おじいさんはゆっくりと人形たちの置かれた一角へと歩み寄りました。

 そしてそこにあった椅子に座ってしばらく月を見ていましたが、やがて大儀そうに身を起こすと、手を伸ばしてアンナの髪に触れました。


 そしてその乱れを直してやると、静かに話しかけたのです。

「アンナ。そしてみんなも。今までよくがんばってくれたな。わしは、お前たちが動けるうちはずっとこの劇を続けるつもりでおった。だが、もういかん。わしの方がいけなくなってしまった。もう、満足に指も動かせん。声も出せん。」


 おじいさんは少し言葉を休むと、やがて思い切ったように言いました。

「わしはもう、明日の公演を最後にしようと思うんだ。」

 おじいさんはしばらくアンナの顔を見ていました。そして優しい声で訊いたのです。

「もう、許してくれるかい。アンナ。」


 もちろんアンナからの返事はありません。おじいさんはふと微笑むと、立ち上がって寝室の方へと、帰っていきました。


 遠くで寝室の扉が閉まる音がすると、まずジベールが立ち上がって叫びました。

「おお。なんということだ。世界の終わりはいつか訪れるとはわかっていたが、それが今まさに目の前までやってきて、お辞儀をしてくれようとは。」


 ワゴットも声をからげて言いました。

「紳士たるもの、取り乱してはならん。ならんのだが、なんたることか。私は取り乱してしまいそうだ。かといって、私が紳士でないなどと疑うなかれ。」


 ピピンは例の王国の剣を、腰の鞘に収めながら言いました。

「我が戦いは終わった。長き試練も今となれば夢の如きもの。我、生きるだけを生き、見るだけを見た。もはや一片の悔いもなし。」


 みんな興奮して大騒ぎしているので、ヨゼフとアンナが抜け出して、月明かりのあたる窓辺に座ったことには誰も気がつきませんでした。二人は出窓の向こうに飾られたシクラメンの花の影で、並んで佇んでいました。

 どちらからも会話を切り出すことができず、沈黙の時が流れました。


「こんな時、何を話したらいいんでしょう。」

 アンナはヨゼフの顔を見ずに、静かに言いました。ヨゼフは言いました。

「僕はずっと、これから何か素晴らしいことが始まるんだと、いつも信じてきた。でも、それは違ったんだ。始まったと思った時にはすべてが終わってしまう。それが真実だったんだね。」

 アンナはヨゼフの顔を見ました。出窓には月の明かりが満ちています。その明かりが、二人の顔を優しく浮かび上がらせていました。


「ヨゼフ。まだ何も終わってはいないわ。私はわかっているの。私たち、これから始まるのよ。わかるでしょ?」

「アンナ。でも。」

「いいえ。今は言わないで。たとえ、明日が来ないとしても、今この瞬間の重みに変わりはないでしょう。それに命は明日のためにだけ生きるのではないわ。命はいつだって、今を生きているのよ。」


 ヨゼフもじっとアンナの顔を見ました。そして何かを言い出せずにいる様子でした。アンナは哀願するような目でヨゼフに言いました。

「ヨゼフ。言って。」

「アンナ。さっき、君の歌を聞いていて、僕はわかったんだ。僕はずっと、君とは恋人役ばかり演じてきた。だからなんだか自分でもいい気になっていたんだ。でも、今はじめてわかった。僕は君のことを何一つ知らないんだって。」

「私もよ。ヨゼフ。私もあなたのことを何も知らない。」

 二人はまた黙り込んでしまいました。舞台の上では何度となく愛を語り、抱き合ってきた二人なのに、今はただうつむいたまま、お互いの存在を離れて確かめ合っているだけなのです。

 やがてヨゼフはアンナの手を取りました。


「そうだ。僕たちはまだ始まっていない。アンナ、僕は君のことをずっとずっと・・」

「ヨゼフ、私だって。」


 劇の中のセリフそのままです。でも、二人にとっては、そのセリフが今の気持ちそのものだったのです。そしてそれが、今の心のすべてだったのです。

「愛してる。」

「私だって。」


 月の光を背に、しばらくして二人がみんなのところに戻ってくると、先ほどまでの騒ぎは嘘のように収まっていました。それどころか、みんな今しがたまで劇の稽古をしていた様子なのです。

「最後の劇が悲しい話じゃいけないからね。僕らで少し手直しさせてもらおうと思うのさ。といっても、主役の君たちの手はわずらわせないよ。脇役の僕らが自分でセリフを考えた。君たちは流れに身を任せてくれればいいからね。」

 ピエロのジベールは、そう言って二人にウィンクをしました。

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