第3話 意識

 港東署 午前9時45分

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「香月、この間の報告書は出したか」


「今やってます。経費の請求も間もなく出します」


「2時までに課長のハンコを貰えなかったら今月の振り込みはないぞ」


「それは困ります。今月は持ち出しが多いのに・・・!」


「なら早くしろ」


「・・・はい」


 書類を書き領収書を貼り付けてゆく。


「どうして手書きなんだよ。精算処理ソフトくらいいれてくれよ」


 はかどらない作業にイライラが頂点に差し掛かってきた香月の机を、制服の婦警が覗きこんできた。


「・・・香月さん・・・!」


「あんだ、よ?・・・あぁ前沢くんか」


「徹夜で張り込み、お疲れさまです。(ヒソ・・)昨夜はずっと電話待っていたんですよ私」


「・・・・・・」


「(ねっ、今日は午前あがりですよね)」


「・・・そうだったかな」


「(私、定時で上がるんで、晩ごはん食べに来てください)」


「・・・・・・」


「(え?なに?)」


「・・・今さ、仕事中」


「(あ、、ごめんなさい。でも、あの・・)」


「・・行けそうだったら」


「(は、はいっ、待ってます・・・!)」


 あーぁ課長は午前中会議か・・・経費申請できるかなぁ。

 それに俺、昨日から風呂にも入ってないんだけどな。


 こきこきと首を回しながら1人ごちる。


「よっ香月、何だよ前沢ちゃんと仲いいじゃん」


 同期の和中わなかが声をかけてくる。


「あ?ンなことねぇよ」


「新卒で一番可愛いからなぁ、お前手ぇ早すぎ」


「馬鹿言ってろ、それより手配書のこいつのせいで散々だ」


 手配書を指先でピンっと弾く。

 銀座から新橋にかけて昨年末から窃盗を繰り返しているこいつ。

 怪我人も出ているし早く逮捕しないと。


「それにしても課長遅いなぁ」


「課長なら急用って、さっき帰られましたよ」  


 事務のパートさんが教えてくれる。


「マジか!?あ〜俺の請求書・・・」



 港東署 午前11時50分

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 結局、課長のハンコは諦めて俺は帰ることにした。

 昨夜は徹夜だったし風呂に入りたい。

 彼女の家に行って飯を食うのも、まぁ悪くないか。


 署内は昼食組が席を立ち動き出した、その時。


「おい香月、3番に外線」


「はーい、出ます」


 3番、3番ね。点滅している3番のボタンを押す。


「はーい、かわりました香月です」


 刑事課の古い受話器から聞こえてきたそれは、オフモードになりかけていた俺の脳を覚醒させるのに十分な、その名。


「── こんにちは 沙羅よ」


 そして甘い声。

 俺は柄にもなく心臓がドキリと音をたてた。


「あ、、、昨夜は・・・どうも」


 先輩から言われていたっけ。

 丁寧に、丁〜寧・・・に・・・


「いてくれて良かったわ。今、?」


 ズシン ────?!!



《 へいき、いいこ、いいこ 》



 よく分からない衝撃を受けて香月は口ごもりながら答えた。


「あ、あの、・・・平気、です」


「そう?例の昨夜の写真の人。残念だけど店の者は誰も知らなかったの」


「そ、── そうですか」


「お力になれなくてごめんなさいね。

 それだけよ、じゃ失礼します」


「あっ・・・あの、わざわざありがとうございます」


「・・・ふふ、いいえ。でも何だか今日は優しいのね」


「昨日はあの、その、、俺、すみませんでした。



《 ママ 》



 沙羅の頭の中で古い鍵がカチリと外れる音がした。


 どこかで聞いた、そのフレーズ。

 ママ、なんて一日に100回以上聞いているのに・・・これは一体なに・・・?


 咄嗟に沙羅はスマホのマイクに向かって声を上げていた。


「ね、香月さん。今夜は店へいらっしゃらないの?」


「・・・は?えっ?」


「ほら、犯人の方を探してるのでしょう」


「まぁそうですが。俺、夜勤明けで午後から非番やすみで・・・」


「まぁお疲れさま。私、お店に出る前に食事するのだけど、一緒にいかがかしらと思って」


「ママ・・・との食事ならどんな偉い人でも喜んで付き合ってくれるんじゃないの」


「食事はたいてい一人よ。気兼ねしながらは苦手なの」


「俺は気兼ねすらしない分類ですか」


「まぁ。そうじゃないわ、素直じゃないのね。でも予定があるならそちらを優先してね」


 ふと、前沢はるかの顔が浮かんだ。

 が、俺の口は迷いなく答えを告げていた。


「俺、行きます。そっ、、捜査のタシになるかもしれないし・・・」


「捜査の・・・そうね、香月さん真面目なのね」


 連絡先を交換し、電話を切って俺は暫く呆然としていた。

 写真の確認だけのつもりが今日も会うことになった。


 おい待てよ。

 相手は銀座の超一流クラブのママだ。

 こういうのって「同伴」になるのか?

 警察官の規則や罰則にあったか?


 服務規程を思い出しながら、待ち合わせ場所を書いたメモを見返す。


『 新橋駅午後4時 090-3xxx-3xxx』


 電話の途中で感じたあのぞくっとした感覚の答えがあるだろうか。


 香月は上着を掴むと港東署を飛び出した。



 高輪台 午後0時10分

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 高層階のマンションの一室で沙羅はぼんやりとスマホを見つめていた。

 液晶画面には“ 港東署 香月”と登録したばかりの番号が映し出されている。


「誘った・・・?この私が?信じられない」


 この世界に入って約10年。沙羅は奇跡のように夜の街にありがちな深すぎる付き合いや醜い争いごとなしでここまできた。


 待ち合わせとはいえ、とっさにプライベートの携帯番号を教えたことにも他人事のように驚いている。


 でも、あの時 。

“ ママ ” と呼ばれた時、記憶の何かが沙羅に、あの人に会いたいと囁いてきたのだ。


 それを知りたい。

 あの人は何かを持っているのだろうか。それとも単なる思い違いなのか。

 沙羅は軽く頭を振ってソファから立ち上がった。


「さて、今日は少し地味なスーツにしようかな」


 ドレスの並ぶクローゼットへ軽い足取りで向かった。



 港東署 午後0時15分

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 電話を切って気が抜けたようにボーッと立ち上がれないままでいた。

 あの人にまた会える、予感が当たった。


 俺は雑用を押し付けられる前にと急いで署を出た。


 徹夜疲れは大抵翌日の午後に全身にのしかかってくる。

 なのにさっきまでダルかった手足も頭も、まるではしゃいでいるかのように軽いのは何故だろう。


 浅草に近い一人暮らしのアパートに帰り、服を脱ぎながらバスタブに湯を溜める。

 その間に着ていたものを洗濯機に放りこみスイッチを入れてから、部屋干ししていた洗濯物をピンチから外した。


 ゆっくり肩まで湯につかると、足先、指先から疲れが抜けていくのがわかる。

 はぁ〜と顔を湯で流し長い前髪をかきあげる。


「まさかこんなに早く会うことになるとはなぁ」


 昨夜はムキになってあの人に噛みついてしまった。


 あの人には何の落ち度もないのに・・・思い出すと俺のガキっぽさに頭を抱えたくなるが、そんな時でもあの人はずっと優しい表情だった。

 偶然に触れた指先はあたたかかくて柔らかくて・・・。


 とたんに恥ずかしくなりバスタブから出て全身をゴシゴシ洗うと、ようやく落ち着いた。


 湯船で温まっていたら、下半身がふわりと屹立しかけているのに思わず苦笑いして、


「おい、どうしたんだよ。あの人は俺なんかを相手にする人じゃねえよ」


 手のひらでそっと宥めるように触れた。



「あれ、これ・・・は・・・?」


 洗面所で髪を拭いていた香月は棚の隅に見慣れないものを見つけた。

 一人暮らしの俺の部屋には似つかわしくないそれ。

 片方だけの真珠のピアス。

 今、思いあたるのは一人だ。

 俺はピアスを摘みあげて、1ヶ月前を思い出していた。



 俺が港東署に赴任し、ようやく落ち着いた2月半ばに新人警察官が着任してきた。

 新人の中でも独身の男性警察官の多くが注目していたのが、小柄で可愛い系の前沢はるか婦警。


 俺の同期の和中わなかもその一人で、用事もないのに生活安全課を覗きに行っては可愛いだのこっちを見たのと騒いでいた。


 まるで興味のなかった俺だが、ある日そうも言っていられなくなった。


 新人にキャリアの近い先輩が署内の業務OJTをする担当に選ばれたのだ。

 前沢を含む4人のグループが俺の班。

 和中や他の男性警察官のやっかみをかいながらだった。


 活動は毎日午前中に署内、道場、そして管轄内のパトロール訓練等を行う。

 数日間行動を共にして報告書を提出させるまでが俺の役割だった。


 最終日 彼らの報告書を確認していた時、前沢のレポートに貼付されていたメモに気づいて俺は眉を寄せた。


[ 香月さんの訓練が終わって欲しくないです。

 ずっと任務も一緒にいたいです。

 着任してすぐ、香月さんの笑顔を見た瞬間から憧れていました。

 だから香月さんがグループ長になった時は嬉しくて泣いちゃいました。

 今は憧れでは抑えきれないほどに香月さんが好きです。]



 まぁこういう事には慣れてる方だ。


 前沢は今回の新人の中でも成績は良くて一番可愛くスタイルも悪くない。

 甘え上手で嫌いなタイプじゃない。


 メモを上着のポケットにねじ込み、採点した報告書を署長に提出して俺は署を出た。



 と、最寄り駅の近くで


「香月さん!」


「・・・っと、あれ、、君は」


 署内で束ねている髪を下ろし、きれいにメイクした前沢が目の前に飛び出してきた。


「前沢くんじゃないか」


「お疲れ様でーす。今お帰りですか?」


「そうだけど ─── これは偶然じゃないよね?」


「えへ、すみません〜。偶然じゃないです」


 やれやれ素直すぎて怒る気にもなれない。


「ね、香月さん、ごはん行きません?近くに美味しいお店知ってるんです」


「その前に、俺に言うことあるんじゃない?」


「ぁ・・・あ〜ん。報告書、カナ?」


 上目遣いで俺を見上げる。


「確認したよ。 以外は署長に提出済だ」


 ん〜もぅ、と言いながら唇を尖らせる前沢に苦笑いして、


「メシ、行こうか?」


 と誘いにのった。


 前沢は一人っ子で短大を出てから警察学校に入校したらしい。

 店は女の子好みのイタリアンで、飯を食い軽く飲んで店から出ると、俺の腕に嬉しそうに絡みついている。


「夢みたい。香月さんと二人きりなんて」


「よく言うよ、大袈裟だな」


「だって〜。新人も先輩婦警も香月を狙っている人が沢山いるんです。私なんて全然自信がなくて」


 チラッと上目遣いで俺を見る。

 報告書にメモで告白、駅で待ち伏せなんて可愛いキャラして積極的なくせにと思わず笑う。


 俺は絡みついている前沢の腕を外して肩に腕を回す。

 脇の下にすっぽり入るほどに小さくて華奢だ。

 俺の行動に少しだけ驚いた前沢だがすぐに小動物のように擦り寄って上着の背をぎゅっと掴んだ。



 その夜、何の戸惑いも躊躇ためらいもなく俺のアパートに来るとそのまま一夜を過ごした。


 それから俺たちはなんとなく付き合い始めた。

 休みの日は映画やショッピングに付き合い、気ままにどちらかの部屋に泊まる。

 平凡・・・そう、平凡で平和だが胸が熱く高鳴る程の恋か?と聞かれたら正直、答えようがなかった。

 俺の恋愛はそんなのばかりだったから。


 真珠のピアスに忘れ物以上の意図があるのか推測の域を出ないが ───。

 それより今夜は彼女の部屋には行けないことを連絡しないと。

 俺はスマホの着信履歴から彼女を呼び出した。はるかは待ちかねていたようにワンコールで出た。


『あ、香月さん。お疲れさまで〜す』


「あぁ。悪いんだけど今日は行けそうにないんだ。ごめんな」


『えーっそんな。どうして?お仕事?』


「そう、だな。捜査絡みで人に会うから時間が読めないし、悪いね」


『そんなぁ。どの事件ですか?』


「・・・守秘義務の遵守は警察官の基本だよ」


『ご、ごめんなさい・・・』


「いつか埋め合わせするから。じゃ、急ぐからごめん」


『あっあのっ、私今夜もずっと待って ___ 』


 俺ははるかの言葉を最後まで聞かずにスマホの終話ボタンをタップした。

 もう3時10分だ。あの人を待たせるわけにはいかない。


 手のひらに残った片方だけのピアス。


「お前も帰った方がいいみたいだな」


 早いうちに返しておこうと、と玄関の棚にピアスを置いて俺は着替えを急いだ。



 新橋駅 午後3時45分

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 自宅アパートから銀座線、山手線を乗り継いで新橋まで20分。

 駅の階段を降りながら変に緊張していた。


 中学で初めて彼女ができて間もなく26歳。

 ガールフレンドが途切れたことはない。


 警察官になって都内の署に配属され、すぐに同僚の先輩の刑事とそういう関係になり、それからも何人かと付き合ったが今回の異動で全て切れた。


 今は前沢はるかと親密?な関係だが、俺の中ではしっくりきていない。

 まだ俺はずっと探し続けている、んだよな。



 JR新橋駅の改札を抜けるとSL広場だ。

 ニュース番組でサラリーマンが取材されているここ。

 駅前に植えられている桜も三分咲き。

 今週末は絶好の花見だな。


 で、あの人はどこだ・・・なんて探す必要もないくらい直ぐに見つかった。

 行き交う人の視線の全てがそこに集まっているようだった。


 雨宮沙羅が広場の隅に佇んでいた。

 静かに俯いているだけなのに、あの人のまわりだけに灯りがともっているようだ。

 掃き溜めに鶴、とはこういうことなんだな。


 地味なくらいシンプルな淡いグレーのパンツスーツは、昨夜の着飾ったドレスよりあの人の美しさを際立たせていて、俺は一瞬足が止まった。



 沙羅は左手首を内側に向けドレスウォッチに目を落とす。

 15分も早く来てしまったわ。

 あの子はどっちから来るのかしらと周囲を見回していたら。

 こちらに近寄るのを躊躇うように立ち竦んでいる香月が見えた。


 あの子・・・ってまるで迷子の小さい子のようなことを。

 第一、もういい大人の男じゃないの。

 私ったらおかしいわね。



「ここは貴方のご馳走になっていいかしら」


「・・・おやすい御用だけど、あなたもこんな所で食べるんですね」


「食べるわよ勿論。私、大好きなの」


「意外ですよ」


「そう?あのね、お願いがあるんだけど」


「なんです、、?まさか店ごと買えなんて言わないですよね」


「チーズをダブルでトッピングしたいの」


「へっ??チーズぅ!?」


「だめ・・・?」


「あなたって人は全くもう・・・。

 ええ、トリプルでもいいですよ」


「まぁ嬉しい!すみませんチーズをトリプルでお願いします♡」


 俺とこの人はカレーのチェーン店で飯を食ってる。


 店に入った途端この人を見るなり店員も客も魂を抜かれたように惚け、魅入られたように動きを止めて静かになった。

 そりゃそうだ。


 恐ろしいほどの美人と少しチャラい男が揃ってカレーの大盛り。

 しかもチーズをトリプルってどんだけチーズ好き?


 それに太陽の下でこの人に会ってみて改めて驚いた。


 だってデカい、背が高い。

 俺も180cm以上あるのに俺と肩を並べるくらいにデカい。

 まぁすげぇハイヒールを履いてるけどさ。

 それにこの細い腰・・・抱きしめたら折れてしまいそうな、華奢な・・・。

 えっっっダキシメタラ?!


「っっ、だーーー!」


「香月さん、どうしたの?」


「なっなんでもない!店員さん、すみません!おかわり!」


 俺は何を考えてるんだ・・・。。



「・・・という事で電話で伝えた通り、写真の人を誰も知らなかったの。お役に立てなくてごめんなさい」


 ととと・・・本題はこれだよ。


「そうですか。よくわかりました、ご協力に感謝します」


「あら、今日はとても普通の刑事さんね」


「・・・そりゃぁ、、昨夜はどうもすみませんでしたね」


「フフフフ・・・」


 ふくれっ面した俺をみて何ぁんだ、こんなに無邪気に笑うんだこの人。

 それとも俺の顔に何か付いてるか?


 俺の気持ちを分かったかのように悪戯っぽい目をして、


「当ててみましょうか?」


「は?」


「今考えていたこと。

 かな?」


「っっ・・・!」


「ふふ、当たったわね」


 本気でころころ笑ってやがる。

 胸がドキドキドキドキ早鐘を打っていやがる。

 でも何だかこんな笑顔をいつか見たような気がする。

 昔、昔に・・・・・・。



 カレー店を出ると街は仕事を終えたサラリーマンでごった返している。

 例の窃盗手配男のこともあるから、と俺は店まで送ると伝えた。


 その瞬間あの人はまるで花が咲いたように微笑むもんだから、俺は慌てて周囲の男共の視線から隠すように彼女をタクシーへ押し込んだ。


 ここからなら銀座まで10分程度だが。

 いっそ渋滞に巻き込まれて1時間かかっちまえばいいのに・・・。



「・・・・・・じゃないの?」


「─── えっ?」


「今日は休日をお邪魔したんじゃないのかしらって」


「いや、、大丈夫です」


「本当に?無理してお誘いしてたなら悪いわ」


「俺、今日はなんてないんで」


《 よ う じ ・・っ・・・・? 》


「・・・・・ぁ・・」


「?・・・どうしました?」


「・・・ぃぇ。それならいいの」



 彼女は急に黙り込んでしまった。

 そのまま店に着くまで一言も喋らずに。


 俺に礼を言ってタクシーを降りるとあっという間にENDLESS RAINの扉の向こうへ消えた。


 まるで蝶が飛び去るように。



 ENDLESS RAIN 午後5時45分

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


「ママおはようございます。今日も早いですね」


 サブマネの横川が店に飛び込んできた沙羅に声をかける。


「ぉ、おはよう・・・」


 あっという間に更衣室へ駆け込む沙羅。


「あれ横川君、ママ来てなかった?」


 マネージャーの黒木が事務所から顔を出した。


「それが挨拶もそこそこ奥に引っ込んでしまって」


「へぇ、ママに限って珍しいこともあるもんだな」


 マネージャー達が首を捻ってる頃、沙羅は更衣室のソファに倒れるようにへたりこんでいた。


なんてないから 》


 ようじ・・・ようじ。

 昔どこかで、誰かが話してるのを聞いていたのに私ったら思い出せないわ。


 沙羅が記憶をたどっている間にもキャストが次々と出勤してくる。


 女の子達に笑顔で挨拶を返す時も、

 品の良い菫色の着物を着付ている時も、キャスト達の悩みに頷いている時も、

 マネージャーに予約確認している時も、


 沙羅の心はモヤモヤと見つからない答えを探していた。



「今夜の沙羅ママはいつも以上に色っぽいね」


 馴染みの客の席で声をかけられた。


「あら、普段そんなにお転婆かしら?」


 ハッとしたのを気取けどられないよう、沙羅は水割りのグラスに氷を入れて微笑む。


「どこか物憂げで気怠い吐息ためいきが聞こえてきそうだよ」


「まぁ。それ褒め言葉なの?」


「当たり前だよ!まるでさ・・・」


「まるで?」


「ママ、恋しちゃってるみたい」


 沙羅の切れ長の瞳がひときわ大きく見開かれた。

 滅多に見せない素の表情に客がフラフラと吸い寄せられるのを察したマネージャーが穏便に声をかけ。

 接客を沙羅からキャストにチェンジした。



 沙羅は早足になりそうになるのをこらえてカウンターへ戻りながら胸がトクトクと鳴るのを大きなため息をついてなだめていた。





 次話は「暗転」です。




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