第10話 カシマレイコ 残り6人

 ホルモン工場は死臭が立ち込めていた。

 太はあの冷たい川を思い出していた。印鑰に橋の上から突き落とされパニックになり、溺れ死んだ。

 目の前にいるコイツを何度、妄想の中で殺したことだろう。

 東京オリンピックを見るという希望、婚活するという希望、小説家になるという希望……全て奪われた。

 太は、馬酔木に向けていたマカロフの銃口を印鑰に向けた。憤怒の情を引き金に込めた。

 パンッ!乾いた音がして、番頭の格好をした印鑰の和服の胸の部分が破れた。だが、血は出なかった。

「バッ、化け物!」

 太は叫んだ。自分も同じ穴の狢なのも忘れて。

 マカロフの装弾数は、 8+1発。+1発の意味は

 使用弾薬は9x18mmマカロフ弾だ。

 8+1の意味は、マガジン(弾倉)を使用する銃は装弾数を表す際に、『8+1発』といった表記がされる。


 これは最初の数字『8』がマガジンに収納される最大装弾数を表し、次の『+1』は銃のチャンバー(薬室)内に装填された(装填される)弾を表している。

 弾撃ち尽くして完全に弾切れとなった後で新たなマガジンを装填すると、その時点での装弾数はマガジン内の弾数は8発のみとなる。

 全弾を撃ち尽くしても印鑰は倒れなかった。

 恐怖のあまりに太は腰を抜かして座り込んでしまった。

「どうして死ねないんだ……あぁ、あぁ……」

 よろよろと地下室から去っていった。

 

 10月28日 - 沖縄県沿岸などに今年8月に噴火した海底火山福徳岡ノ場の軽石が帯状で大量に漂流漂着し、漁業などに深刻な被害が発生。


 敬礼は恐怖が訪れると妖怪に遭遇するという特異体質だった。ダイヤモンド型の白い不織布マスクをしてる。

 敬礼は釧路署地下室にある射撃室で練習をしていた。

 最初はアイソセレス・スタンス。アイソセレスは二等辺三角形の意。標的に向かっておおむね正対し、ピストルを両手で保持し、両腕と体が二等辺三角形を形作るようにする構え。1980年に開発された持ち方で、さらに発展させた Modern Isosceles という持ち方もある。

 次はウィーバー・スタンス。標的に向かって斜めに立ち、後ろの腕を伸ばしてピストルを握り、前の腕の手を銃把に添える構え。1950年代後半、ロサンゼルス郡保安局の保安官だったジャック・ウィーバーによって開発された持ち方。

 どちらかといえばアイソセレスの方が撃ちやすかった。

 

 太と馬酔木は婚活パーティーにやって来た。太と馬酔木は黒い不織布マスクをしている。会場は春採湖はるとりこの辺りにある。春採湖は海面下降の際に取り残された海跡湖で、春採川を通じて海水が入りこむ汽水湖でもある。国の天然記念物であるヒブナが生息する。12月から4月まで結氷する。「はるとり」の湖名はアイヌ語に由来するが、「アルトル」(岬の向こうの土地)、「ハルトル」(山菜を採る斜面)などの説がある。

 釧路市の市街地東部、海岸から近い位置にある。周囲4.7キロメートル、面積0.36平方キロメートル、水深5.2メートルの湖である。北岸に釧路市立博物館、国の史跡である鶴ケ岱チャランケ砦跡、春採公園がある。1955年から2008年までは釧路市立柏木小学校もあった。


 1937年(昭和13年)から数次にわたり水深が計測されている。それによれば、1937年には最深部9メートルの地点が湖の東寄り、釧路市立博物館の東にあったが、1962年(昭和37年)までに東側から浅くなり、1985年には東側の最深部が2メートルを切った。中・西部分も浅くなり、1985年時点での最深部は博物館の西、湖全体では中部にあたる5.8メートルになった。春採湖には昭和30年代まで(1955年頃まで)炭鉱の排水が流入しており、春採湖が「沈殿池」の役割を担わされていた。その後も1980年代まで生活排水の流入があった。これらが急速に浅くなった理由と推測される。


 春採川が北東部の南から入り、西に抜ける。この川を通じて海につながり、海水塩分が入ってくる。かつては北東部の北からチャランケ川、南岸の東側から春採川、北西から柏木川の3河川が流入していた。

  

 1985年(昭和60年)まで春採湖には流入する3河川を通じて都市・生活排水が流れ込み、汚濁化の一途をたどっていた。1985年度(昭和60年度)に日本の湖沼水質のワースト2になり、それから1993年度(平成5年度)まで、ワースト5に入っていた。釧路市の下水道整備により、1985年から河川の水質が改善し、湖の水質もしだいによくなっていった。


 しかし現在もなお、底には黒く濁ったヘドロが溜まっており、1989年2月、1990年3月の調査では4センチメートルから厚いところで20センチメートル以上のヘドロが湖底を覆っていた。湖の水は西にある春採川から海に流れ出ているが、一時的に海水が逆流して湖に入り込むことがある。入り込んだ海水は、密度の違いから下に沈み、表層水とあまり混じり合わずに滞留する。この下層水はヘドロから湧く硫化水素を溶かし込んで無酸素状態となっており、魚が生きることができない。


 1993年より前には、冬の結氷時に海水が入り込むと、酸素を持つ表層水が狭まり、毎年のように多数の魚が死んでいた。1993年(平成5年)の潮止め施設、2009年の潮止め堰の設置は、海水の侵入を防いで魚が生きられるような水質の範囲を広げることを目標にしていた。表層水と下層水の境界は、1993年まで水深約2メートルのところにあったが、以後は2.5メートル前後となり、2009年以降は4メートル近くまで下がっている。

 

「きたねー、ゲホッ、湖だなぁ、ゲホッ」

 湖畔で悪臭に噎せながら太は言った。

 

 餅福もちふくというオタクっぽい参加者の職業は生物学者だった。紺色の不織布マスクをしてる。

 春採湖の生物について詳しく教えてくれた。

 マツモ、エゾノミズタデ、ヒシが水草として生える。1986年の調査ではイトクズモとヒロハノエビモもあったが、2003年以降の調査で発見されず、この湖では絶滅したと考えられる。リュウノヒゲモも著しく減少している。水草全体でいうと、2005年から2007年の著しい減少期を脱して若干回復しているが、過去の水準には遠く及ばない状態である。


 2012年に8回実施された春採湖畔の探鳥会では、50種の野鳥が観察された。水鳥ではマガン、カイツブリ、オオバンが繁殖し、オオハクチョウやヒドリガモなどが渡りの中継地として利用する。海からはオオセグロカモメが休息に利用する。市街地・公園緑地に現れる鳥の種類数も多い。


 2004年(平成16年)に、春採湖では湖岸の全域に外来種のウチダザリガニが生息していることが確認され、釧路市から業務委託を受けたNPOがウチダザリガニを捕獲している。2010年の調査からの推計では、4センチ以上の個体が5万6千以上いるとされた。


 2010年(平成22年)の調査では、ワカサギ、ジュズカケハゼ、ギンブナが多く、他にウグイ、イバラトミヨ、ヌマチチブ、マルタ、ウキゴリ、イトヨ太平洋型、コイ、ドジョウが捕獲された。ヒブナも著しく減少したものの生息している。


 春採湖に生息するヒブナは、1937年(昭和12年)12月21日に国の天然記念物に指定された。1950年代に、このヒブナは1916年(大正5年)に放流されたワキン(和金)ではないかという説が現れた。それが事実だとすれば、金魚を天然記念物にしたことになる。1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)の調査で、春採湖のヒブナはギンブナの変異で、和金との関係がないことが判明した。


 ヒブナの数は、水質悪化による減少とその後の回復を経て、21世紀初めには産卵場所となる水草(マツモとリュウノヒゲモ)が減少して危機に陥っている。産卵場所の代用としてプラスチック製の人工水草を沈めている(2012年には3か所に200本)。2012年の調査では人工水草に多数の産卵が見られたが、それ以外の数は少なく、産卵が見られない場所も多かった。

「こんなことばっかり熱心で、生まれてこの方女性と手を繋いだこともありません」

 餅は困ったような表情で言った。

「餅なんて変わった名前ですね?」と、馬酔木。

「宮城にある珍しい名前です」

「ねぇ、宮城って穴の開いてる靴下のこと、おはよう靴下って言わない?」

 ショートカットの女性が話に割り込んできた。

「もしかして宮城の方?」と、餅。

「マイタケリンって言います」

 蒔田ケリンかと思ったが、プロフィールカードを見たら舞嶽臨だった。臨はピンクのウレタンマスクをしている。

「キノコみたいな名前だな?」

 太は大のキノコ嫌いだ。🍄

「動物の屍の下にはキノコが生えるってよく言いますよね?」

 餅は空気とか呼べない性格らしい、臨なんて露骨に顔を顰めた。

 太は餅が顔を見てきたので首を傾げた。

「さっ、さぁ?」

「舞茸と餅なら気が合いますね?両方食べ物だ」

 餅が臨の顔を見た。

「はっ、はぁ?」

 

 太たちは湖から歩いて20分くらいのところにある洋館にやって来た。

「ほほぅ、擬洋風建築ぎようふうけんちくかぁ」

 館の前で臨は温泉にでも浸かったような声を出した。

 擬洋風建築とは、幕末から明治時代初期の日本において、主として近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計・施工された建築である。従来の木造日本建築に西洋建築の特徴的意匠や、時には中国風の要素を混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようと各地に建設された。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降に消えており、その時期は文明開化と重なっている。

「建築家さんですか?」と、馬酔木。

「若い頃は目指してましたが、今はスーパーで働いてます」

 臨はウンチクをさらに垂れ流した。

 明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになっていく。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋式建築として建てられる必要があった。迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計・監理されたが、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手にゆだねられた。


 しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、石に由来する洋式建築(組積造)は未知の存在である。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設する。錦絵や実物の見聞を通じて得た情報をもとに建てられた擬洋風建築は、その時たまたま出会った建物をベースに自由な折衷や創造が加わり、塔屋や車寄せなど大まかな形は共通しながらも、一つ一つの建物で異なるデザインが生まれた。


 横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は、多数の錦絵に描かれ大衆の反響を呼ぶ。一方、山梨や山形といった旧政治体制の影響力が強い地域では、土木県令と呼ばれる敏腕指導者が政府によって送り込まれ、殖産興業政策と平行して擬洋風建築による官庁街が新たに建設された。また、廃仏毀釈によって解体された寺の跡地には小学校が建てられている。擬洋風建築は、文明開化のシンボルであると共に支配体制の移行を象徴するモニュメントでもあった。


「そこまでの知識があるのに何故?」

 馬酔木は学生時代、スーパーでバイトしたことがある。惣菜部門でサラダをパックに積めたり、ラベル貼ったりした。対人恐怖症だったのでレジはやらなかったが、恐ろしく安かった。

「超氷河期世代ですからねぇ……20社受けてようやく『アンバランス』に採用されました」

 変わった名前のスーパーだ。『幽遊白書』のエンディングテーマ『アンバランスなKISSをして』を太は思い出した。

 

 洋館のロビーで臨は怖い話をはじめた。

疱瘡婆ほうそうばばぁって妖怪が宮城にいたらしいです」 

 太はふと、スピーカーで気味の悪い声でギャーギャー泣き、その声を聞いた者が呪われるシーンを想像した。放送婆。

「文化年間初期。七ヶ浜村大須(現・宮城郡)で疱瘡が大流行し、多くの病死者が出た。それと共に、病死者たちを葬った多くの墓が荒らされ、遺体が盗まれたり、何者かに食い散らかされるようになった。村人たちは遺体を土に深く埋めた上に大きな重石を乗せ、魔除けの祈祷をするなどしたが、それでもなお重石を取り除いた上で墓は荒らされた。

 そのような事件が多発する内に、人々は「疱瘡婆という化け物がおり、死人を食べるために疱瘡を流行させて人々を病死させている」と噂し始めた。

 そんなあるとき、村の名主の3人の息子が疱瘡で病死した。名主は我が子たちだけは疱瘡婆に食われまいと、十数人がかりで運ばせた大きな重石を塚に乗せ、夜は銃を持った猟師に番をさせた。初めは何事も起らなかったが、数日後の晩、化け物をおびき寄せようと猟師が灯りを弱めたところ、土を掘り返す音が聞こえてきた。猟師が忍び寄ると、相手は轟音と共に木々をなぎ倒して駆け去った。遺体は無事であり、それきり墓荒らしが起きることはなかった。

 それから数年後のこと。町で買物中のある老女が山の方を眺めていたところ、突然驚いた様子で失神してしまった。人々に介抱されて気がついたものの、何事があったのかと訊ねられても何かを恐れている様子で、決して理由を話そうとはしなかった。

 さらに数年後、老女がようやく重い口を開いた。あのとき、山に化物の姿を見たということだった。それは顔が赤く、頭が白髪で覆われ、身長が一丈(約3メートル)もある老婆のような姿で、あれこそ疱瘡婆と思った老女は恐怖のあまり失神してしまったんだって」

「ふん、胡散臭い」

 餅が鼻で笑った。

「ゾンビが現れる世の中ですよ?いるかも知れないじゃないですか」と、馬酔木。

「よう、馬酔木」

 長身で緑色のウレタンマスクをした男が螺旋階段から降りてきた。

「妻神、呼んでくれてありがとう」

「彼が噂の?」と、太。

 オリオンホテルでの出来事を馬酔木から聞いていた。

「結婚早くしたいな?子供だってほしい」

 馬酔木は最低、2人はほしかった。けど、ムショ上がりの人間にそうそう縁はない。

「ゾンビみたいな女はどうしたんだ?」と、太。

「靖子のことか?元気にしてるよ」

「おまえの唾臭いんだよな?」

 馬酔木の唾は死んだ者を蘇らせる作用がある。

「別れたのか?」

 太は肩が痛くて仕方がなかった。

「ワガママで嫌になってしまった」

「ここじゃ何だ、上に来いよ」

 そう言うと妻神は、くるりと後ろを向く。

 妻神、馬酔木、太、臨、餅の順に螺旋階段を上がった。

 談話室にやって来た。

 先客が3人いた。

 ポニーテールの女、スキンヘッドの男、ツーブロックの男。

 ポニーテールは紫のウレタンマスク、スキンヘッドは茶色の不織布マスク、ツーブロックはモスグリーンの不織布マスクをそれぞれしている。

 3人はソファに間を開けて、横一列に腰掛けている。

「久しぶり、馬酔木くん」

 女が言った。

「リンゴちゃん、相変わらず可愛いね」

 プロフィールカードを見せてもらった。


 林檎真菜りんごまな

 35歳

 岩手出身

 趣味は料理です☺


「あのときはメイドしてたけど今は何してるの?」

 馬酔木は真菜と向かい合うように座った。

「あのクリスマスのときでしょ?今はパソコン教室で働いてる」

 臨がスキンヘッドに向かい合うように座る。

「はじめまして、舞嶽臨です」

「変わった名前ですね?」

 スキンヘッドがプロフィールカードを見せた。


 根城政宗ねじょうまさむね

 41歳

 青森出身

 親父が独眼竜政宗の大ファンで、こんな名前です。仕事はトラックの運転手してまーす!


 ヤバそうな名前だな?と、臨は思った。根城かよ?フリーザとかバイキンマンとか棲んでるところを根城って言うよね?

「昔、渡辺謙さんがやってましたよね?」

 臨がプロフィールカードを根城に見せた。

「仙台出身なんですか?震災大変でしたでしょ?ジェネレーションYですか」

 ジェネレーションYとは、概ね1980年代序盤から1990年代中盤までに生まれた世代のことである。インターネット普及前の時代に生まれた最後の世代で、幼少期から青年期にIT革命を経験したデジタルネイティブの最初の世代でもある。

「根城さんは青森のどこで生まれました?」と、臨。

「八戸市」

「八戸って何があるんですか?」

「いちご煮が有名」

「あったかいイチゴかぁ、ジャム美味しいですよね?」

「臨ちゃんって天然?ウニやアワビを煮たもんだよ」

 根城が笑いを堪えてる。

「何でいちご煮って言うの?」

「さぁ、それは知らない」

「古くから上客への出し物として使われてきたんだけど、赤みが強いウニの卵巣の塊が、野イチゴの果実のように見えることからこの名が付いたの」

 根城の隣りの真菜が詳しく説明した。

「さっすが、元メイド。悪虫を冥土に送っておいてよかったよ」

「マサ、その話は今は……」 

 真菜の顔が青褪める。

 あの2人知り合いなのか?そんな風に思いながら餅はツーブロックに向かい合うように座る。 

 女が2人、男が6人。4人が脱落する計算になる。

「餅って言います」 

「きなこ餅の餅?変わった名前ですね?あっ、男に自己紹介はいいよ」

「猫屋敷、少し腹が出過ぎだよ」  

 窓辺に立っている妻神が言った。

「大きなお世話だ」


「それじゃあ、入会金を徴収致します」  

 ずっと押し黙っていた妻神が口を開いた。

 太は入会金、5000円を妻神に渡した。

 ある深夜、畦道で老人から5000円を引ったくった。ボコボコに殴ったがニュースで『死亡』とはなっていなかった。あのときは狐の面をかぶっていた。

 妻神、根城、真菜、猫屋敷は詐欺師だ。

 秋田県に住んでいる鍵一樹かぎかずきは、息子を妻神たちの巧妙な企みにより、自殺に追い込まれている。

 モネの贋作を自分で書いたものだと真菜に言いくるめられて、10万円を渡してしまった。

 さらに真菜はラブコネクションを一樹の息子、辰吾しんごに行わせた。

 ラブ・コネクションとは、恋愛感情を利用して、覚醒剤などの密輸を行わせる行為をいう。

 逮捕されることに怯えた辰吾はホテルの屋上から飛び降りた。1年前の2月の出来事だ。

『殺すのは林檎だけで結構です』

 横手市にある自宅で一樹は怒りに震えながら、太に依頼してきた。

 横手市は、秋田県東南部に位置する市。 秋田県東南部の中心都市である。B級グルメの横手焼きそばや2月に行われる伝統行事のかまくらが全国的に有名である。

 太は1万円で真菜殺害を引き受けた。

 恋愛関係が長引けば、太が麻薬の売人にさせられる可能性もあった。逮捕されても刑事たちを皆殺しして助かる方法もあるかも知れないが、成仏出来なくなるかも知れない。地獄に落ちて血の池地獄でもがくのはゴメンだ。余談だが、別府には血の池地獄がある。日本で一番古い天然の地獄で、一言で言うなら「赤い熱泥の池」だ。地下の高温、高圧下で自然に化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積するため池一面が赤く染まる。

 

 馬酔木が妻神たちの共犯者である可能性はある。警察に突き出したら、魔物に殺されたら蘇ることが出来なくなる。

 運良く、馬酔木は席を外した。

「どこに行くんだ?」

 太は逃げるんじゃないか不安になった。馬酔木は共犯者でもなんでもなく、騙されていることに気づいた?逃げられたら、蛸の怪物が春採湖から現れて、襲われたら大変だ。

「トイレだよ」

 馬酔木は股間の辺りを押さえてる。

「漏らすなよ?」

 太は苦笑した。

 馬酔木が談話室から出ていく。

 太は馬酔木の座っていた席に座った。

 

 太はプロフィールカードを見せた。

 檜垣太

 39歳

 学習塾で歴史について教えています。最近、宝くじで1億円当たりました。


「1億!マジで!?」

 きっと、真菜は峰不二子を気取ってるに違いない。セクシーな足のポーズをする。ギリギリ、パンティが見えそうだ。

「あぁ、年末ジャンボ宝くじでね」  

 1億ってどれくらいの重さなんだろう?幽霊をしている今なら銀行に強盗に入って奪うことも出来るかも知れない。

「あなた、運がいいのね?」

「コロナが終わったら君をハワイに連れて行くよ」

「慣れてるのね?モテるでしょう?」


 28日19:20

 太は真菜と釧路駅北口にあるラブホ街にやって来た。駅前に駐車場やタクシーのりばが設置されている。東側にはホテル併設の駅前バスターミナル(複合ビル)が設置されており、都市間バスや釧路空港連絡バス、市内線、郊外線が発着する。

 駅前通りは、銀行、証券会社、生損保会社の支社、支店、営業所が立地している。

 繁華街は、通称「末広すえひろ」の名で親しまれている末広町・栄町・川上町地区にあり、駅から北大通を幣舞橋方面へ直進して徒歩5分 - 10分の左手にある。

 一度目の行為の後、腕の中で余韻に浸っている陽菜にキスをしながら その身体の上に覆い被さると、正常位の体勢で奥まで一気に挿入する。

「あぁっ──!」

 真菜は太にしがみついて喘いだ。

 太はもう死んでいるから子供を作ることは出来ない。

「生でするの、興奮するよな。めちゃくちゃ、気持ちイイ…」

「私も……気持ち…イイよ…」

 スマホの音で太は我に返った。

《あっ?檜垣か?大変なことが起きた》

 相手は馬酔木だった。彼の話を聞いて太は唖然とした。妻神が死んだ。


20:20

 敬礼は殺害現場にやって来た。

 東釧路貝塚だ。北海道釧路市貝塚一丁目にある縄文時代の貝塚遺跡。国の史跡に指定されている。

 縄文時代早期から近世にかけての、14層以上の遺物包含層をもつ複合遺跡である。1970年(昭和45年)7月22日に貝塚11地点が国の史跡に指定され、1976年(昭和51年)2月24日に遺跡の範囲がさらに確認され、追加指定が行われている。根室本線の東釧路駅に南接する台地にある。太平洋戦争後に数回発掘調査が行なわれた。その結果、鹹水性の貝層からは主にに前期の押型文土器が出土し、貝層下からは早期の数型式土器が出土。また、縄文時代早期の多数の屈葬人骨も発見された。東西120メートル、南北90メートルの範囲に全部で11のブロックがある。厚さ1メートル程度の貝層には、アサリが多く含まれる(全体の70%)が、その他にも、カキ、オオノガイや、暖海性のアカガイ、シオフキなどのほか、トド、アシカなどの海獣類や魚類、鳥類などの骨なども含まれている。貝層中にはイルカの頭骨が放射状に配列された跡もあるほか、トドやイヌなどを埋葬した跡があるなど、宗教性もある。このように、東釧路貝塚は北海道内屈指の大貝塚である。

 

 人間の胴体部分を入れたビニール袋が放置されていた。ドス黒い血でベトベトだった。

 無量林の手により司法解剖され、中年の男性だと分かった。釧路署の解剖室前のソファに敬礼と無量林は座っていた。

「手足もないし、顔もないから被害者を断定することは出来ないな」と、無量林。

「それじゃあ死因も分からない?」と、敬礼。

「胴体部分に死因に繋がるような変化は見られない」

「死因は首か頭にあるってことになりますね?」

「バラバラ殺人は女性が犯人である場合が多い」

「そうなんですか?」


 印鑰は深夜に児童公園のベンチで缶ビールを大量に飲んで、酩酊状態の妻神をハンマーで後ろから殴りつけた。瀕死の妻神をワンボックスカーに乗せて、アジトに連れて行きバラバラに解体した。

 胴体をキャリーバックに入れ、東釧路貝塚に運んだ。


 敬礼は警察学校で教官に教わった、『現場百遍げんばひゃっぺん』という言葉を思い出した。

 警察による事件の捜査などに際して使われる表現で、事件現場にこそ解決への糸口が隠されているのであり、100回訪ねてでも慎重に調査すべきであるということ。

敬礼は単身、東釧路貝塚にやって来た。敬礼はコウモリのバサバサという羽音に驚いた。🦇

「うわっ!!」

 無数のコウモリが壁にひっついて、チューチュー不気味に鳴いている。

 眼鏡をかけた片足の女性が敬礼を睨んでいた。

「ぼっ、僕が何をしたと言うんだ!」

 そういえば、事故で片足を失ったバレリーナを目指していた女性がビルの屋上から飛び降り自殺を図って、幽霊となって現れるって都市伝説を聞いたことがある。確か、その女性の名前はカシマレイコ!

 後ろに気配がしたので振り返ると、鎌を構えた死神が立っていた。

 不意に敬礼は呪文を思い出した。

「仮面のか、死人のし、悪魔のま!」と唱えると、カシマレイコは忽然と姿を消した。

 

 10月29日

 猫屋敷、根城は馬酔木から妻神が死んだことを聞いた。釧路駅近くの喫茶店、野郎3人なんて味気ない。猫屋敷と根城はコーヒーを飲んでいるが、馬酔木はコロナに感染するのが怖くて何も注文しない。

「貝塚で見つかった遺体が妻神のものだっていう証拠は何もない。警察はまだ身元は判明してないってニュースでやってた」と、猫屋敷。

「俺の推理に狂いはない」

 馬酔木は自信満々だ。

「いったい、犯人は誰なんだ?」

 根城はコーヒーを飲み終え、馬酔木に尋ねた。

「さぁな」

「肝心の犯人が分からなくちゃ意味ねーや!」

 猫屋敷の声が大きかったのか、客や店員がこっちを見た。

「声がデカいよ?コロナなんだし、空気読めよ」と、馬酔木。

「もしかしたら、悪虫の家族かも知れない」

 根城は悪虫の最期を思い出した。

 悪虫は根城の髪が薄いことを小馬鹿にしてきた。

 織田信長を本能寺で殺した明智光秀はキンカン頭と呼ばれていたが、それを文字って、金貨頭と根城に名づけた。

 阿寒富士あかんふじにある山小屋の中で、根城はハンマーで悪虫を撲殺した。猫屋敷、真菜、馬酔木、妻神の4人も一緒にいた。

 阿寒富士は、美しい円錐状の山容を持つ北海道東部に位置する活火山。標高1,476m。雌阿寒岳(8つの小さな火山から構成される成層火山群)を構成する一火山である。北海道釧路総合振興局白糠郡白糠町と十勝総合振興局足寄郡足寄町の境界に位置し、山腹の北東部が釧路市(旧阿寒町)に属する。

 遺体は森の中に穴を掘って埋めた。

「バラバラにして殺されたくない」

 猫屋敷は怯えている。

 店内ではYOASOBIの『群青』が流れている。

「そろそろ、スタッドに履き替えないとな?」と、根城。

「いきなり話を変えるなよ?」

 話が噛み合わないことに猫屋敷はイライラしている。

「悪い悪い」

 しばし考えてから、根城は言った。

「妻神が死んであの別荘にはもう入れないだろうな?誰の所有物になるのかな?」

「さぁなぁ……」

 首を傾げ、猫屋敷はコーヒーにガムシロを入れた。

「もう冷めてんじゃない?」と、馬酔木。

「僕、猫舌なんだ」

「名前は猫屋敷なのに?」

 不意に浮かぶ、馬酔木の笑み。

「なぁ、確か悪虫って五所川原ごしょがわらに住んでるんだったよな?」

 根城が馬酔木に問う。

 五所川原市は、日本の東北地方最北部、津軽半島中南部に位置し、青森県西部に所在する市である。旧市浦村域は飛地となっている。

「あぁ、昔言ってたよな?エルムの街ってのがあるって」と、馬酔木。

 根城は、眠っている人の夢に出現し、右手の庭師用手袋にはめられた鉄の爪で相手を引き裂く殺人鬼を思い出した。

「フレディでも現れるのか?」と、猫屋敷。

「まさか、五所川原に行こうってのか?」

 馬酔木は殺人鬼のいる街なんか行きたくないと思った。エルムの街ってのはショッピングモールだが、みんな早とちりしてる。

「殺られる前に殺ってやるよ」

 根城の目は血走っていった。


 釧路駅近くにあるラブホ『セレーヌ』で凄惨な事件が起きた。

 205号室のベッドの上で女がうつ伏せになって死んでいた。発見したのはフロントの女だ。ロビーで滞在時間を告げて行為に及ぶタイプのホテルだ。朝6時までのはずが、時間を過ぎてもカップルが退出しないので部屋に向かったら遺体を発見したというわけだ。

 敬礼は女性の遺体を見たとき寒気を覚えた。

 無量林が遺体を解剖した結果、死因が絞殺であることが判明した。気になる点があった。防犯カメラに犯人であろう彼氏の姿が映っていないのだ。205号室は密室にはなっていなかった。ドアから出たのは間違いない。が、どうやってホテルから出た?

 1階には窓はあるが、開閉しない曇りガラスだった。

 敬礼と無量林は、札幌駅前の喫茶店で遅めの朝食を食べていた。ここのトーストは格別だ。

 敬礼は腕時計を見た。もう11時だ。

「犯人は幽霊だったんじゃないか?」

「無量林さんってジョーク言うんですね?」

「ジョークじゃないさ」

 無量林は昔、室蘭むろらんにいたことがあるらしい。

 冬の北海道室蘭市の踏み切りで女子高生が列車に撥ねられ、上半身と下半身とに切断されたが、あまりの寒さに切断部分が凍結し、しばらくの間、生きていたという。


 この話を聞いた人の所には3日以内に下半身の無い女性の霊が現れる。逃げても、時速100-150キロの高速で追いかけてくるので、追い払う呪文を言えないと恐ろしい目にあうという。またその異様なスピードと動きとは裏腹に、顔は童顔でかわいらしい笑顔を浮かべながら追いかけてくるためその恐ろしさをさらに助長するという。しかし、階段は上れず、近くの階段に上れば助かるとのこと。


 多くの場合「女性」とされるが、稀に男性で描写されることもある。


 遺体の下半身だけが見つからなかったため、自分の足を捜しているとのこと。


 北国で、女性が線路に落下し、電車に轢かれて上半身と下半身に切断されたが、余りの寒さによって血管の先が凍り付いて止血され、暫くの間苦しみながら周りへ助けを求めたものの、駅員の判断によってブルーシートをかけられ、女性はその後しばらくして死んだ、という話もある。この話の場合、自分を見捨てた人間を恨んでいるため、足探しではなく、人間の殺戮自体を目的としている。

 

 無量林の話を聞き終えた敬礼は身の毛がよだった。

「それにしても、あの遺体が絞殺だなんてよく見抜きましたね?」

 敬礼はトーストを食べ終えた。蜂蜜が絶妙に美味かった。

吉川よしかわ線があったからな」

 絞殺・扼殺されようとする際に、被害者が紐や犯人の腕を解こうとするなどの抵抗により、自分の首の皮膚に爪を立てて傷を付けてしまうことにより発生する。

 同時に、被害者の爪にも血液や皮膚の断片が付着していることが多い。

 吉川線の有無により自分で首を吊った自殺か、絞殺・扼殺による他殺かの判断基準の一つとされている。


 太は真菜を殺した達成感に浸っていた。

 💀真菜で6人目だ。残り6人。

 凶器は靴紐だ。真菜を絞め殺した後は、シューズに戻す。これで鍵の息子も成仏仕事だろう。だが、防犯カメラにはきっちりと顔が残ってしまった。真菜を殺した後、体が透明になったので玄関から堂々と出た。

 今は人間体に戻り、釧路郊外の廃校にいた。ここなら見つかる心配は少ない。

 早く整形しないとな?横浜流星よこはまりゅうせいみたいなイケメンになりたい。

 

 11月1日

 3代目新500円硬貨(バイカラークラッド貨幣への改鋳)が発行。素材は日本の通常硬貨では初となるバイメタル技術を採用、縁の異形斜めギザ、表面の一部に微細文字を施し、偽造抵抗力をより強化。発行時期は、新型コロナウイルス流行の影響を受け、事業者の機器改修面に遅延が生じ、当初の2021年度上期から延期されていた。しかし発行時点では機器改修が追い付いておらず、自販機等で使用できない事例が相次いでいる。

 ジャニーズ事務所の男性アイドルグループ、V6が本日千葉県千葉市の幕張メッセで行われた全国ツアー最終公演を最後に解散。これに伴い、森田剛はジャニーズ事務所から退所し、残りのメンバーは引き続き現在の事務所でそれぞれ活動する。

 

 根城と猫屋敷は五所川原に向かっていた。

 根城はジープを運転している。

 猫屋敷は助手席で昨日起きた凄惨な事件を思い出していた。2021年10月31日20時頃、東京都調布市を走行中の京王線上り特急列車内(京王8000系8705F)で、乗客の24歳の男が刃物で他の乗客を切りつけた上、液体を撒いて放火し18人が重軽傷を負った。刺された1名は、心肺停止状態を経たあとで、回復した。16名は、火災による煙を吸って、喉の痛みを訴えた。その後、1名が負傷者に追加された。犯人の男は殺人未遂容疑で警視庁に現行犯逮捕された。

 根城は出刃包丁、猫屋敷は金属バットをそれぞれ携帯していた。

 根城は歴史について詳しかった。

 

 後氷期初頭(新生代第四紀完新世初頭) - ヴュルム氷期(最終氷期)が終焉したことによる全地球規模での気温上昇に伴い、日本列島周辺でも海面上昇が始まる。本州島北端部では峡谷への海進が始まり、十三湖の湾入が出現、岩木川による堆積作用が波及して谷の埋積が進捗し、津軽平野の形成が始まる。


 縄文時代前期 - 相内露草地区にて、オセドウ遺跡(通称:オセドウ貝塚遺跡)の形成期の始まり/当遺跡の考古学的価値は主として縄文時代にあるが、平安時代の終焉期までの長きに亘る繁栄を確認できる。しかし中世に入って衰退を見せ、消滅している。


 約3500年前(縄文時代後期後葉) - 相内地区にて、五月女萢遺跡そとめやちいせきの形成期の始まり/10世紀前半(平安時代中期)まで栄える。


 奈良時代 - 十三湖内の中島にて、中島遺跡の形成期/この遺跡は、津軽地方における奈良時代の標式遺跡となっている。


 10世紀後半(平安時代後期) - 陸奥国津軽鼻和郡の現・相内地区にて、福島城の築城。


 13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉) - 十三湊とさみなとが、豪族・安東氏(津軽安東氏)の本拠地として、和人と蝦夷地のアイヌとの間の重要交易拠点として栄え始め、次第に隆盛に向かう。換言すれば、十三湊遺跡の形成期の始まりである。

 興国元年(暦応3年、西暦換算:1340年、南北朝時代初期) - 大海嘯(大津波)で十三湊が壊滅的被害を受けて衰退したとの伝承あり。しかしながら、発掘調査で津波の痕跡は検出されておらず、続く時代の史料との整合性も見られない。


 14世紀(南北朝時代全期および前後数十年) - 十三湊の拡充と隆盛。


 15世紀半ば(戦国時代初頭) - 安東氏(津軽安東氏)が南部氏に敗れて支配地を失い、夷島えそがじま(蝦夷地のこと)へ逃げる。十三湊はこれによって急速に衰微し、和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は、野辺地湊のへじみなと(野辺地湾に面する湊。盛岡藩の北の門戸として江戸時代に隆盛。現在の上北郡野辺地町域にあった)や大浜/大濱(現在の青森市油川地区にあった湊で、15世紀末~16世紀に隆盛)に奪われる。


 文明年間(1469-87年間)- 成立時期については定説が無く戦国時代末期(16世紀末か17世紀初頭)などとする説もあるが、日本最古の海洋法規集『廻船式目』が、恐らくは瀬戸内の海賊衆の下で成立する。同書は「三津七湊」について記しているが、七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」の名で十三湊を挙げている。ただし、実際の十三湊の隆盛期は津軽安東氏の没落と共に終焉を迎えている。

16世紀後半(戦国時代後期) - 十三湊が再び整備され、復興が図られる。


 近世以降 - 十三湊とさみなとの異訓として「じゅうさんみなと」が見られるようになる。


 江戸時代全般 - 岩木川を下ってきた米を十三湊から鯵ヶ沢湊(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町域にあった湊)へと運ぶ「十三小廻し」が行われていた。

寛文元年(1661年、江戸時代初期) - 八幡宮の創建。


 元禄年間(1688-1704年間、江戸時代初期) - 弘前藩第4代藩主・津軽信政の命により、北津軽の新田開墾事業が推し進められる/この時期、溜池も灌漑用水源として数多く築造された。現・五所川原市域では境野沢溜池や藤枝溜池が代表的である。

 

太宰治だざいおさむっているだろ?」と、根城がウィンカーを右に出しながら言った。

「『人間失格』とか『走れメロス』を書いた奴だろ?」

「太宰は五所川原出身なんだ」

 1909年(明治42年)6月19日 - 金木村の津島邸で、源右衛門の六男・修治(太宰治)が誕生。


 悪虫邸は十三湖じゅうさんこの近くにあった。津軽国定公園内に位置しており、周辺自治体は五所川原市(旧市浦村)、北津軽郡中泊町(旧中里町)、つがる市(旧車力村)である。周囲約30キロメートル、水深は最大3.0メートルに過ぎず、南方より岩木川が流入する。この川が日本海に向かう途中、砂州によって塞き止められ汽水湖となった。独特の荒涼とした風景に囲まれている。


 特産物はシジミであり、宍道湖、小川原湖と並ぶ日本有数のシジミ産地である。シジミ漁については十三漁業協同組合、車力漁業協同組合がある。資源保護のために1日の漁獲制限や禁漁区禁漁期間を決めるなどしてヤマトシジミの資源維持につとめている。 ジョレンを船で引っ張って採る。


 中世(13世紀初頭〜15世紀前半/鎌倉時代〜室町期)には日本海沿岸の交易港「十三湊」の在った場所であり、津軽地方の有力豪族であった安倍氏・安藤氏(安東氏)の拠点として栄えたが、近世以前に衰退した。資料は少ないが、1991年から発掘調査が行われ研究が進められており、実態が明らかになってきている。この「十三湊遺跡」は、2005年(平成17年)7月に国の史跡にも指定されている。


 また、オオハクチョウ、コハクチョウの渡来地として知られ、「十三湖のハクチョウ」として県の天然記念物に指定されている。


 十三湖や十三湊の名称の由来は、日本海と湖の間にある砂州に13の集落があった、13の川が流入しているなどの他に、アイヌ語で「湖の傍ら」を意味する「トー・サㇺ」に由来するとの説もあるが、詳細は不明である。なお、南方にある十二湖とは無関係である。

 

 市の駐車場にジープを止めて、根城と猫屋敷は街を歩いた。十三湖周辺には中世に「十三千坊」と呼ばれる神社仏閣群があったと伝えられている。また実際に宗教遺跡や城跡などが今に残っている。これらは同時代に栄えた安東氏の本拠地とされる十三湊に近いことからその影響下にあった可能性があり、同氏との関連が指摘される遺跡・遺構もいくつか存在する。なお、下記の十三地区、相内地区はいずれも現在の五所川原市に位置している。

 悪虫邸は寂れていた。インターホンを押したが誰も出ない。モスグリーンのウィンドブレーカーを着た中年男が、「どうかされました?」と尋ねてきた。

「悪虫さんってどうされました?」

「息子さんが殺されたあと、どこかに引っ越したらしいですよ」

 妻神を殺した後、どこかに逃亡した?根城はそう思った。

 

 2人は中の島ブリッジパークにやって来た。

 十三湖に浮かぶ小島を利用したパーク。湖西岸(青森県道12号鰺ケ沢蟹田線側)とは「中の島遊歩道橋」で接続。パーク内には宿泊施設や文化施設(資料館)があり、これらの施設は毎年12月〜3月には冬季休業となる。なお、島内からは奈良時代の遺跡(中島遺跡)が発見されている。

「猫屋敷、ワクチン接種したか?」

 根城が歩きながら尋ねてきた。

「全然、繋がらないんだよ。役所は杜撰だよ。どこかの市長なんてワクチン独り占めしたじゃん?偉い奴は何をしても許されるんだ」

「電話がダメならネットでやればいい」

「金ないからさ、パソコン持ってない」

「スマホでやれよ」

「解約した」

「あぁ、吉幾三の『おらこんな村イヤだ』みたいだな?パソコンねー、ケータイねー♪」

 根城がバカにしてるようで、猫屋敷はイライラした。酒造メーカーに派遣されていたが、コロナで緊急事態宣言やまん延防止措置(マンボウ)が行われた為に売り上げが落ちて、派遣切りに遭ったのだ。

「吉幾三も五所川原出身なんだ」

「根城、あんまり馬鹿にしたら殺すよ?」

「馬鹿にはしてねーよ」

「国会議事堂爆破してー、アイツらのせーで仕事亡くなったんだ」

「悪いのは中国だろ?」

「中華街行って、岡田以蔵みたく中国人たくさん殺してー」

 土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に、二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。弟に同じく勤王党に加わった岡田啓吉がいる。


 嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備に、父・義平が郷士として従事した記録が残る。それ以後城下の七軒町(現在の高知市相生町)に住むようになった。


 武市瑞山(半平太)に師事し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山とともに江戸に出、桃井春蔵の道場・士学館で鏡心明智流剣術を学ぶ。翌年9月、土佐に帰る。万延元年(1860年)8月より、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に、中国・九州で武術修行を行う。途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に、以蔵の滞在と藩士江戸行の便への随行を頼んだ。武市と別れた以蔵は、岡藩で直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)5月ごろ、江戸に出て、翌年4月土佐に帰る。その間の文久元年(1861年)8月、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年(1862年)6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。


 土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、安政の大獄を指揮した長野主膳の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた。村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた。このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられた。


 なお、一般的に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、後年の創作物によって「人斬り」の呼び名が定着したものであり、以蔵は同時代の同志から「天誅の名人」と呼ばれていた。

 以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩して江戸へ向かい、2月より高杉晋作のもとで居候となる。3月に高杉が藩の命で京へ赴くと、以蔵も京に滞在。同時期に高杉からの6両の借金を、勤王党員の千屋菊次郎が代わりに返済している。同志と疎遠になった後は、一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に身を寄せたが行方知れずとなり、後述する洛中洛外払いの際は脱藩者であることから無宿者として処断されている。その後八月十八日の政変で土佐勤王党は衰勢となる。


 元治元年(1864年)2月、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられ、5月に焼印・入墨のうえ京洛追放処分となり、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。


 土佐藩では吉田東洋暗殺、および京洛における一連の暗殺に関して、首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていた。以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく以蔵は、拷問に屈して自分の罪状および天誅に関与した同志の名を自白し、その自白によって新たに逮捕される者が続出するなど、土佐勤王党の崩壊のきっかけとなる。以蔵の自白がさらに各方面へ飛び火することを恐れた獄内外の同志によって、以蔵のもとへ毒を差し入れる計画まで浮上したが、瑞山が強引な毒殺には賛同しなかったこと、以蔵の親族からの了承を得られなかったこともあり、結果的には、獄の結審に至るまで毒殺計画が実行されることは無かった。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28。

 

 2人はレストランに入って昼飯にした。十三湖ではシジミが採れ、ジジミの味噌汁は格別だった。また、りんごのシャーベットもまいう~🍎🍏

 昼飯の後、斜陽館に行った。

 

 建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。


 太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。


 太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。


 しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化。これにより、経営者が手放す旨を発表した。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった。旅館は1996年4月7日に廃業し、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。

 

 当館は木造2階建てで、青森県産材であるヒバをふんだんに使用し、階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の規模を有する大地主の豪邸である。外観は和風住宅であり、間取りも大規模ではあるものの津軽地方の町屋の間取りを踏襲したものとなっているが、内部には洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、また屋根構造は和小屋組ではなくトラス構造となっているなど、和洋折衷建築となっている。向かいに青森銀行金木支店があるが、偶然向かい合っているのではなく、明治時代に津島家が営んでいた金木銀行が青森銀行に引き継がれているからである。「斜陽館」は明治時代の地方の銀行建築でもあり、主屋をはじめ文庫蔵・中の蔵・米蔵等の大型の土蔵や敷地周囲の長大な煉瓦塀といった屋敷構え全体がほぼ当時のまま保存されている。小説家太宰治の生家としての記念的建造物であるとともに、近代和風建築や大地主の屋敷構えの貴重な遺構となっており、付属建物や土地を含めて国の重要文化財に指定されている。なお、建築工事の依頼を受けたのは、弘前市を中心に近代建築を後世に残している堀江佐吉で、設計も佐吉によると思われるが、本人は完成を見ることなく亡くなっており、棟梁を四男の斉藤伊三郎がつとめて完成させた。


 主屋は西を正面とし、西面南寄りに入母屋屋根の玄関がある。玄関の左手には「店」(金融執務室)、右手には事務室があり、「店」の奥には和室がある。玄関を抜けた先は居住空間で、南側を幅の広い「通りにわ」(土間)とし、北側は東西3室・前後2列の計6室を設ける。室名は前列が西から「前座敷」、「茶の間」、「常居」、後列が西から「仏間」、「小座敷」、「小間」となる(室名は資料によって差異がある)。これらの室の東側は広い「板の間」とする。板の間は天井を張らず、トラスの小屋組を見せる。土間の南、建物の東南側の室は現在は休憩室となっているが、当初は女中部屋で、その後炊事場となっていた。玄関脇の階段を上った2階は洋間の応接室のほか、和室7室を設ける。主屋の東に「中の蔵」、その東に「米蔵」、主屋の北に「文庫蔵」(現・展示室)が建つ。津島家住宅は、津軽地方の伝統的な町屋の形式を踏襲しつつ、店、応接室などに洋風意匠を取り入れている。当住宅は、著名作家の生家であるとともに、大規模で質の高い邸宅建築で、蔵、煉瓦塀、庭園などを含む屋敷構えが良好に保存されていることから、文化財としての価値も高い。

 

「あれ、何でここに?」

 餅が後ろから声をかけて来たので、根城と猫屋敷は驚いた。

「それはこっちのセリフだ」と、猫屋敷。

「学芸員してるんです」

「ヘェ~」と、根城。

「太宰治って入水自殺してるじゃないですか?ここに来た人が何人も同じ死に方で死んでるんです」

 餅は言ったあと、太宰の死について語った。

 1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で愛人の山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。


 この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」、「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。


 中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した。


『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。


 しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。

 

 太宰は青森県北津軽郡金木村(のちの金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという。小学校卒業後、1年間明治高等小学校に通学。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている。

 

 青森県北津軽郡金木村(のちの金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという。小学校卒業後、1年間明治高等小学校に通学。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている。

 

 1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。小説家を志望するようになる。


 1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り津島家の親戚筋にあたる藤田家(現・太宰治まなびの家)で下宿生活をしていた。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。


 1928年(昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている。この頃、芸者の小山初代(1912-1944)と知り合う。1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選。12月10日未明にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある。


 1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。


 講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する。除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる。


 1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思い出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱。仕送りは120円から90円に減額された。


 1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。


 1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。


 同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。


 1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。


 第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。

 

 パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。


 1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている[37]。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。


 1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、美知子の実家の甲府に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。

 

 1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。


 1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。


 没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。


 10月頃、新潮社の野原一夫は太宰が富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。部屋に青酸カリを隠していると脅し、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談し、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州に出張中だった。


 その後、自殺へのカウントダウンがはじまった。

「水死するって苦しいんだろうな?」

 そう言うと、根城はイライラしたような剣呑な表情を作った。

「どうした?」と、猫屋敷。

「いいや、何でもない」

 斜陽館を出て、駐車場へと向かう。

「もしかしたら、妻神を殺したのは餅かも知れない」

 その言葉に、猫屋敷は腕を組み言った。

「さっきのあの顔の原因はそれか?」

「詐欺師だと気づいて、復讐したんだ」

「俺は違うと思う。犯人は馬酔木だよ」

「どうしてそう思う?」

「警察が知らない情報が何故あいつが知ってる?あいつが犯人だからだ」

「確かに辻褄が合うな?だが、動機は?」

「悪虫殺しで警察に何か聞かれたんだ」


 ラーメン屋で夕食を済ませ、中の島にあるホテルにやって来た。『タロス』って円柱形の建物だ。

 タロスはギリシア神話に登場する、クレータ島を守る自動人形(巨人)である。この他にもダイダロスの甥に同名の人物がいる。

「臨とはどうなった?」と、猫屋敷。 

 猫屋敷と根城は同じ部屋に泊まっていた。

 オセロで遊んでいた。マス目は64ある。

 ⚪が猫屋敷、⚫が根城だ。

「37歳だったよ彼女、スーパーでウィンナー切ってたら俺のモノ想像したって言ってた」

「ポークビッツみたいなオマエのモノでも、愛してくれるんならいいじゃん」

「出身は宮城だが、釧路駅の近くに住んでる。パパが資産家らしく、マンションに住んでる」

「羨ましい。俺なんてアパート追い出されたってのに」

 猫屋敷は自動車工場に派遣されていたが、派遣切りに遭った。

「岩手にある実家に帰りなよ」

「おふくろと仲悪いんだ。Androidほしい」

 勝敗は猫屋敷が31、根城が33だ。

「勝ったからさ、猫ちゃん何か御馳走してよ?」

「今の俺の話聞いてた?家はないし、ケータイもないの?」

「居候させてやってんだからさ。それくらいいいだろ?」

 根城は八戸市出身だが、両親を高校生のときに交通事故で亡くし、祖父母のいる釧路に移り住んだ。

「缶ビールでいいか?」

「マジで?」

「ちょっと行ってくる」


 猫屋敷はホテル内の自販機じゃなく、最寄りのコンビニに向かった。決まってホテルの自販機は酒が高い。ジャンバー着てきてよかった。外はクソ寒い。が、涼感タイプのマスクなのでヒンヤリ、いや、ヒリヒリしてる。

 🏪コンビニの近くにやってきた。

「ちょっとお尋ねします」

 後ろを振り返って、猫屋敷は固まった。

 上半身だけの女が猫屋敷を見ていた。  

 通行人は化け物が見えてないのか、オシャベリしながら通り過ぎていく。

 👨「今年の紅白、誰が出るかな?」

 👩「緑黄色社会、あとは米津玄師」

 👨「もし、外れたら奥さん殺してくれる?」

 👩「いいよ?そしたら、タッくんとず〜っといられるもんね」

 怪物は鎌を手にしている。刃先は赤黒く染まってる。

「なっ、なんでしょう?」

 きっと、鹿島麗子だ。バレリーナタイプのカシマレイコの名前が加島玲子だと、猫屋敷は最近突き止めた。鹿島麗子は猫屋敷と昔つきあっていた彼女だ。流産した挙げ句、深夜の交差点に寝転びトラックに轢かれて死んだ。


 根城は猫屋敷に危機が迫っているとも知らず、スマホのグーグルで餅について調べていた。鏡餅でも尻餅でもない。カモの餅だ。

 餅はかつては生物学者だったらしいが、3年前に病死してる。 

「俺の前に現れたアイツは何者?」

 

 鹿島麗子と猫屋敷は対峙していた。

「私達の最初に行ったデートスポットは?」

「碁石海岸」

 碁石海岸は、岩手県大船渡市末崎半島にある、碁石のような扁平な石(黒色の泥岩による円礫)を主体とする海岸、および、周辺の観光エリアの総称。三陸復興国立公園に属する。

「正解」

「私の好きな食べ物は?」

「牛丼」

「正解」

「じゃあ、最後の問題ね?」

 猫屋敷は唾を飲み込んだ。妻神みたいにバラバラにされるのかな?

「私達の間に授かった子供の名前は?」

牛基うしもと

 猫屋敷の名前は勝基かつもと、それに麗子の好きな牛丼を足した名前だ。

 運命が変われば楽しい人生が待っていたはずだ。

「産みたかったなぁ……」

 麗子はさめざめと涙を流した。

「麗子……」

「いろいろと悪いことしてるでしょ?牛基もあの世で悲しんでるから、やめて?」

 あの世に行けば牛基に会えるのか?

 麗子は姿を消した。


 根城はベッドに座り、貧乏揺すりしていた。

「猫の奴、何やってんだ?」

 まさか、警察に捕まったか!?脳裏に『相棒』に出てくる右京さんに職質される猫屋敷の姿が現れた。

 テーブルの上のスマホを取ろうとしたら、ピープピープピープ♪と鳴り出した。画面には『非通知』と出ていた。

 恐る恐るスマホに出た。

《久しぶり、根城君》

 嘉島令子だった。昔、一緒に仕事をしたことがある。どことなく剛力彩芽ごうりきあやめに似ていた。

「どうしてこの番号を?」

 警察から番号を突き止められるのを恐れて、令子が死んだあとにケータイも番号も変えた。令子を殺したのは根城だ。

《冥界の人間はね?恐ろしく知能指数が高いのよ》

「殺したことを恨んでいるのか?」

《痛かったわよ!背中からダガーナイフで刺しやがって……胃袋が飛び出たじゃない!》

「どうしたら許してくれる?」

《今から出す問題に3回答えられたら見逃してやる》

「答えなかったら?」

《命を奪う》

 冥界からかけているのか?電話代とかかからないのか?LANとかどうなってるんだ?幽霊だからどんなことでも出来るんだろうな?

 根城は4階に泊まっていた。窓際にいたら、引力で地上に叩き落されるかもしれない。電気の傘の下も危険だ!下敷きになる!部屋の片隅に移動した。

《私が最期に殺した人間の名前は?》

「ごっ、合田順」

 食肉センターの御曹司で、金に目がくらんだ彼は父親であり社長の合田在助を殺そうとしていた。

 令子はかつて光学迷彩の研究をしていたが、リストラされ住むところを無くしたところを根城に拾われた。

 光学迷彩は、視覚的に対象を透明化する技術の事である。自然界ではカメレオンやイカ、タコ等の保護色を変える擬態などがみられるが、人間の手による光学迷彩はSF作品等に登場する未来の科学技術であった。 2000年代に入り、メタマテリアルなどの新素材を用いることによって、一定の迷彩が実現されている。

 順を殺せば30万が手に入る。居候させてもらっている代わりに性欲の捌け口にされた。

 根城はドSで、性行為の最中に首を絞めたりしてくる。報酬を手にしならアパートを借りて、弁当屋にでも就職してやり直そうとしていた。

 今年の9月17日、透明になるマスクを開発した令子は工場に忍び込み、順を冷凍庫に閉じ込め殺した。

《正解。2問目……私を殺した場所はどこ?》

「米町公園」

 釧路発祥の地である米町の高台にある。当初は児童公園として都市計画決定されたが土地区画整理事業により公園区域が変更となり、1988年度(昭和63年度)から市内唯一の歴史公園として再整備した。灯台の形をした展望台からは釧路港を眼下に見下ろすことができ、晴れた日には摩周岳や斜里岳、日高山脈の山々を見渡すこともできる。公園内のトイレは明治・大正期にあった劇場『共楽座』の外観をモチーフとしている。


 公園の向かいには釧路最古の木造民家で、釧路にゆかりのある石川啄木の資料を展示している『米町ふるさと館』がある。


 令子は順を殺したことに苛まれて警察に出頭しようとしていた。根城には人の心の内側を読むという不思議な能力があった。

 令子の弟のケータイを奪い、弟に協力してもらって公園に呼び出して殺した。

『ねぇーちゃん、詐欺師に騙された。首を吊ろうと思ってる』

 令子は弟の目の前で刺し殺された。

《正解。最後の問題よ?私の好きなアーティストは?》

「おいおい!事件とは何にも関係ないだろ?」

 1度だけカラオケに行ったときがあった。あのときは、LiSAの『紅蓮華』と米津玄師の『感電』、宇多田ヒカルの『First Love』を歌っていた。

 超難しい!

「宇多田ヒカル?」

 バコンッ!!隣の部屋の壁に突然穴が開いて、マントを被った男が現れた。

 男はクロスボウを構えた。🏹ビュッ!矢が根城の胸にグサリと突き刺さった。

 血がボタボタと零れ落ちる。

「ガハッ!」

 根城は大量に吐血した。意識が薄れゆく。

 もっと、真っ当に生きるべきだった。

 

 印鑰は根城の死体を見下ろした。

 クロスボウでもなかったようだ。成仏するにはどんな武器を使えばいいのか?

 クロスボウはボディが主にプラスチックやアルミニウム、チタンなどの軽量素材で製造されており、リムは概ねグラスファイバー製である。

 ボルト(矢)はアルミニウムやCFRP(炭素繊維強化プラスチック)、GFRP(ガラス繊維強化プラスチック)が用いられる。

 リムに滑車が搭載されているものはコンパウンドクロスボウ、それ以外はリカーブクロスボウと呼ばれる。

 コンパウンドクロスボウは滑車の原理を利用したもので、ドローウェイト(弦を引くのに必要な力)が同じリカーブクロスボウと比べ、同じ質量の矢を発射した場合により大きな初速を得ることができる。しかし、コンパウンドクロスボウはリムに滑車を搭載している構造上、リム自体が重くなり前方に重心が偏るフロントヘビーになりがちである。また、弦を交換する際にボウプレスと呼ばれる専用の道具を用いる必要があるため、メンテナンスの容易さではリカーブクロスボウが勝ると言える。


 一般的に無音と信じられているが、現実はメーカーや製品により個体差があるが弦が空気を切り裂くため、サイレンサー付きの銃よりは発生する音が小さいとはいえそこそこ大きい音が出る。

 印鑰は令子にぞっこんだった。令子とセックスがしたかった。彼女に振り向いてもらう為に根城を殺した。

 

 11月3日

 今日は文化の日だ。辺見蛍はネイルサロンの仕事をクビになった。

 学生時代から執筆活動をしていた。入賞したことはないが、イメージを膨らませて文章をパズルみたいに組み立てるのはゲームのようだった。

 麗春れいしゅん出版の『ホラー小説大賞』に応募することにした。

 釧路で最近、連続殺人事件が起きた。

 85歳まで生きられる秘薬『妙椿みょうちん』を見つけるという目的もあった。

 最近ハマってるドラマは、『最愛』だ。金曜にTBSでやってる吉高由里子よしたかゆりこ主演のサスペンスだ。


 蛍は、釧路駅近くの『セレーヌ』ってラブホ前にやって来た。夕闇に霧が漂っていた。

 手の目が現れた。確か、岩手の妖怪だったはずだ。ある男が肝試しに行ったところ、80歳くらいの老人の化け物に襲われ、その化け物には手の平に目玉があった。男は近くの寺に逃げ込み、その寺の僧に頼んで長持ちの中にかくまってもらったところ、化け物は追いかけてきて、長持ちのそばで犬が骨をしゃぶるような音を立て、やがて消え去った。僧が長持ちを開けると、男は体から骨を抜き取られて皮ばかりになっていたらしい。

 

 また違う話では、ある旅人が夜に野原を歩いていたところ、盲人が近づいて来た。その盲人の両手の平に目玉があり、その目で何かを捜している様子だった。旅人は驚いて逃げ出し、宿へ駆け込んだ。宿の主人に事情を話したところ、主人が答えるには、あの場所では数日前に盲人が悪党に殺されて金を奪われ、その盲人が悪党たちの顔を一目見たい、目が見えないのならせめて手に目があれば、という強い怨みが手の目という妖怪になったのであり、越後(新潟県)でも同様に盲人が殺された際に手の目が現れたという。

 

 手の目は蛍を見るやいなや、逃げ去った。

「怖いのはアンタの方だよ」

 写メっときゃよかった!

 

 蛍は釧路川の畔にやって来た。

 北海道川上郡弟子屈町の屈斜路湖に源を発し、弟子屈町や標茶町の市街地を南へ流れ、日本最大の湿原である釧路湿原の中に入る。釧路郡釧路町の岩保木地点からは、人工河川である「新釧路川」となり、釧路市釧路港の東港区と西港区の間から太平洋に注ぐ。

 高低差が少ないため一級河川には珍しく釧路川本流にはダムが設置されていない。

 夏季には全国からカヌーの愛好者が川下りのために訪れる。カヌーポイントはいくつかあるが、細岡付近の湿原地帯、塘路付近、屈斜路湖側の源流部分などがある。

 何かが浮いていた。そいつは紛れもなく水死体だった。

 しばらくして、釧路署の敬礼刑事がやって来た。

 司法解剖の結果、自殺であることが判明した。さらに、被害者が猫屋敷勝基って詐欺師であることも明らかになった。

  

 翌日の昼過ぎ、蛍は東釧路貝塚にやって来た。バラバラ死体が見つかった場所だ。

 山男が現れた!蛍は身構えた。

 青森県の赤倉岳では大人おおひとと呼ばれた。相撲の力士よりも背の高いもので、山から里に降りることもあり、これを目にすると病気になるという伝承がある一方、魚や酒を報酬として与えることで農業や山仕事などを手伝ってくれたという。弘前市の伝承によれば、かつて大人が弥十郎という男と仲良しになって彼の仕事を手伝い、さらに田畑に灌漑をするなどして村人に喜ばれたが、弥十郎の妻に姿を見られたために村に現れなくなり、大人を追って山に入った弥十郎も大人となったという。当時の村人たちはこの大人を鬼と考えており、岩木町鬼沢(現・弘前市)の地名はこれに由来する。現地にある鬼神社は、村人が彼らの仕事ぶりを喜んで建てたものといわれ、彼らが使ったという大きな鍬が神体として祀られている。三戸郡留崎村荒沢の不動という社には、山男がかつて使用したといわれる木臼と杵があり、これで木の実を搗いて山男の食料としたという。


 山男は蛍と目が合った瞬間、森の奥へと逃げた。

「何なのよ!」


 太は廃校の中で腹筋していた。人体模型が太の方を見ていた。

 化学室の床は冷たかった。

 昼は、近くの商店でカップ焼きそばを買って食べた。それとライターを買った。

 自分の顔を焼いて判別不能にして美容クリニックに行こうと決めた。

 アルコールランプに火を灯し、顔を炙った。焦げる肉の匂いがした。ジリジリと皮膚が爛れていく。だが、太は死ぬことはなかった。鏡で自分の顔を見た。ケロイド状態になり、まるでゾンビだ。

 疲れてそのまま寝てしまった。

 スマホが鳴った。

「はい、檜垣です」

《警察です。辺見蛍さんが亡くなりました》

 

 

 

 

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