第17話 腐臭の罠
「ぷはぁ」
地下水路の水面から顔を出したわたしは、口に入った生臭い水を吹き出した。
水からあがると、重くなったコートを脱いで、とりあえず絞る。
──〈潜水〉のスキル、はじめて役に立った……。
真っ暗な水の中を何十分もさまよって、さすがに全身がグッタリしていた。
1時間前──
隠しフロアの入り口だと確信した井戸の中は真っ暗だった。
〈光源〉のスキルで中を照らすと、数メートル下に水面が見える。
水の中は〈潜水〉で移動できるとして、〈飛翔〉が使えない今、どうやって降りよう。
飛び込む──これは論外。わたしのお腹には、赤ちゃんがいるのだ。
それに、万が一、ここが隠しダンジョンの入り口ではなかったら、地上に戻ってくることができない。
ロープ……修復工事の現場から、資材を束ねているロープを盗んでくる?
深夜の工事現場に戻って、〈暗視〉であたりを見渡す。ぱっと見、そんなに長いロープないよね……。
わたしは、再び庭の目立たない一角にある井戸に引き返した。
ボロボロになった大理石の
ん──
わたしは、自分のスキルを思い出す。
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〈修復〉=損壊、故障した道具、構造物、その他のアイテムを、本来の機能をはたす状態に修復する。ただし、〈修復不可〉が付与されたものは修復できない。
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ひび割れた柱に手をおいて、初めて使うスキルを発動してみる。
〈修復〉──
ドクン、ドクンと心臓の拍動のように、石造りの小屋が震えて見えた。そのたびに、傷や
スキルの発動が完了して、柱から手を離す。こういうの、エンタシス、っていうんだっけ。ゆるやかなカーブを描いて膨らんだ、優美な柱だったことがわかって、わたしはしばし目を奪われる。
振り返ると、井戸の上にある滑車はすっかり錆が落ちて、青銅色になっている。
──うん、ロープも戻ってる。
腕を伸ばし、滑車の片側に下がったロープをたぐっていく。やがて、水の入った桶が現れた。わたしは、水を井戸の中に注いで桶を空にすると、さらにロープを引っ張って、滑車に引っ掛ける。
これで、水面まで──どうか、滑り落ちずにいられますように……。
万が一に備えて、〈物理防壁〉を〈維持〉し、ロープに両手両足でしがみつく。
降りるごとに、くるくると身体が回転して、バランスを取るのが難しくなってくる
手のひらの皮膚が剥がれたのだろう、握った手の中が火にあぶられたように痛む。
手袋、してくればよかった──。
「──っ!」
最後の1mほどで、わたしは水面に落下した。
〈物理防壁〉を発動していたので、衝撃はほとんどない。でも、胸がドキドキする。
井戸の上を見上げて、わたしは自分に気合いを入れ直す。夜明けまで、あと数時間。朝の早い職人たちに見つからずに、ここから脱出しなければ。
そして──隠しフロア、地下5階層。
濡れて顔にはりつく髪をかきあげながら、わたしは先を急いでいた。
〈方向判定〉で東西南北はわかる。でも、どの通路をのぞきこんでも同じような景色。
でも、目標の方向はわかる。〈遠隔知〉で確認できるレベル9のレイシーの位置が、近づくにつれてはっきりしてくるからだ。
〈逃げないで。わたしは味方だよ〉
〈──!〉
ターゲットに向けて〈念話〉を送ると、レイシーがビクリと止まった。
〈ニンゲン、キタ! ニンゲン、コワイ!〉
〈ううん、人間じゃないよ、フェアリーだよ〉
〈……フェアリー?〉
〈前に、ここに来たフェアリーのリリム。覚えてない?〉
〈フェアリー。アシ、オレタ、フェアリー?〉
〈そう、エンシェント・レイシーさんに助けてもらったフェアリー〉
わたしの〈暗視〉の中で、通路の奥に一瞬、チラリと動くものが見えた。
頭に双葉を生やした、小さなレイシーがこちらをのぞいたのだ。
〈ウソツキ! フェアリー、ハネアッタ! オマエ、ハネナイ! ニンゲン!〉
〈羽は──切っちゃったの〉
〈ウソツキ! ニンゲン、ミンナウソツキ! ダイキライ!〉
〈待って──〉
〈ニンゲン、ウソツイテ、センセイコロシタ! ミンナミンナ、コロシタ!〉
──先生……エンシェント・レイシーのおばあさんは、そう呼ばれていた。
〈ニンゲン、カエレ! ツイテキタラ、オマエ、シヌッ!〉
レイシーが、思いがけない速さで移動していく。わたしは、あわてて追いかける。
小さな気配は、カクンと足元方向に移動した──地下6階層への階段だ。
レイシーのステータスは、こちらの様子をうかがうように、通路の先で止まっている。
わたしは、慎重に階段を降りていく。
〈遠隔知〉では、他にモンスターのステータスは感知されていない。でも、「死ぬ」というからには、何かあるのかも──たとえば、トラップとか。
〈物理防壁〉を〈維持〉して、地下6階層の部屋に足を踏み入れる──
ヒュンッ
数歩進んだところで、天井から何かが飛んできた。これって、毒針? そう思う間もなく──
ヒュンッヒュヒュンッヒュンヒュンヒュンッヒュン
大量の毒針が雨のよういん降り注ぐ。〈物理防壁〉が毒針を
足元に気をつけながら、次の部屋に駆け込むと、わたしはホウッと息を吐いた。
旧宮廷薬草園では、旧王朝が崩壊した革命の際、貴重な研究を侵入者から守るために、書物を魔獣化したのだとエンシェント・レイシーのおばあさんは言っていた。他にもいろいろなトラップが仕掛けられている可能性は十分ある。
わたしは、もう一度〈念話〉でレイシーに呼びかけた。
〈ね、ほんとにわたしは、あのときのフェアリーだよ、だから──〉
〈クルナッ、オマエ、ホントニシヌゾッ、シラナイゾッ〉
──ダメか……。
わたしは、おそるおそる壁にそって部屋の中を進む。もうすぐ、出口──
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ
突然、低い響きが聞こえて、ガシャンと出口に鉄格子が降りた。ハッとして振り返ると、背後の入り口も同じようにふさがれる。
床面に、鈍い紫色の光が走りはじめ、魔法陣を描いていく。これは──転移陣?
プシュウ
ガスの抜けるような音とともに、強烈な悪臭が漂ってきた。
まるで、転生前にかいだ腐臭──夏の朝、徹夜明けの帰り道に、飲食店街のゴミ捨て場から漂っていたような。
転移陣から、
わたしは口元をおさえながら、急いで〈審美眼〉で正体を確かめる。
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ルインド・スライム Lv.90 HP-10000/1
スキル: 〈腐食〉、〈悪食〉、〈消化〉
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──HPがマイナスって、何っ!?
地下室にこもる腐臭に、頭がパニックになる。
鼻の奥と喉に何かが貼りついたようで、吐き気がこみあげてきた。
その間に、ルインド・スライムの転移が終わって、大人の
ピャッ
ゼリーの一部が、触手のように伸びてくる。わたしは、左手でそれを払って、飛びのいた。
「──ううっ……」
スライムに触れた手の甲から、ゾッと寒気のするような痛みが走った。
皮膚が見る見るうちに、赤黒く変色していく──これが〈腐食〉……急いで〈治癒〉して、〈無痛〉のスキルを発動させた。触れられるたびにひるんでいたら、戦うことなどできない。
念のために持ってきたダガーを構えつつ、初歩の戦闘スキルを試す。
「〈火球〉!」
頼りない火の玉は、スライムに当たると、ブシュウと汚らしい音を立てて消えた。
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ルインド・スライム Lv.90 HP-10011/1
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──何よそれっ!
もともとマイナスのHPが減ったからといって、倒せるのだろうか。
しかも、蒸発したスライムの身体から、焦げた臭いの加わった猛烈な臭気が吹きつけて、わたしは思わず咳き込んでしまう。
すると──むせて床を向いた視線に、じわじわと足元に広がる泥水のようなものが映る。薄く身体を延ばして、ルインド・スライムが至近距離まで忍び寄っていたのだ。
──しまった……
ズニュルッ
ルインド・スライムは一気に身体を伸ばして、わたしの手足に触手のようにからみつく。
〈無痛〉のスキルで痛みは感じない。ただ、自分の身体が急速に腐っていく感覚に、全身の鳥肌が立つ。
──〈治癒〉! 〈治癒〉! 〈治癒〉!
スキルを連発しないと、手足が腐り落ちてしまいそうで、わたしはますますパニックになる。
そんなわたしをもてあそぶように、スライムは濁った全身をヌラつかせながら、ゆっくりと近寄ってくる。
クネクネと触手がふくらはぎを撫で、太ももを這った。
壁におさえつけられたわたしの身体に、スライムが広がっていく。
──くっ……くさいっ、くさいくさいくさいくさいくさいっ
あまりの腐臭に、スキルを発動させていた意識が途切れそうになる。
──ひぐっ……
〈治癒〉が遅れた左手の小指が、スライムの体液の中で、ボロリと腐り落ちた。
首に巻きついた触手が、耳に忍び込んで、ゾゾゾゾゾという音が、直接、頭に響いてくる。
──やだっ、脳から腐るなんて、ぜったいいやぁっ!
わたしは、やぶれかぶれに思いついたスキルを叫んだ。
「〈治癒〉っ!」
ルインド・スライムが、ひるんだように身を縮めた。
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ルインド・スライム Lv.90 HP-9911/1
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──やっぱり。
攻撃したら、HPは下がる。回復すれば、HPは上がる。
HPが0の状態が「死」だとすれば、このモンスターを〈治癒〉しつづければ、倒せるはず。
そういえば、前世で聞いたことがある気がする。こういうモンスター、
とにかく、わかってしまえば、こっちのものだ。
わたしは、自分にもスライムにも、〈治癒〉を連打しつづけた。
〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉、〈治癒〉……
+++++++++++++++++++++
ルインド・スライム Lv.90 HP-9811/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-9709/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-9593/1
……
ルインド・スライム Lv.90 HP-625/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-498/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-399/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-296/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-195/1
ルインド・スライム Lv.90 HP-94/1
+++++++++++++++++++++
──次で終わりっ!
「〈治癒〉っ!」
身をすくめたスライムに、わたしは自信満々でスキルを放つ──だが。
「え……なんで……?」
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ルインド・スライム Lv.90 HP1/1
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腐ったスライムは、わたしを
そして再び、ヌメヌメと腐臭を放つ触手をわたしめがけて伸ばしてきた──
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