第32話 恋する眼球

〈あと少し〉

〈もう少しだけ……〉


廊下の角から、休憩スペースをのぞく。

ベンチに座った、スラリとした男性。

長い髪を、ときおり耳の上にかきあげては、手元の書類に没頭している。そのページを繰る指は、細く、長い──。


「……惚れたか」


頭の上から声がする。

わたしはビクリとして、振り返った。

赤いショートカットの髪。わたしの胸まであろうかという、長い脚──そして、ひらめく白衣。


「ミリア先生……いえっ、これは、ちがうんですっ」

「いいんじゃなーい? リリムちゃん、フリーなんでしょ。妊婦さんが恋しちゃいけないって決まりがあるわけじゃなし」

「こっ、恋とかじゃなくてっ」

「まあ、モイヤーズは見た目があんなだから、惚れる患者さんは多いけどさ……鉄壁っていうか冷血っていうか、女に興味ない、みたいな? で、みんな撃沈すんだよね──まあ、でもトライするのは自由だから」


ただなぁ、とミリアは腕組みをした。


「あいつはともかく──リリムちゃんは大丈夫?」

「え……」

「あいつの診察でしたりしない? なーんてなっ、あっはは。じゃね〜」


いじるだけいじって、ミリアは廊下の向こうに去っていく。


「くっ……ミリア先生のバカー!」

「……何を騒いでいる」


またまた、背後から声をかけられる。

わたしは、速攻で振り返ると、声の主の顔を正面からじっと見つめた。


「な・ん・で・も、ありませんっ!」

「そうか──? ならいいが……」


モイヤーズは、わたしの眼力に気圧けおされたように、首をひねりながら歩いていった。


〈──あんたのせいで、みんなに変な目でみられてるんですけどっ?〉

〈なんじゃケチくさい、よいではないか……ああっ、まさに……〉


──まったく……このワガママ目玉娘っ!


ことのはじまりは、数時間前。

診療所を訪れたわたしは、モイヤーズの前にいた。

モイヤーズは、わたしのちぎれた左腕に巻いた包帯を変えながら言った。


「いろいろあったが、今日こそは医者らしいことに集中させてもらおう……正直、落ち着いて、ちゃんとお腹の子の様子を確認できていなかったのが気がかりだった。あれだけの戦闘で、どれだけ負荷がかかったか──」

「……ごめんなさい」

「いや、リリムさんを責めているわけではない……むしろ、無理をさせてしまった自分の不甲斐なさを恥じている」

「そんな……」

「この腕は──」


包帯を巻き終えて、モイヤーズは溜め息がちに言った。


「ミリアがな、自分にといって聞かないんだが──」

「切らせろ……?」

「ああ、いや、すまない。つまり、外科的手術をさせろというんだ。彼女のスキルがあれば、たしかに腕をつなぐことはできる──腕のドナーがいれば、だがね」


──ドナーって……。


「移植……って、ことですよね」

「ああ……だが、リリムさんの体格を考えると、ドナーとして最適なのは子供だろう。はたして保護者の許可が取れるかどうか。それに、リリムさん自身の気持ちもあることだ──急いで結論を出す必要はないと思っている」


子供の、腕。たぶん、亡くなった子供の。

モイヤーズが想像しているであろう葛藤とは、おそらく全然ちがう考えが、わたしの中で渦巻いた。


その子に、もっと生きてほしかった。だから、せめて腕だけでも生者せいじゃに託したい。

そう願うドナーの家族がいて、その子の身体がそこにあるなら──わたしがすべきことは、〈嵌合体キメラ〉で取り込むことでも、ミリアのスキルでつないでもらうことでもない。〈蘇生〉することじゃないんだろうか。


+++++++++++++++++++++

〈蘇生〉=HPが0になった人間の身体を完全に復元し、HP最大の状態にする。ただし、〈蘇生不可〉が付与されたものは蘇生できない。

+++++++++++++++++++++


あれは、ガイド・フェアリーの国にいた頃──たしか、ふたり目の初心者のサポートに入ったときだった。その少年は、わたしに〈蘇生〉のスキルがあると知って、半年前に亡くなった母親を〈蘇生〉してほしいと懇願した。墓地を訪れ、墓を掘り返し──母親の遺骨に〈審美眼〉を向けると、〈蘇生不可〉の状態が付与されているのが見えた。


少年の〈卒業クエスト〉を終えて、ガイド・フェアリーの国に帰ったわたしは、先輩フェアリーたちにその話をした。死んでから、どれくらい経ったら、〈蘇生不可〉になるんだろう、と。でも、わたしは思いがけず、先輩フェアリーたちにこっぴどくしかられるハメになった──。


「いいこと、リリム。〈蘇生〉は初心者を助けるために使うものなの。死んでしまった人全員を助けようとしたりしたら、この世界のバランスが崩れてしまうのよ」

「そうさ、キミは自分の手で、世界の秩序を見出すことになるのんだ。ガイド・フェアリーには、正しい自覚と責任感、自制心がなければならないんだよ?」

……


それからは、わたしも自分に言い聞かせてきた。〈蘇生〉は初心者にだけ使うのだ、と。それが、この世界の一員としての、ガイド・フェアリーのなのだと。

でも──その世界が、わたしに何をしてくれたというのだろう。


「リリムさん……?」

「あ、すみません、ぼうっとして──」

「いや、それは構わないんだが……ちょっと、まっすぐこちらを見てもらえるかな」


モイヤーズは、わたしの頭に手を当てて向きを調整すると、正面から見つめてくる。

こうして見ると、ほんとに整った顔──。


「先生……?」

「やはり──右目の虹彩こうさい……いや、瞳孔どうこうの中まで変色している……」

「えっと、それは……」

「……毒の影響か? いや、キマイラとの戦闘後にこんな症状はなかったが──」

「あの、ちゃんと、見えてますから……」


わたしが顔をそむけようとすると、モイヤーズの長い指が、わたしのあごをやさしくらえた。


「んっ……」

「すまない……もう少し、我慢して」


目を細めたモイヤーズの顔が、至近距離に近づく──。


〈はぁっ……〉


突然、わたしの頭の中で、つやめいた溜め息が聞こえた。


〈あぁ……なんと美しい……〉

〈なっ、なによ、急に変な声出して……びっくりするじゃない〉

〈かのお方は、たれぞ……〉

〈主治医のモイヤーズ先生……やりにくいから黙っててよ……〉


頭の中でルサールカ──名前はリュドミラというらしい──と話しているわたしを見て、モイヤーズが不思議そうな顔をした。


「──リリムさん? やはり、違和感が?」

「いえ……目は、なんとも、ありませんから」

「奇妙だな……今度、別に時間を取ってもらえれば、その目の診察を──」

〈ああっ、ぜひにもっ!〉

「いいえ、大丈夫ですから……」

〈なぜじゃっ、わらわもそなたの小さい頭に収まって体調が……〉

「ほんとにっ、結構ですから!」

「──いや、二度も言わなくとも……問題がないなら、それでいいのだが」

「あ……すみません……」


それからもリュドミラのせいで、わたしの頭の中は診察の間じゅう、大騒ぎだった──。


〈なっ……そなた、まさか、かのお方に、はしたない姿を……〉

〈はしたなくない。これはだから!〉

〈ああ、あのお方に触れられて……うらやましいのぅ……ねたましいのぅ……〉

〈……あんたは怨霊おんりょうか〉

〈そうじゃリリムッ、そなた代われっ〉

〈はぁ?〉

〈そなたに右目の意識をくれてやる。わらわに身体を使わせよっ〉

〈できるわけないでしょ、そんなことっ〉

〈ケチッ、貧乏性、人でなしっ!〉

〈人の身体に同居してて、ケチとは何よっ、この色情狂!〉

〈まっ──なんと無礼なっ!〉


極めつけは、帰りがけに受付に寄ったときだった。

目薬の説明をしてくれていた看護師さんの顔色が、ふと変わった。


「リリム……さん、その目……」

「えっ?」


たしかに、視界のバランスがおかしい。

右目だけが、診察室から顔を出したモイヤーズの姿を見ようと、グルリと回転していたのだった。


「……っ」


根負こんまけしたわたしは、帰るまでの数分間だけ、モイヤーズを見つめることをリュドミラに許したのだった。

条件は……今後は絶対、勝手に目玉を回さないこと──。


帰り道、ご機嫌なリュドミラの鼻歌を聴きながら、わたしは夕焼けに染まる街を歩いていた。


〈ほんと、今日みたいのは勘弁してよね……〉

〈保証はできぬのぅ、なにしろわらわは、もはや楽しみのない、あわれな女ゆえ……〉

〈あのね……そういう言い方するのはズルいと思う。本気で怒るよ〉

〈それは──そうじゃな。相すまぬ……よきものを見て、つい心がおどってしもうた。許してたも〉

〈はぁ……まあ、わかればよろしい〉

〈ときにリリム──〉

〈まだ何か?〉

〈ずっと、そなたを見ておる者がおるが──あれは、そなたの知己ちきかえ?〉

〈……っ!〉


わたしは、荷物を直すふりをして、さりげなく背後を振り返る。

街道を行き交う人々──その人混みの中に──右目がとらえた、大きな影。あれは……。


「ヴィドー……?」


裏道に消えた影を、わたしは考えるよりも前に追いかけていた──

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