、喜美は立ち去らなかった。俺ではなく、新聞を読んでいる男性の方を見つめている。


「あの、お客さん、ちょっといいですか?」


 喜美が言った。男性が新聞から顔を上げる。


「はい、何でしょう?」


「さっきの涼ちゃんとのお話が聞こえちゃったんですけど、お客さん、転職を考えられてるんですか?」


 おい、客のプライベートに踏み込むのはさすがにまずいだろう。俺は喜美を制止しようと腰を浮かせたが、男性は気を悪くした様子もなく笑った。


「ええ、そうなんです。応募を考えた求人もあったんですが、結局申し込みまではいきませんでした。きっと面接が怖いのでしょうね。もし不採用が続けば、自分は社会に必要とされていない人間なんだと思い知らされそうで……」


 男性は自嘲気味に笑ったが、俺は笑えなかった。喜美のエプロンを引っ張り、それ以上突っ込むのは止めろ、と知らせようとする。


 だが、喜美は止まらなかった。男性に向かってさらなる爆弾を投下する。


「でもそれって、結局自分の殻に閉じこもってるだけですよね?」


 男性がはっとして喜美を見返した。喜美は真顔で男性を見つめている。


「さっきからお話聞いてると、お客さんは、自分で自分を駄目な人間だって決めつけてる気がするんです。自分は平凡だとか、何の取り柄もないとか言って、自分で自分の可能性に蓋をしてる。でもあたし、それは違うと思うんです。」


「おい、いい加減にしろ!」


 さすがに黙って聞いていられなくなり、俺は立ち上がって喜美の腕を掴んだ。喜美がこちらを振り返る。


「お前さ、何様のつもりなわけ? 上から目線で人のこと決めつけて! お前はいいよ。料理が上手くて、自分の店まで持ててるんだからな。でもこの人は違うんだ! お前みたいな特技や才能がなくて、でも家族を養っていかなきゃいけないから、自分に与えられた環境で必死に頑張ってるんだよ! それが何だよ。現実から逃げてるみたいに言って! お前にこの人の何がわかんだよ!」


「わかんないよ。だから言いたいんだよ。殻を割らなきゃいけないって」


 喜美が悪びれもせずに言った。俺は怪訝そうに喜美の顔を見返す。


「人間、どんな可能性があるかわからないんだよ?」喜美は真面目な顔で言った。「殻を割ったら、今とは全然違う自分が見つかるかもしれないのに、それを最初から閉じ込めちゃうのってもったいないと思わない?」


「いや、そうかもしれないけど……」


 俺は首を振った。喜美の言い分もわからないではないが、少なくとも食堂の店主が客に言う言葉ではない。男性が気分を害したとしても無理はないだろう。

 俺はおずおずと男性の方を振り返ったが、男性は意外にも冷静な顔をしていた。喜美から視線を外し、床をじっと見つめている。


「……殻を割るためには、どうすればいいのでしょうか?」


 男性がぽつりと言った。俺は目を見張って彼の方を見つめる。


「簡単ですよ。思い出せばいいんです」喜美がにっこり笑って言った。


「思い出す?」


「はい、自分が大切にしていたもののことを思い出すんです。そうすれば、自分がこれから何をすればいいかがわかると思います」


 喜美はまた謎めいたことを言う。俺は当惑しながら男性の方を見たが、男性は神妙な顔をして頷いた。


「なるほど。ですが、どうすればそれを思い出せるのでしょうか?」


「そうですね。まずはあたしの料理を食べてもらってもいいですか?そこに何かヒントがあるかもしれません」


 男性はゆっくりと頷いた。喜美はエプロンを翻して厨房に戻っていく。俺は状況についていけずにその場に立ち尽くしていたが、やがて諦めて席に着くと、やけくそな気分で冷めたオムライスをかっこんだ。

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