第2話 狼煙

芳野よしのさん今日学校来とる」

「でもいつもと何か違くない?」


 廊下で女子生徒の噂話が聞こえる。それに伴い複数の視線が自分に突き刺さるのを感じた。宇美うみはそれを鬱陶しく思いながらも廊下をがつがつと歩く。


(ああ!もう聞こえてるっつうの!)


 宇美は女子生徒に喚き散らしたい気持ちを抑える。三郎に教えてもらった策を実行しているのだ。

 規則正しく着こなした制服に綺麗に整えられ高くひとつに結ばれた髪。背筋をしゃんと伸ばした姿はどう見ても模範生だ。

 宇美は昨日の三郎さぶろうとのやり取りを頭の中に蘇らせる。


「ええか。まずは真っ当な人間になったように思わせるんだ」

「真っ当な人間になったように思わせる?」


 宇美は三郎の言葉に首を傾げた。三郎と同じ言葉を繰り替えしてしまう。


「俺はうつけのふりをして周りの人間を欺いとるがお前は逆だ。真っ当な人間のふりをして周りを欺けばええ」

「ということは……あんたは今わざと変わり者のふりをしてるってこと?ていうか私が真っ当じゃないってどういうことよ?」


 宇美が三郎を睨みつけると三郎は更に面白そうに笑った。


「他の者とは別の道を歩もうとしとる。俺と同じうつけだ!」

「うっさいな……。あんたと一緒にしないでよ。それで?真面目に振舞ってなんになるの?」

「他人の目を逸らすことができればこちらは影で自由に動ける。ついでに敵味方を見極められるでな。

 俺は今馬鹿のふりをすることで侮られとる。だがそれでええ。俺が馬鹿ではないことを知った時、周りの奴らは驚き遅れを取る。お前の場合、真っ当な振る舞いをすればええ。さすれば絵を描くなという奴の目を逸らすことができる」


 宇美は数回瞬きを繰り返した。意外にも現実的で効力のありそうな提案に黙り込んだ。自分を殺してまで周りに合わせるつもりはなかったが敢えて合わせるという考え方はなかった。


「敢えて演じてやるのよ。周りの奴らはさぞ驚くだろうな!」


 三郎は腕組して庄内川の方を再び眺める。宇美は今までの鬱屈とした気持ちが吹き飛び心臓の鼓動が早まるのを感じた。


「その作戦。いいかも」


 三郎に礼を言おうと思った瞬間、強い風が吹く。飛んで行ってしまったクロッキー帳に視線を移す。


「あれ?三郎?」


 辺りを見渡すが三郎の姿はどこにもない。宇美は不思議に思いながらもクロッキー帳を拾い上げ、庄内川を後にしたのだった。


 こうして三郎の作戦を実行すべく宇美は学校へやってきた。

 ノートにデッサンばかり書いて全く授業を聞かなかった宇美は真面目に授業を聞き、渋々だがノートを取り始めた。絵を描く時間以外全て無駄だと思っていた宇美だったが意外と授業の面白さに目覚める。


(……この物語。絵の題材に使えるかも)


 時々ノートに教室を描いたりして気を紛らわせてしまうこともあったが真面目な生徒を演じる。


「私今日から勉強に集中するから。部屋に入ってこないで」


 宇美は両親に声高々に宣言した。妹の千佳ちかだけは胡散臭そうな目で宇美を見ていたが父と母は大層喜んだ。


「やっとまともになったか!宇美」

「分かったわ。勉強頑張ってね」


 静かに扉を後ろ手に閉めると宇美は声を殺して笑った。


(なーんてね)


 禁止されたはずの絵を堂々と描き始める。捨てられた絵具を買い直し、紙袋に隠したスケッチブックを取り出す。

 宇美は初めて自由になれた気がした。両親が突然部屋にやってくる恐怖を背中で感じながら一方で好きなことを堂々とする。水彩画であればパレットを洗浄する必要はない。ペットボトルの水を少しずつ使用すれば筆を洗っている所を見られることもない。

 同室の妹が隠れて絵を描く宇美の姿を軽蔑するような眼差しで見ているが無視だ。

 宇美は夢中になって色彩をスケッチブックにのせる。絵具を捨てられて以来、白黒だった宇美の絵は色彩豊かな絵へと変わっていった。


「皆、芳野のデッサンを参考にするように」


 久しぶりに参加した美術の時間、宇美の絵が先生に高く評価された。宇美の絵を初めて見たクラスメイト達はざわつく。


「でらすげえ。芳野って絵上手かったんだな」

「もしかしてずっと授業をサボっとったのって絵を描くため?」


 宇美は周囲の温かく、柔らかな反応に驚いた。誰も絵を描くことを否定しなかった。


(絵を描いてること馬鹿にされて否定されるだけだと思ってたけど……。そんなことないんだ。もしかして……全部私の思い込み?)


 宇美は美術の授業ですら参加するのを拒んでいた。絵を描くと周りの人に否定される。自分の好きなことが、時間が奪われると思っていた。


(もしかして私を閉じ込めていたのは……。私自身だった?)

 

「今度絵画コンクールがあるんだ。芳野、出してみないか」

「……はい!」


 宇美は元気よく美術の先生に返事をした。閉ざされた、狭い世界が広がっていくような感覚がして宇美の心は弾んだ。


 軽い足取りで庄内川へスケッチに向かった。暫く真剣な表情で絵を描いていると強い風が吹き、宇美はクロッキー帳を飛ばされないように手で固く握る。目に砂が入り、宇美は一時的に視界を閉ざしてしまった。


「何だ……?芳野?」


 三郎の拍子抜けした声が背後から聞こえてきて宇美は大きく振り返る。数日ぶりにあった三郎はいつかあった時と変わらない、奇抜な格好で立っている。


「三郎!ちょっと聞いてよ。あんたの策、上手くいったんだ」

 

 宇美はそれすら気にならないと言った様子で最近の自分の様子を語った。得意げに語る宇美の姿を見て三郎も愉快そうに笑う。


「それはええ。俺もそろそろ周りを驚かせる時がくるだろうがきっと、乗り越えなければならない困難が待ち受けとるだろう」


 覚悟したような三郎の物言いに宇美は少し不安になる。


「あんたなら大丈夫でしょ?それだけ賢く立ち振る舞ってるんだから……」

「分からない。最近俺の後見役が俺に絶望して死んだんだ」

「後見って……。あんた金持ちの息子だったの?その人が亡くなったってどういうこと?」


 宇美は三郎の言葉に固まった。淡々と事実を話しているがどこか寂しそうな表情をしているのを感じ取る。思わずスケッチしていた手を止めた。


「まあそんなところか。後見役の爺は俺のこれからのことを心配してくれとったんだ……。本当に。俺が当主に相応しい人になることを願って自害した」


 宇美は悲惨な出来事に暫く言葉が出なかった。同時に気が付いたことがあったがそれは静かに胸にしまい込む。今はそんなこと関係ない。ただ目の前にいる少年を励ますだけだ。


「それでも俺はうつけを止めることはできん。まだその時じゃないからだ。これから起こる大きな戦に備えるために俺は折れるわけにはいかん」


 宇美は敢えて三郎から視線を外し、庄内川を眺めながら言った。


「……どんなに辛いことがあっても自分の行きたいところに行くだけでしょ。その人があんたを思って亡くなったのなら尚更なおさら。あんたは走らなきゃ」


 その言葉を聞いて三郎は目を丸くして宇美の横顔を眺めた。そして小さく笑うと立ち上がって宇美に背を向ける。


「うむ……。まさかうつけに励まされるとは」


 宇美はいつもの調子に戻った三郎を睨みつけながらも安心した。何と言葉をかけていいか分からなかったが勇気づけられたようだ。


「俺もお前も止まっている暇はないな!この世は夢幻ゆめまぼろしごとくでな!」

「何それ?どういうこと」


 元の調子に戻った三郎は得意そうに宇美に歌のようなもの口ずさんでみせた。小難しい言葉に宇美は眉を顰める。


「これはな……」


 それから暫く宇美は三郎が好きなものの話に付き合わされた。

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