第3話 運命の雨
課題である静物画を黙々と仕上げる日々。家には極力持ち込まないようにし、学校で作成を続ける。宇美の学校に美術部はないので放課後、一人で美術室を借りて描く。
両親には放課後勉強していると嘘を言って遅くに帰っていたがバレてしまったようだ。
「宇美!勉強もせずに絵を描いてるってどういうこと?!」
母のヒステリックな声が家中に響く。
(
母の後ろで千佳が楽しそうに笑っている。昨日漫画の取り合いをしたのでその腹いせに母に告げ口したらしい。宇美は黙って千佳を睨むが千佳はそっぽを向いた。
「やめなさいっていったわよね?絵なんてなんの役にも立たないって」
一度怒った母を止めるのは難しい。黙って嵐が過ぎ去るのを待とうとしたがそれを見破った母は行動に出た。
「黙っていれば良いと思ってるの?いつの間にこんなものまで買い込んで無駄遣いして……」
宇美のクロッキー帳とスケッチブックの入った紙袋ごとミ箱へ投げ入れた。きっと千佳が画材道具の隠し場所も伝えたのだろう。
その時宇美の心の中が炎で包まれた。
頭が、指先が、心臓が熱くなる。
普段の宇美なら仕方ないと思って暫く絵を描くのを我慢し、母が忘れた頃を見計らって鉛筆でこそこそと描くのだが今日ばかりは違う。
「私は……絵を描くことを止めない!」
そう声高々に宣言すると乱暴にゴミ箱をひっくり返しクロッキー帳とスケッチブックを取り出した。他のゴミが部屋の中に散乱するのも気にせずに。
母は余計に逆上した。
「馬鹿なこと言わないの!やっとまともになったと思ったのに。絵なんて描いてなんになるのよ!お金が無駄にかかるだけでしょ?それより勉強して、食べて行けるような職に就きなさい」
「うるさい!絵を描くことは私の命なの!それを描くなと言われることは死ねと言われる事と同じだ!」
声を張り上げて怒ったのはこれが初めてかもしれない。あまりの強さに宇美の母は一瞬怯んだがすぐに口答える娘を説き伏せようとする。
「何言ってるの!親に口答えするのもいい加減にしなさい!死ねだなんて大袈裟な……。あんたたちが路頭に迷わないように勉強させて、生活させてやってるのに」
「……もういい。理解してくれなくてもいい。私は何度捨てられても、何度否定されても絵を描き続けてやるから!」
そう言って宇美は母を睨みつけるとゴミ箱に捨てられた画材道具を紙袋に纏めると抱え込んでリビングから飛び出す。
「社会にでたらそんなんじゃやっていけないわよ!」
母が留めの一言を叫ぶが逆に宇美を奮い立たせた。
「好きなこともできない社会になんかいたくない!こんなところ……いなくなってやる!」
「ちょっと……宇美!」
母が制止するのも、妹が目をまん丸に見開いているのも全て置き去りにして駆け出した。
玄関のドアを蹴り破るように開けると夢中になって走る。
走っている途中で空から水滴が落ちてきた。
「何でこんな時に雨なんて降るの!最悪っ!」
宇美は独り言を言いながら雨で画材道具が濡れないようにジャージの下に潜ませる。自分が変な体勢で走っているのも気にせずに走り続ける。
向かう場所はただ1つ。
走りながら宇美は泣いていた。怒っている時は気が付かなかったのだが宇美の心はズタズタになっていた。傷ついていたのだ。
一度涙が流れると止めることはできない。だから格好悪いと思いながら宇美は泣きながら走る。
走っているのと泣いているのとで宇美の呼吸は滅茶苦茶になった。宇美の顔は雨の水滴と涙でぐしゃぐしゃだ。雨が強く降ってきたせいで顔だけでなく全身もびしょ濡れになった。
庄内川が見えてくると向かい風が宇美を襲った。あまりの強さに地面に転びそうになるがジャージの中にある画材道具を庇うようにして雨風を凌ぐ。
「何だ?こんな雨に絵でも描きに来たか」
久しぶりに聞く三郎の声に宇美は弾けるように顔を上げる。
宇美と同じく傘もささずに雨に打たれる三郎の姿があった。面白いものでもみるように口の端を上げていた。
宇美は泣いていたことを悟られないように顔を軽く腕で拭うと数メートル先にいる三郎に向かって声を張り上げる。
「んなわけないでしょう!こんな雨の日に絵を描くほど馬鹿じゃない」
「わからんぞ。俺もお前もうつけだからな!」
「三郎こそ……。こんな雨の日、川でなにやってんの」
「雨が降るとどのくらい川の水位が上がるのか見ようと思うてな」
宇美は呑気な三郎の姿を見て身体の力が抜けた。
「やっぱり馬鹿じゃん」
「それとうつけに会える気がしてな。暫くぶりだな」
宇美は雨に打たれながら呆然と立ち竦んでいた。そう言えば学校やコンクールのことで手一杯だったので「暫くぶり」というのはその通りだった。
「そうだ……。私、最近絵の道に向かえるようになったんだよ。人に絵を褒められてさ……。でもやっぱり私の行く道を邪魔するものがある。ほんと神なんていないんじゃないかと思うぐらい最悪なことばっか……」
三郎も雨に打たれながら黙って宇美の言葉を聞いている。
宇美はそんな三郎に向かって弱音を吐こうとしていたが、堂々と仁王立ちする三郎を前にするとそんな気持ちはどこかへ飛んで行ってしまう。
(負けてたまるか)
それは三郎に対してなのか、自分に対してなのか……
「人間五十年、
三郎は雨の中、口を開けて笑った。その言葉は少し前に宇美に話していたのは
「よう言った!俺もお前のように戦う。いつ死ぬかも分からない、神も仏もない時代でな!こんな悪天候でさえ味方につけてみせよう!」
その台詞に宇美は可笑しく思って声を上げて笑う。こうしてうつけ2人は雨の中で暫く笑いあった。
「三郎ならできる!……勇気をくれてありがとう!私も戦うから!えーと……元気で!」
宇美は途中で何を言っていいか分からなくなって別れの言葉を紡ぐ。
「ああ。お前こそ。今度その庄内川の絵を
再び強い向かい風が吹いて宇美は目を開けることができなかった。目を開けた時に三郎はもういない。
「雨……止んでる」
一人残された宇美はジャージの中に潜ませた画材道具を確かめる。紙袋とスケッチブックの表紙が濡れていたが絵は守りきれたようだ。
「良かった……。私、守れたんだ」
「おねーちゃーん!」
「宇美ーー!」
遠くから母と千佳の声が聞こえたような気がして振り返る。見間違いかと思ったがどう見てもこちらに走ってきているのは母と千佳だった。
傘を持って此方に向かって走って来る。
「ごめん……なさい。あんたがこんな……とこいなくなってやるっていうから」
「あたし、まさかお姉ちゃんがそんな本気だと思ってなくて……。庄内川で死んじゃったらどうしようと思って……」
2人はびしょ濡れになった宇美の肩を掴みながら口々に話す。千佳は安心感から泣きだしてしまった。
「どうして庄内川だって分かったの?」
「宇美のスケッチブックよ。あれ、庄内川でしょう。……上手く描けてたから」
宇美はただ呆然としていた。母と千佳は自分の絵を見てくれていたらしい。「そのままだと風邪ひくから」と言って宇美に帰宅を促す。
宇美はびしょ濡れになった紙袋を腕に強く抱きしめると2人の後を追う。
時々後ろを振り返るのだが三郎の姿は跡形もない。やがて宇美は顔を上げて真っすぐ前を向いて歩いていく。
そのあとで何度か宇美は庄内川に足を運んだが随分と長い間、三郎が現れることはなかった。
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