第42話 もう遅い
あれからしばらくの間よつん這いに倒れたままだったジークだが、奥さんにあなた邪魔だから戻りなさい、と言われてやっと席に戻った。
ジークはすまないアメリア、とおそらく奥さんの名前を口にして頭を下げている。アメリアは軽く嗜めるようにしていて、ジークはしゅん、となっている。いつの間にか髪も戻ってる。横にいるリリエールはその様子を眺めている。相変わらず無表情だけど、その目はどこか優しく見えた。
ジークがことが。
恐ろしく冷たい人間だ、髪は赤いのに。と思っていたのに、今は違ったふうに感じてる自分がいた。もちろん、怖いと思う部分はある。油断はできない。けど、家族に向ける愛情、その暖かさを目の当たりにしたとき、ほんの少し、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。
英雄と呼ばれる人はもっとこう、ズレたものだと思っていた。唯我独尊、プライドが高く、孤高。独立独歩、自由奔放。人よりも突き抜け、人の中心に立ち、そして人に偉業を見せる存在。
だけど。
「恩人にあの態度はないでしょう」
「いやだって、あいつはエリーのからだを」
「だってじゃありません。わざとじゃないんですから、許しなさい」
「だからって!」
「あんまりしつこいと、エリーに嫌われますよ?」
「うん」
「ぐっ…!」
ジークは本気で落ち込んでいて、それを叱りつつも、アメリアは愛おしそうに見つめている。ゼシリオとリリエールは眺めてるだけだが、それでも満足そうだ。
ありふれた家族の光景がそこにあった。
胸に小さな痛みが走る。
胸を押さえるが、何も刺さってたりはしない。当然だ。
もしかして。
羨ましい、とでも思ったのか。
レンはその思いを吐き捨てる。
まさか。今さらなんだというんだ。俺の家族は姉さんだけだ。それ以外いらない。必要ないんだ。他人のことなんてどうでもいい。
父親の、ちちおや。なんだっけ、いない。はずなのに、その言葉が引っかかる。誰だったっけ。俺に父親はいなかった。本当に?忘れてるだけじゃないのか?
一度疑問を持つと止まらなくなり、次から次に、湧き出してくる。頭の中がそのことで埋め尽くされる。目の前にある景色から意識が遠ざかっていく。
すると、上から
————
まだ九九も覚えていない時だったかな。
ねえねえおとーさん、おとーさんの誕生日っていつ?
ん?7月20日だけど、それがどうかしたか?
んーん。なんでもないよ。
いやあ、気になるなあ。
何でもないって!
、、、、、
はい。おとーさん。これ。
お、これはメモ帳か?も、もしかして。
うん。プレゼントだよ。誕生日おめでとう!おとーさん!
ま、まじか。ありがとう、れん!いやあ、嬉しいなあ!息子に初めてプレゼントもらっちゃったよ!
その顔が本当に嬉しそうで、自分も笑って、ああ、よかったなと思ったのを覚えてる。
大事に使うからな!
別にいいって。しょうもうひんだから。
この頃から、すでに捻くれてたっけ。
れんはそろそろ彼女でも出来たか?
いない。別ににいらないよ。
そんなこと言って、本当はいるんだろ?
いないって言ってるじゃん。
きっかけはありふれたことだった。
なあ、れん。お父さんとどっか出かけにいかねーか?
面倒だからいい。
偶には外に出たほうがいいぞ?
だからいいって。しつこいなあ。
そっか…。
あれ、父さん。ご飯残ってるけど。
ああ、最近ちょっと食欲がなくてね。
父さんも歳を取ったな、と顔に刻まれた皺を見ながら、軽く流してしまった。
愚か。
もしもし。
あの、ーーさんの息子さんでしょうか。
はい、そうですが。
そうですか。それで、お父様のことですが、昨夜、亡くなられました。
は?
ガラスが割れる音がした。
家の整理をする。何から手をつけたらいいか分からない。だけどやらないわけにもいかない。いらないものをゴミ袋に詰めていく。少しずつ物が片付いていく。終わった後の部屋がやけに広く感じた。
父さんの部屋の机に一つだけ置いてあるものがあって、なんだろうと思って覗いてみた。
使い古されたそれはよれよれで、皺だらけの、安っぽいやつで。中を見ると、どうやら日記として使ってたようだ。時系列ごとにびっしりと埋められている。書いてあるのは自分の事ばかりだった。
あのときの息子はかっこよかった。このときの息子は大変だった。遊園地に行った。どんどん先に進んで行くから肩車をして、パレードを見た。息子は目をきらきらさせてて、楽しかったな。また2人で行けたらいい。
仕事から帰って来た時、息子が飯を作ってくれていた。カレーだった。うれしかった。息子が好きなやつだ。もちろん俺も。あいつがよく作ってくれてたな。味が濃いところが似ている。久しぶりの味に、喉が詰まりそうになるのを堪える。
ある日背比べをしたら抜かされてた。くやしかった。だけどそれ以上に誇らしかった。よくここまで大きくなったな。母親がいないから寂しかっただろうに。時間が経ったのを実感する。俺はうまく育てられているだろうか。息子にとって良い親でいられてるだろうか。それを聞ける人はもういない。
随分と長い間息子と話せていない。何か悩んでるようだ。いつも部屋にいる。俺が聞いても何も答えてはくれない。情けない。あいつがいたらなんて言われるか。きっと叱られるだろう。愛想尽かされるかもな。それでもいい。怒られてもいいから、声が聞きたい。違う。もうあいつはいないんだ。俺がしっかりしないといけない。
体が動かなくなってきてる。食べるのも億劫に感じる。俺も長くないかもしれない。死んだらあいつに会えるだろうか。そうだといい。死ぬのは怖くない。だけど一つだけ、心残りがある。息子のことだ。何を考えているのか、いつも悩んでいる。最近はもう、生きてるだけでつらそうだ。俺は分かってやれない。あいつだったらどうか。不器用で、大雑把で、だけど底抜けに明るかったあいつなら。俺を明るく照らしてくれたあいつがいたら、何か変わっていただろうか。もしもの話をしてもあいつは生き返ってきてはくれない。俺が大好きになったあの笑顔で笑いかけてはくれないんだ。ああ、それは、そうだな。寂しい。寂しいよ。冷たくて、今にも死んでしまいそうだ。もしかしたら、息子もこんな気持ちなのかもしれない。ずっとこんな気持ちを抱えていたら、息をするのもつらいだろう。だけど、それでも。生きていてほしい。俺の我儘でも、そう願わずにはいられない。だって、俺とあいつの、たった一人の息子なんだ。自慢の息子なんだよ。幸せになってほしいじゃないか。そのために、残された俺に何ができるだろう。
俺はそのメモ帳を捨てた。
なんでそんなことをしてしまったのか、理由は分からない。
遥か遠く。
遠い、遠い過去の記憶だ。
今さら思い出したところで、なんになる。
時計の針は戻らない。
後悔したって、もう遅いんだよ。
ぱちり
ぱちり、ぱち
消える。
ぱち、ぱち、ぱち
しゃぼん玉のように
ぱち、ぱちり、ぱちり、ぱち
影も残さず、消えてゆく
そこには何もない
はじめからなかったかのように、何も残らなかった
ぱちり
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