第3話 レッサーゴブリン
東城門から南東に向かって2キロ、木が伐採され、切り株が点々とした草原を越えた先にある森の前に僕は来ていた。遠目から見てもどこまで続いているかわからない程広大で、近くで見ても中は薄暗く見通しが悪い。
本当はこんな場所になんてきたくなかった。だけど、そうも言ってられない事情がある。
僕とリン姉さんは成長し、そして身体も大きくなった。だけど、その分食事を欲する衝動も日に日に増してきている。
このままの食事量じゃいずれ栄養が足らなくなり早晩餓死することになってしまう。
木綿で首を締めつけれるような感覚で、時間が経つほど状況が悪化していくのを何もしないでいられる程能天気にはなれなかった。
誰かから盗むか、価値のあるものを売って金を手に入れるか。
結果、僕は後者を選んだ。
前者は心情的にも抵抗感があり、また素人がやったところで捕まってズタズタにされるか、殺される可能性が高い。
だが後者に関しては今まではゴミ漁りをしてきたが、不衛生で碌なものもなく、あってもタダ同然で買い叩かれるだけだった。
ではどうするか。
それが今目の前にあるアダハ森林で魔物を狩ることだった。
魔物
一般的には魔石を持つものとされるこれらの生き物は、大抵が人族と敵対している。
魔石には価値があり、魔力を多く持ち、より強い魔物程価値がある魔石を持つ。
レッサーゴブリン
それが今回の標的だ。
背は低めで緑色の肌、醜悪な顔で好戦的な人型のモンスターで、ゴブリンよりも身体能力は低く、群れず、武器を持つと言った知能もない。
しかしだからと言って侮ってはいけない。
アダハ森林の生態系の中でも最低辺に位置する彼らに余裕はなく、生き残るために死に物狂いで襲いかかってくる。
彼らはニンゲンが自分達を殺すことを知っている。
それに対する憎悪はこちらが隙を見せれば瞬時にその長い爪で脚を切り裂き、その牙をもって喉を喰い千切る程に強烈だと言う。
そんな奴を今から殺しにいくのだ。
恐怖により震えてる手と足を、目をつぶって深呼吸をし、歯を食いしばって無理矢理動かしていく。
森にいるのは何もレッサーゴブリンだけじゃない。それを狙う奴らだって他にもいる。
幸い森の浅いところは基本的にレッサーゴブリンしかいないらしいが、それも絶対ではない。
ゴブリン系統の肌は緑色が多く、森の中では保護色的な役割も果たしており、見つけるのは難しい。
もし、あそこにある木の、草むらの陰から飛び出してきたら
そんなことに怯えながら全身に神経を張り詰め、何度も顔を動かしながら周囲を警戒して進んでいく。
一歩、一歩、できるだけ音を立てないようにゆっくりと歩いてゆく。
慎重になるのは、いい。油断するよりよっぽどましだ。なんの成果も得られないのも不味いが、生きて帰ることの方が大事だ。
そうして5分程経った頃だろうか。
———いた
奴だ。レッサーゴブリン。こっちには背を向けて歩いている。
土まみれの皮膚は想像以上に生々しく、その動きに合わせて存在感をありありと伝えてくる。
もう一度思い出す。イメージトレーニングは何度も繰り返してきた。考えうる限りの状況を想定し、その中でも最高に近い状況だ。自分には正々堂々、正面から戦うなんてのは無理だ。そんな度胸も胆力も持ち合わせていない。物語の主人公のように特別な才能は持っていないんだ。
生き物を殺す覚悟も、向けられる殺意に身を竦ませないための心構えも、何度も何度も、吐きそうになりながらも繰り返した。
凡人なりに、凡人だからこそ、自分にできることは精一杯やったと思ってる。
そうしてもう何度目かわからない覚悟を決め直し、よりいっそう慎重に近づいてゆく。
しかしやはり素人だからか、奴の野生の勘が鋭すぎるのか、両方か。
レッサーゴブリンは急にこちらを振り返り、一瞬の後、叫びながら、その貌に憎しみを宿して突進して来た。
この状況も何度も想定してきたおかげか、考えるよりも速く身体が動き木の裏に身を移す。
半身だけ身体を出し、右手に短剣を構えたところで——来た
奴が飛びかかってきた瞬間、身体を完全に木に隠れるようにし、奴は右肩を木にぶつけた。
左から回り込んで、硬直しているそいつの脇腹に両手で持った短剣を身体ごと勢いを乗せ突き刺す。
そのまま2人とも倒れ込み、そしてすぐに足を立て短剣引き抜き素早く奴から距離を取る。
その途中、暴れた奴の手や足の爪が目の前を横切った。
「ふっ……はぁっ…!はっ…はぁっ……!」
息が荒い。
ひとつミスするだけでも終わってた。汗が止まらない。奴の様子は?血がたくさん出ている。おそらく致命傷だ。傷口を抑え、悲鳴を上げているが起き上がってはこない。奴が動かなくなり、確実に死んだと思えるまで待ってから魔石を剥ぎ取っ————
「ギャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
後ろ
レッサーゴブリン
もう一体
頭が真っ白になった。
新手のレッサーゴブリンは、仲間意識はない同族の死を見て、それでも先程のレッサーゴブリンよりも遥かに重い殺意を僕に叩きつけてきた。
身体から力が抜け、手から短剣が零れ落ちる。
甘かった
想像での殺意なんてのは本物に比べれば何の役にも立たない。唾を飛ばし、口を大きく開け、あらん限りの咆哮でもってお前を殺すと伝えてくるではないか。
———あいつに殺される
時間の流れがゆっくりになり、視野が狭まっていく中、僕の意識は切れ、視界が暗く染まった。
気がつけば木々の間を全力で走っていた。
涙で視界はぐちゃぐちゃになり、鼻水が口に入り込んできて息がしづらい。
まだ、生きてる。後ろからはあいつの叫び声が聞こえてくるが、まだ追いつかれてはいないらしい。
どうやって生き残ったのか。全く覚えていない。不思議だった。どうして自分はまだ生きているのか。
もういやだ。つらい。楽になりたい。足を止めて倒れたい。
そんな言葉がぐるぐると頭の中で繰り返し浮かんでは消え、もういいか、と足を動かすのを諦めようとした時。
不意に姉さんの顔が浮かんだ
今日の別れ際、姉さんはいつもより心配そうな表情をしていた。その時は何も思わなかったが、今思えばわかっていたのではないか。
自分達の生活が危険域に達してきているのにも気づいていて、そのことに僕が悩み、なんとかしようとしていたのも薄々勘付いていたのではないか。
魔物を狩ろうとしているとまでは思わなくても、何か危ない橋を渡ろうとしていると思っていて、それでも何を言えばいいか分からず、何も言えずに別れてしまったのではないか。
このまま死んだらどうなる?
このまま後ろのあいつに追いつかれ、何もできずに殺され、姉さんは帰らない僕の帰りを待ち続ける。
待ち続けてそのまま死ぬか、僕を忘れて生きるか。
忘れて生きるならいい。よくはないが、姉さんが生きているならそれは最悪ではない。
僕が死に、姉さんも死ぬ。
それは、それだけはだめだ。想像もしたくない。
絶対に生きて帰るんだ。そのためにはあいつを殺すしかない。
レッサーゴブリンたちからしてみれば僕は自分達を殺しに来る侵略者で、あいつらは必死に生にしがみついている。
しがみつくその手を蹴り飛ばし、その屍を踏み台にして僕もまた同じように生にしがみつく。
お前を殺して、僕は生きる
右足を内向きに急停止し、左足を軸に反転して思いっきり息を吸う。
「ギャァア「あああああああああああああああああ!!!」
人生で一番大きく、強く叫んだ声は掠れていて、あいつも怯むことはなかった。
それでも、身体は血が沸騰したかのように熱く、新鮮な空気を取り込むことで視界は鮮明に、なにより全身に力と意志が行き渡った。
距離1メートル、全力で右斜め前に身を投げ出す。
受け身もろくに取れず体は地面にぶつかり、そのまま皮膚が擦れ焼けるような痛みを感じながら、犬のように四つ足で走り出してまた道を引き返していく。
またすり抜けるのを警戒しているのか、追いかけてくる足音は先程よりも遅い。
だから速度を少し下げ、あいつはこちらの体力が尽きていると感じて全力で迫ってくる。
実際もう限界ギリギリだったが、ついに死んだレッサーゴブリンのところまで戻ってきた。
そばに落ちている短剣を拾い、さっきと同じように反転する。
あいつは脇をすり抜けられないように両手を広げて身構えており———僕は短剣を思いっきりぶん投げた。
運良くそれは右胸に突き刺さって、僕は動揺しているあいつの右足を蹴って転ばせた。
そのまま胴の上に跨って短剣を抜き、その首に刺そうとしたところで、その動きは止まった。
右手で左手首を掴み、左手で短剣の刃を握り締めて押し返してくる。
嘘だろ。こんなに力があったのか。もう死んでくれよ。お願いだから死んでくれ。死ね。
互いに叫びながら命を削り合った。
ここで全てをつぎ込んだ。後のことなんてのは考える余裕もなかった。
腕の感覚がなくなり、これ以上はもう無理だと、そう思った時、急に手が自由になった。短剣は首の左側の皮膚を薄く切り裂き、土を軽く抉って突き刺さる。
レッサーゴブリンの右手は僕の頬をかすめ、そして僕らは同時に動きを止めた。
レッサーゴブリンは死んだ。
最期に伸ばされたその右手は手に入らないものを求めているようで、理不尽なこの世界のすべてを恨んでいるような、そんな貌で彼は死んでいった。
状況を理解するのに数秒か数十秒か、思い出したかのように呼吸をし、整うよりも前に魔石の剥ぎ取りを始めた。
自分は生き残った。身体は休息を求めているのに、何故か休もうとは思えなかった。
ここが危険地帯だからか、彼を殺し、その死の上で生きている自分に何か思うところがあったのか。
どちらが正解なのかはわからない。
剥ぎ取りの知識も技能もないから、うまく心臓近くにあると言う魔石を取り出せなくて、何度も短剣を突き刺して、手を入れて体内をぐちゃぐちゃに弄りながら探した。
やっと魔石を見つけた時、もう一体いることに憂鬱になった。
血まみれになって見つけた血まみれの魔石を見つけても、何も思わなかった。
もし、今新手のモンスターが出てきたら、何もできないだろう。死んでないのは偶然だ。
それでも、偶然でも何でも、僕は生きている。生きているのなら進むしかない。止まるのは死んでからでいい。
重い身体を動かし、レッサーゴブリンだった者たちを残して、その場を後にする。
彼等の死を悼みはしなかった。
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