第1話 支配しない領主

 ユーナは山間部の村を歩いていた。

 聖女をやめて教会を飛び出し、行き先も決めずにひたすら東をめざして一週間が経っていた。


 東になにかがあるわけではない。

 ただ、朝日に背を向けるのではなく、朝日を見据えて旅をしたかった。

 それくらい、心ひとつで足を動かす、あてのない旅だったのだ。


「さすがにそろそろ仕事を見つけないと、おなかが……」


 ぎゅうう、と音が鳴った。

 司祭長がいればはしたないと怒鳴られるだろうが、そんなことはもう気にする必要がない。


 ユーナは自由だ。

 暮らしの安定を失うのと引き換えに、誰にも煩わされない自由を得ていた。


「最後に食べたのは、おととい……かしら?

 食べられそうな果物はなかなか見当たらないわ」


 山に入ってすぐは、リンゴやイチゴなど、よく知っている果物を見つけてお腹を満たすことができていた。

 でも、この村に近づくにつれ、そういった自然の食べものは見つかりづらくなり、ついにはなにも発見できなくなってしまった。


 ユーナは我慢づよさには自信がある。

 聖女としての日々の修練に励んできたおかげでもあるし、もともとそういう資質もあった。

 他人が苦しんでいるのは見ていられないけど、自分の苦しみは無視できる、そういうたちなのだ。


 そしてとくに、飢えには強い。

 胸に栄養が集まっているとよく笑われたものだが、この胸のおかげで人よりエネルギーが蓄えられているのかもしれない。

 本で読んだ、ラクダのコブみたいなものだ。


 えっへん、と胸を張ってみる。


 が、ぎゅううと再びお腹が鳴った。

 さすがに限界は近い。


「行き倒れたら、ひとのために働けない。

 なんとか、しないと……」


 ユーナの足が止まる。

 くらりとめまいがした。


「おい、お嬢ちゃん、具合でも悪いのかい?

 さっきから見てたけど、ふらふらふらふら、死にかけの犬みたいに歩いて」


 突然、村人から声をかけられた。

 道の脇にある畑で作業をしていた、よく日に焼けたおじさんだ。

 ユーナの様子がよほどおかしかったのだろう、鍬を置いて慌てて道まで上がってきてくれたようだ。


「どうした? 顔色がよくないぞ。

 腹でも空いてるのか?」

「あ……いえ……」


 おじさんの言うとおり、空腹の限界だった。

 でもユーナは、もし食事を勧められても断ろうと考えていた。


 この村に近づくほどに山の幸は減っていた。

 本来なら、来年のために残すべきものまで、あらかた採取されていた。

 つまりそれほど、この村は飢えているのだ。

 飢饉というほどではなくとも、旅人である自分に分け与えるほど余裕があるとは、ユーナには思えなかった。


「大丈夫です。

 すこし休めば歩けますから。

 ……あの山を越えたら、町がありますか?」

「あるっちゃあるが、あんたの様子ではとても無理だ。

 絶対に行かせらんねえ。

 年ごろの女の子が腹減ったとは言いづらいのかもしれないが、ほら、うちまで連れてくから背中に乗りな」

「あ、いやその……」


 遠慮すんな、と笑って、おじさんはユーナをおんぶした。

 彼女には抵抗する元気もない。

 おじさんはそのまま、力強い足取りでのっしのっしと歩いていく。


「そんな、悪いです。

 お世話になるわけにはまいりません」

「こっちは、お世話しないわけにはいかねえんだ。

 お嬢ちゃんみたいな子を行き倒れたまま見捨てたなんて知れたら、クロードの坊主にどやされちまう」

「クロード……さん?」

「ああ、ここいらの領主様だよ」


 領主とは、この土地における支配階級のはず。

 なのに彼は、「クロードの坊主」と呼んだ。


 わけがわからないとユーナは思った。

 尊敬しているのか、馬鹿にしているのか。

 もしくはそれ以外にも、領主と領民の関係のかたちが存在するのだろうか。


「ほら、着いたよ。

 かあちゃんに言っておくから、たらふく食って、ちゃんと休んでいきなさい」

「でも……この村は飢えているはずです」


 おじさんは、ニカっと歯を出して笑った。

 無理しているところがひとつもない、気持ちのいい笑顔だった。


「たしかに今年は恵みがすくねえ。

 でも、飢えてるってことはないんだな。

 こういうときは年貢をほとんど集めないし、それどころか、ひもじい連中には食べものを分けたりしてらっしゃる。

 クロードの坊主は、そういう領主なんだよ」


 じゃあな、と言っておじさんは畑仕事に戻っていった。

 彼の奥さんは、彼と同じようにユーナのことを優しく心配してくれ、温かい食事を出してくれた。


 涙を流しながら食事をしたのは初めてかもしれない。

 それくらい美味しかったし、温かかった。

 人のぬくもりの味だった。


 とても優しい村だと思った。


 あてもなく歩いてきたけど、教会で傷ついた自分がたどり着くのは、ここだと決まっていたのかもしれない。


「ごちそうさまでした。

 あの……もしよろしければ、この村で働けるところを紹介していただけないでしょうか?」


 満腹になったユーナは、自然と質問していた。

 どんなキツい仕事でもいい。

 この村の人たちのためなら、きっと喜んで働くことができる。


 それに、領主クロードのことも気になった。

 年貢を集めない? 食べものを分ける?

 そんな領主は聞いたことがない。

 支配階級が支配しないなんて、統治として成立していない。


 奪わず与える。

 それは神様のすることだ。

 不完全な人間がそんなことをすれば、きっとどこかに無理がでる。

 破綻する。


 クロードの坊主、とおじさんが呼んでいたそのひとに、ユーナの心は強く強く興味を示していた。

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