2ー2

 その日の夜、俺は例によってバイトを終え、晩飯を食う場所を探すべく大通りを歩いていた。今日は店長の機嫌が悪く、レジを打つのが遅いとか、商品が綺麗に陳列されていないとか、いちいち難癖をつけられたせいでいつもより疲労感が強い。路地に入って店を探す元気はなく、適当なチェーン店に入ってさっさと帰ろうと思っていた。


 その時、ふとあの食堂のことが頭に浮かんだ。あの絶品オムライスと、馴れ馴れしい女店長のことも。前に行ってからかれこれ1ヶ月が経っている。久しぶりに行ってみるのも悪くない――。


 自分がそんなことを考えているのに気づき、俺は慌てて首を振った。ただでさえも疲れているのに、あいつの相手なんかしたら疲労感が増すだけだ。第一、俺はあの店には二度と行かないと宣言した。一度言ったことを撤回するなんて男として格好悪い。


 だが――そこで腹の虫が大きく鳴り、俺は慌てて周囲を見渡した。幸い、誰にも聞かれた様子はない。俺は安堵の息をつくと、自分の腹に手を当てた。どうやら俺の身体は、チェーン店のありふれた味ではなく、あのオムライスを欲しているようだ。


 俺はしばらくその場で逡巡していたが、やがて速足で路地の方へと向かった。あいつとまた顔を合わせるのは気が進まないが、これもオムライスのためだ。用を済ませたらさっさと帰ることにしよう。


 店は前と同じ場所にあった。俺は少しためらった後、思い切って引き戸に手をかけた。ガラガラと音がして、1ヶ月前にも見た店内の光景が目に飛び込んでくる。やはり客は1人もいない。


「あ、いらっしゃーい!」


 厨房の方から知った声がして、次いでパタパタとした足音が聞こえる。俺は喜美きみと顔を合わせるのが気まずくなり、壁に掲げられたメニューを見ている振りをした。


「いらっしゃい! 1名様ね! 煙草は吸う? カウンターとテーブル席は……ってあれ、もしかして涼ちゃん?」


 俺の抵抗もむなしく、喜美はあっさりと正体を見破った。俺は渋々正面に向き直る。1ヶ月前と同じ格好と髪型をした喜美が、目を丸くして俺の顔を見つめていた。


「……どうしたの涼ちゃん、あれだけ来ないって言ってたのに。どういう風の吹き回し?」


 喜美がいかにも不思議そうに尋ねてきた。俺はばつが悪そうに俯く。


「……本当は来るつもりじゃなかったけど、この店、全然客入ってなさそうだったから。潰れたら可哀そうだと思って」


「へぇ、心配してくれたんだ? 涼ちゃんって意外と優しいんだね!」喜美がぱっと顔を明るくした。


「意外と、は余計だ。文句あるなら帰るぞ」俺はぶすっとして言った。


「あ、ごめんごめん! 怒らないで! あたし嬉しいんだよ! 涼ちゃんがまた来てくれて!」


 喜美が慌てて取りなした。俺はまだ憮然としていたが、オムライス目当てで来たことがバレずに内心ほっとしていた。


「まぁとりあえず座って! メニュー持ってくるから! あ、それか今日も『ふわとろオムライス』にする?」喜美が尋ねてきた。


「今日は長居するつもりないから、前と同じやつでいい。実演調理もいらない。」


「あ、そう? わかった! すぐ作るから待っててね!」


 喜美はそう言うと、パタパタと厨房の方へ引っ込んでいった。相変わらず忙しい奴だ。だが、これでひとまずオムライスは食べられる。俺は安堵の息をつくと、前と同じカウンターの席に腰掛けた。


 カウンターと厨房を仕切るカーテンは開かれず、厨房を歩き回る喜美の足音だけが聞こえてくる。今日はテレビも点いておらず、店内はいたって静かだ。これでようやく一息つける。俺は暇潰しのために鞄からスマホを取り出そうとした。

 その時、入口の引き戸がガラガラと開く音がして俺は顔を上げた。30代くらいのスーツ姿の男性が1人、様子を窺いながら店内に入ってくる。


「あ、ええと……まだ営業中ですよね?」


 男性が俺に向かって尋ねてきた。俺は厨房の方を見たが、喜美が駆けてくる様子はない。


「はい。この店23時までらしいんで」俺はスマホを手に取りながら答えた。


「そうですか。ならよかったです。看板の灯りは点いていましたが、表にメニューも何もなかったもので、閉店しているのではないかと心配だったんです」


 男性は安堵した顔で言った。そこでようやく客の来店に気づいたのか、喜美がタオルで手を拭きながら現れる。


「いらっしゃいませ! 1名様ですか? お煙草は吸われますか?」


「あ……はい、1人です。煙草は吸いません」男性が気圧された様子で答えた。


「わかりました! お好きなお席にどうぞ!」


 喜美はにっこり笑って言うと、メニューを取りに店の奥へと向かった。男性は当惑した顔で喜美の背中を見つめた後、俺から3つ離れたカウンター席に腰掛けた。っていうかあいつ、ちゃんと客に敬語使えるじゃないか。


「注文が決まったら呼んでくださいね! もし聞こえないみたいだったら、そこの涼ちゃんに言ってもらえれば代わりに呼びますんで!」喜美がお冷とメニューを男性の前に置きながら言った。


「いや勝手に決めるなよ。俺だって客だっつうの」俺は素早く突っ込んだ。


「いいでしょ? あたしと涼ちゃんの仲なんだから。じゃ、お願いね!」


 喜美は取り合わずに言うと、さっさと厨房に引っ込んでしまった。人の話を聞かない奴だ。俺は大袈裟にため息をつく。


「あの、あなたはあのお嬢さんのお友達なのですか?」


 男性が不思議そうに尋ねてきた。俺は男性の方を向き、苦笑しながら答える。


「あ、いや、友達とかじゃなくて、知り合いっていうか……。でも俺もこの店1回来ただけなんですよ。なのに妙に馴れ馴れしくて」


「そうなのですか。でも仲が好さそうでしたね。羨ましい限りです」


 男性が表情を緩めて言った。俺は曖昧に「はぁ」と相槌を打つ。


 男性がメニューを捲り始めたので、俺も正面に向き直ってスマホを弄った。5分ほどしてから男性の声が聞こえたので、操作を中断して顔を上げる。幸い声は聞こえたようで、喜美が両手でしゃっとカーテンを開けた。


「この卵焼き定食を1つお願いします」男性がメニューを指差しながら言った。


「『愛情たっぷり・卵焼き定食』ですね! かしこまりました! 少しお時間かかりますがよろしいですか?」


「構いませんよ。時間はたっぷりありますので」


「かしこまりました!」


 喜美はにっこり笑って言うと、再び勢いよくカーテンを閉めた。『ふわとろ』の次は『愛情たっぷり』とは。いちいち恥ずかしいネーミングセンスだ。


「あのお嬢さんは大したものですね」


 男性が不意に呟いた。自分が話しかけられているとは気づかず、俺は少し反応が遅れた。


「え?あ、すいません。何ですか?」


「あぁ、こちらこそすみません。急に話しかけてしまって……。あのお嬢さんは1人でこの店を切り盛りされているのでしょう?お若いのに大したものだと思いましてね」


「あぁ……確かにそうですね」


 俺は頷きながら、この人は喜美をいくつだと思っているのだろうと訝った。


 男性がそれ以上何も言いそうになかったので、俺は再びスマホに視線を落とした。知らない人から話しかけられるのは慣れていない。この男性だって見るからに大人しいサラリーマン風で、食堂でたまたま出会った人と会話を楽しむタイプには見えない。この店があまりに奇妙なので声をかけてきただけだろう。

 と思っていたら、男性はまたしても俺に話しかけてきた。


「若い方で独立されている方を見ると、本当に立派だと思いますよ。私は見ての通り平凡なサラリーマンですから、起業しようなどとは夢にも思いません。家族を養うのに精一杯ですからね」


「はぁ」


 俺は曖昧に相槌を打った。何だか面倒なことになってきたな、と思いながらスマホを脇に置く。

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