第3章 立ち上がるために
第15話 生まれくるもの
「医者はどこだぁ! モイヤーズとかいうヤロウはっ!」
突然の怒号。
診療所の廊下で、ベンチに座っていた女性たちがざわついた。
日焼けした肌。筋骨隆々の二の腕。金色の髪がトゲトゲと天を向いている。
年は20代? 腰にさした
「おいっ、出てこいモイヤーズ!」
「あんた、やめてよ……」
男のうしろで、必死に止めようとしている女性。なにこれ、なんの修羅場?
診察室の扉が開き、長髪を背後に束ねた、細身の男が静かに歩み出てきた。
白衣を着て、細長いメガネをかけている──すっごい美形。
「モイヤーズは、わたしだが」
「貴様ぁ!」
怒鳴り込んできた男は、山刀を抜いて、いきなり医師の
モイヤーズは微動だにせず、右の
「はて……どこかで会ったかな」
「会ってねえ! 会ったのは、ウチの
「カミさん──ああ、やあ、グラディス。こちらが、君のご亭主か。なかなか、ユニークな人だ──」
「コラッ、勝手にカミさんに声かけてんじゃねえ、ヤサ男!」
「はあ……やれやれ、それで? 君はぜんたい、何をしにきた。わたしは忙しいのだ。見たまえ──」
モイヤーズが、切長の目で、廊下で待っているわたしたちを見た。
「ご婦人がたが、待っているのでね」
「グヌヌ、そうやって女どもをたぶらかしやがって──やいっ、カミさんはなあ、診療所に行けば、食料の引換券がもらえるって話を聞いて、ここに来たんだよ。それをなんだ。話を聞いてみりゃ、てめえはカミさんの服をはいで、乳を揉んだり、
──あー……そりゃあ、婦人科の健診だからねぇ……
わたしは思わず、苦笑した。
だが、待合スペースにいた女性たちは、ショックを受けたようにざわついた。
このファンタジー世界では、健診の中身を知らない人が多いのだろうか。
「無知はともかく……君にはデリカシーというものがないのか」
「なっ、なんだとっ、この犯罪者っ」
「ばかばかしい。さっさと帰りたまえ。グラディス、ご亭主をどうにかしてくれないか──」
「こいつっ、カミさんの名を呼ぶんじゃねえって言ってんだろ!」
バンッ
もうひとつの診察室の扉が、音を立てて開いた。
「うっせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
耳をつんざく大声。
髪をショートカットに切りそろえた、白衣の女性が足を踏み鳴らして廊下に出てきた。
「ゴラァ、バカどもっ! 病院で大声出すなっ、これ常識だろうがっ!」
長身の女性が仁王立ちになってにらみつける。猛烈な怒りのオーラが、周囲に浮かんで見えるようだ。
モイヤーズが、待てミリア、と
「わたしは大声など出していないぞ。出しているのは、彼だけで──」
「うっさい、黙れ」
「はあ……まったく」
あんたねぇ、とミリアは冒険者に顔を近づけた。
「女には女の病気ってもんがあんの。胸も
「わかった? わかったの? わかったら返事っ!」
「おっ……おす、アネさん、わかりました──」
「よろしいっ。わかったら、さっさと帰るっ!」
ミリアが、ビシッと入り口を指さした。
冒険者が山刀をおさめると、妻のグラディスが駆け寄ってきて、すみません、すみません、と周囲に頭を下げる。
深く溜め息をついたモイヤーズが、夫婦に言った。
「やれやれ、お大事に──そして、おめでとう」
「……なんだって?」
冒険者が驚いたように妻の顔を見た。グラディスは、はにかんだ顔でうなずいた。
おおっ、と歓声をあげて妻を抱き上げる冒険者。
腕組みをしたままのミリアが、ふん、と鼻から息を吐いた。
「だーから! そういうのは、ウチに帰ってやんなさいよ!」
ひと騒動あって、診療所に静けさが戻った──と思いきや、困った
ミリア医師に診てもらいたいと訴える女性たちが、受付に列をなしてしまったのだ。
──まあ、そうだよね。わたしも転生前は、女性の先生がいる病院とか検索してたしな……
「あの、リリムさん、ですよね。すいません、モイヤーズ先生の健診でも大丈夫ですか?」
困り顔の看護師さんにたずねられて、わたしは首を縦に振った。
仕方ない。ここは、
診察室に入って、目隠しのカーテンをくぐる。
思ったよりも、広い空間。
ベッドと、資料が置かれた医師の机。薬棚。
そして、部屋の中央には、背もたれが大きく後ろに傾いた椅子。
天井から吊り下げられたカーテンの
転生前のイメージとは、ちょっと違うけど、用途はわかる──分娩台だ。
モイヤーズがカルテを見ながら、
「リリムさん、ですね。では、上着のボタンを外して」
「あ、あの……今日は、この子のことを診てもらおうと」
「ふむ。しかし、せっかくの機会だ。その子のためにも、まずあなた自身の健康を確かめておいて、損はないですよ」
「はあ……じゃあ、お願いします……」
指示された通り、ブラウスのボタンを外して、ベッドに横たわる。
「では……」
モイヤーズの両手が、わたしの右胸に触れる。冷たい手。
円を描くように、丁寧に膨らみを一周すると、芯の部分をたしかめるように深く、指で探る。
「っ……」
「失礼、痛みますか」
「……大丈夫です、すいません」
「いや、痛みや違和感があれば、遠慮なく言ってください。では左を……うむ、問題ない。触診は終わりです、起きてもらってかまいませんよ」
「あ、はい……」
わたしは、ベッドのへりから足を下ろして、ブラウスをなおそうとした。
すると、モイヤーズが鋭い声を出した。
「──待った」
「え……」
モイヤーズは、わたしのブラウスに手をかけて、スッとうしろにおろした。
「あっ、あの……」
「これは……」
長い指が、わたしの背に触れていた。
フェアリーの羽を切り落とした
わたしは、適当な嘘をついた。
「えっと、それは、火事で……」
「むごいな……近くに
〈治癒〉なら、わたしにもできた。
でも、〈再生〉ほどではないにしろ、復元効果のある〈治癒〉を使ってしまったら、フェアリーの羽が戻ってしまうかもしれない。だから、わたしは傷が定着するまで、あえて〈治癒〉しなかったのだ。
「腫れの引く塗り薬を処方しておきましょう。痛みが出るようなら、いつでも診療所に」
「……ありがとうございます」
「さて……赤ちゃんですが、妊娠に気づいたのはいつ頃です?」
「ええと──それは、ごく最近で」
数週間前に〈交雑〉したばかりだとは、まさか説明できない。
「ふむ……もうずいぶんお腹が張ってきているが、経過が違うのか……。正直言って、エルフの診察はあまり経験がないのです。我々とそれほど異なるとは思わないが……健診を受けるのは、初めてですね?」
「はい」
「もう、20週は過ぎているでしょうから、内診しておきましょうか」
──やっぱり、そうなるよね……
わたしは覚悟を決めて、分娩台に登った。
経緯はともかく、母親になると決めた以上、この子のためにできることは、ちゃんとしておきたい。
モイヤーズは、水差しに入った清浄な水で手を洗うと、わたしのお腹から下を隠したカーテンの向こうに消えた。
「大丈夫です、リラックスしてください」
「ちょっと……無理です」
「なるほど。はっきりそう言えるのは、いいことだ。すぐに終わらせましょう──」
クイッ
膨らんだお腹の上に置かれた右手のひらと、わたしの中の芯をとらえた左手の指が、お腹の中を確かめるように動いていく。
「──っ」
「大丈夫、もう終わりです……はい、結構」
カーテンの向こうから、モイヤーズが美形な顔をひょっこり見せた。
この人に他意はない──でも、自分の顔が真っ赤になっているのがわかった。
「あ、あの……赤ちゃんは……」
「ふむ」
モイヤーズは、少し考えてから言った。
「あまり不安にさせたくはないが、正直、お腹がかなり
「え……」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
お産は病院でするものじゃないのと、ふと思ってしまったからだ。でも、それは
そんなわたしの困惑した顔を見て、モイヤーズは何か勘違いしたようだった。
「心配いりません。手術で赤ん坊を取り上げることになっても、ここには優秀な
わたしは、お腹の膨らみをさすりながら、診察室を出た。
ガイド・フェアリーは、卵から生まれる。
わたし自身にも、転生したあと、卵から生まれた記憶があった。
商人であるボルゲスが、この子を
でも、モイヤーズが硬いと言ったお腹の中身は、わたしが直感している通り、やっぱり卵なのだろう。
わたしはやがて、卵を産む。
そんな奇妙なお産を、誰に助けてもらえばいいの?
思考がまとまらないまま、わたしは看護師さんが渡してくれた母子手帳を握りしめていた──
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