第4話 シュンクシタカラ湖

 海馬沢かいばざわ合羽井かっぱい仏具ぶつぐ墓田はかたなど北海道にはユニークな名前の友達がたくさんいた。

 遊佐から受けた数々の仕打ちを檜垣は思い出していた。大学時代にガソスタのバイトをしていたが、釣り銭泥棒に間違われたり、酒を強引に飲まされたりした。遊佐をラブホテル跡に監禁して水を大量に飲ませて水中毒にして殺した。

 💀

 墓田は15を使うといいとワケのわからないことを言っていたが、あれはVXガスの致死量を意味していた。


 檜垣は自宅で復讐ノートをつけていた。コンビニで買ったContinueの黒い小さなノートにボールペンでサラサラと書いていく。

 ✍塩素漂白剤+トイレの洗剤=毒ガス

 ✍ホスゲン、ナチスが青酸ガスとともにアウシュビッツ強制収容所で使用。分子量99、 潜伏期間長い。

 ✍クロルピクリン、土壌殺菌剤、沸点112℃。



 蒲生銀次は、シュンクシタカラ湖にやって来た。

 1970年代に、人工衛星によってその存在が確認された湖で、2007年現在、日本国内最後に発見された湖とされる。しかし、地元の人々はそれ以前より湖が存在することを知っており、1920年の「国土地理院5万分の1地図」にも「シュンクシタカラ沼」と表記がある。

 近くにはシュンクシタカラ川(舌辛川の支流)があるものの、湖とはつながっていない。水は周囲の山々から流れ込むが、流れ出す川がなく、全容についてはいまだほとんど解明されていない。

 湖水の透明度は高く、湖底に沈んでいる巨木が水面から垣間見られる。

 銀次はスーパーウルトラ塾の塾長だ。

 東大に入った生徒もいる。

 蒲生は湖畔近くの森で首吊り死体を見つけた。

 遺体は郡司源だった。💀かつては阿寒大学で教鞭をとっていた。あの大学はアカンとかジョークを叩くダチとかいた。

 

 1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。


 1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。


 じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。


 マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。


 途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。


 アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。


 クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。明治政府(開拓使)は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えた。


 札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。


 クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。


 9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。


 彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はどこにあったかな?

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