1ー4
いつもなら食事はせいぜい15分もあれば終わるのに、その日は25分もかかってしまった。時計を見ると時刻は22時半。随分と長居してしまったようだ。
「あのー、お勘定したいんだけど」
お冷を飲んで一息ついたところで、俺は厨房に向かって声をかけた。食器を触るかちゃかちゃという音が止み、厨房から喜美が現れる。
「あ、綺麗に食べてくれたね! やっぱり美味しかったんだ?」
喜美が俺の前にある皿を見ながら、満面の笑みを浮かべて言った。確かに相当美味かったので、ケッチャプソースすらほとんど残さずに食べてしまった。なんてことを正直に言うとまた図に乗りそうだったので、適当にお茶を濁しておく。
「まぁ……腹減ってたしな。それより早くお勘定すれば? もう閉店なんだろ?」
「大丈夫! うちは23時まで営業してるから! 『時間を気にせずゆっくりと食事を』がうちのコンセプトなんだ!」
喜美がえへん、というように腰に手を当てた。夜遅くまでの営業は有り難いが、防犯上問題はないのだろうか。特にこんな高校生みたいな女の店主では。
「あのさ、ところで、もう一個質問してもいい?」
レジカウンターの前に立ち、財布を取り出しながら俺は尋ねた。
「何?」
「この店ってさ、卵料理限定で和洋中全部扱ってるみたいだけど、何でそんな面倒なことするんだ? 和食なら和食、洋食なら洋食で統一した方が調味料揃えるのも楽じゃねぇの?」
「あー、やっぱそこ気になる? 気になるよねぇ?」
喜美がそわそわと身体を動かし始めた。聞かなきゃよかった……と俺は早くも後悔したが、撤回するわけにもいかないので渋々頷く。
「理由は2つあるんだけど、まずはあたしの名前かな」
「名前?」
「うん。忘れちゃった? 白井喜美っていう可憐でキュートな名前!」
「いや、忘れてないけど……その名前がどうかしたのかよ?」
「あれ、わかんない? じゃ、何回か連続して言ってみてよ。早口言葉みたいに!」
「はぁ……」
俺はわけがわからないながらも、言われたとおりに小声で繰り返した。白井喜美、白井喜美、白井きみ、白井きみ、しらいきみ、しらいきみ、しらみきみ、しろみきみ……。
「……白身黄身?」
「あ、言ったね! もう、それ気にしてるんだからね?」
喜美が怒った顔で腰に手を当てた。言わせたのはあんただろ。
「ね? ひどいと思わない? 苗字が『しらい』で、名前が『きみ』なんてさ。これじゃまんま卵だし、名前つける時にもうちょっと考えてくれたらいいのにね?」
さっきは可憐でキュートな名前って言ってたじゃないか。
「……つまり、名前が卵みたいだから、卵料理専門の店にしたってこと?」
「そう! 最初は役所で名前変えてもらおうとしたんだけど、ダメだって言われて。だったら逆にこの名前を利用するしかない! って思って、それでこの食堂を開くことにしたんだ!」
「はぁ……」
卵みたいな名前をした女が、卵料理専門店のシェフになる。コンセプトとしては確かに面白いが、その呆れるほどのポジティブ思考は何なんだ。
「それで? さっき理由は2つあるって言ってたけど、もう1つは何なんだ?」
俺はさしたる興味もなく尋ねた。大方、牧場育ちで毎朝鶏の鳴き声で起きたとか、三度の飯に卵料理が出てきたとか、、そんなくだらない理由なんだろう。
だが、トレーに千円札を置いて顔を上げると、喜美は意外にも真面目な顔をしていた。
「もう1つの理由……。知りたい?」
「え?うん、まぁ……。聞かないのも気持ち悪いし」
「そっかぁ。涼ちゃんがそこまで言うなら、教えてあげちゃおっかなぁ」
喜美はまたもそわそわと身体を動かすと、レジカウンターに肘をついて俺の顔を見上げてきた。内緒話を打ち明けられるようで、俺も少しだけ喜美の方に上体を動かす。
「……この食堂を開いたもう1つの理由はね」
「……うん」
妙な緊張感が漂い、俺はごくりと唾を飲み込んだ。テレビの漫才番組は終わったのか、ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げる音が店内に響く。
「……やっぱ止めた!」
喜美がレジカウンターから身を起こして宣言した。俺は咄嗟にずっこけ、レジカウンターに頭をぶつけそうになる。
「はぁ!? 何だよそれ! 散々もったいぶっといてそれはねぇだろ!」
「だってほら、今日涼ちゃんはいろんなものを味わったわけじゃない? このお店の存在を知って、おいしいオムライスが食べられて、可愛い店長とお喋りできて、もうお腹いっぱいでしょ? 食べ過ぎは身体によくないよ」
「いや、そうだけど……。中途半端に情報出されたまま帰っても後味悪いっつーか……」
「じゃあ別の日に来ればいいんだよ! 今度はデミグラスソースで作ったげるから! 『ふわとろオムライス』!」
「いや、それはいらん。第一、俺もうここに来るつもりないし」俺はにべもなく言った。
「え、何で? 『ふわとろオムライス』気に入らなかった?」喜美が悲しそうに眉を下げた。
「いや、そうじゃないけど……。飯食うとこなら他にいくらでもあるし」
「えー! そんなこと言わないでよー! せっかく涼ちゃんとお近づきになれたのに、このままお別れなんて寂しいよー!」
喜美がふるふると首を振り、公園に置き去りにされた犬のような目で俺を見上げた。幼い外見のせいで、子どもをいじめているような錯覚に襲われる。
「俺、卵料理がすごい好きってわけでもないから。今回はたまたま見つけたから入ったけど、わざわざもう1回来ようとまでは思わないし。」
「えー、でも知りたくないの!? たまご食堂の秘密!」
「まぁ、多少は気になるけど……っていうか教えたいのか教えたくないのかどっちなんだよ?」
「うーん、教えてあげたいけど、今すぐにはちょっと……って感じ? わかんないかなー、この揺れ動く微妙な乙女心!」
わからないし、わかりたいとも思わない。
「……何でもいいけど、さっさとお釣りくれない? 俺、明日朝から授業なんだよ」
俺は痺れを切らして言った。喜美は不満げに唇を尖らせると、レジから小銭を取り出してトレーに乗せた。俺は黙ってそれを財布に入れ、さっさと店から出て行こうとする。
「涼ちゃん! あたし待ってるからね! 『ふわとろオムライス』、絶対食べに来てよね!」
入口の引き戸に手をかけた時、喜美が叫んだ声が耳に飛び込んできた。しつこいやつだ。俺は振り返らないまま引き戸を開けると、そのまま店を出て行った。
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