第2話 出逢い
銀座六丁目 午後5時45分
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車窓の外は暮れなずむ茜色の空。
タクシーは外堀通りを北上して花椿通りの交差点にさしかかった。
「ここで停めて」
声の主は細いハイヒールの脚を揃えて降り立つ。
とろりと紅色に変化する空にはまだ仄かに水色が混じる。
「この瞬間が好きなのよね」
見上げた高層ビルの屋上でチカチカ光る灯火が数分前より目立って見える。
「もう?暮れるのあっという間・・・」
白いコートの襟を掻き合わせて歩き出す。
仕事を終えた会社員やOLが駅へ急ぎ歩道を行きかう。
人の波に逆らうでもなく泳ぐように歩くその人はすれ違う人すべてが振り返るほどに美しい。
美しい人は大通りから一筋入った道沿いに建つ瀟洒なビルの磨きあげられた薄紫色のヴィンテージガラス製のドアの中へ滑り込んだ。
【 club ENDLESS RAIN 】
「ママ、おはようございます」
「早いですねママ。おはようございます」
黒服の男性スタッフがグラスを磨く手を止めて挨拶をする。
「おはよう。早くからご苦労様。続けてね」
「
「いいのよ。それとも私がいたら邪魔かしら」
「まさか!ママがいるだけで店内が華やぎます」
「黒木と横川がいてくれるので私は安心して笑っていられるのよ。今日もよろしくね」
20時。
10卓ほどのテーブルは客とキャスト達で埋まり、華やかな嬌声に包まれた空間に一変していた。
その中を沙羅は丁寧に席をまわり客ひとりひとりに挨拶と言葉を交わし、深く微笑む。
黒髪を夜会巻きに結い上げ、スレンダーな黒いシルクのドレスは透き通った象牙色の肌に映えてその肢体を一段とほっそり魅せる。
モデルと見まごう長身、誰もが見惚れる銀座の一流クラブ ENDLESS RAIN のオーナー、
「ちえっ、今度はあのテーブルにママを横取りされたよ」
「もう〜ここには私たちもいるんですよぉ」
「ごめんごめん。でも今夜の沙羅ママは格別に綺麗だねぇ」
「そうなの、ママは私たちの憧れなの」
「ママは銀座で一番優しくて綺麗で、何でも知ってるの」
「へぇーどんなことでもねぇ。じゃホラこんな ── ことは?」
「あっ、そういうサービスは ENDLESS RAIN ではしませんー」
「固いこというねぇ、それもママの教え?」
「私のこと噂してくださってるの?」
「あ!ママぁ聞いてぇ」
「やっと来てくれた。ママが来ないから泣きそうになったよ」
「あら、中林様の涙を拭いて差し上げるチャンスを逃してしまったかしら。でも美希ちゃんを困らせないでくださいな」
「ならママは困らせてもいいのかな?」
「まぁ。それはどうかしら、フフ・・・」
「ダーメ。それにママに勝てる人なんていないんですよっー」
ピアノ演奏が静かに流れる上質なインテリアの店内、大人同士の気の利いた会話とジョーク。
芳醇な酒と可憐なキャストが特別な時間を織りだすclub ENDLESS RAIN。
ふと、小さな空気の変化を察した沙羅は切れ長の目をカウンターに向けた。
案の定マネージャーの黒木が伏し目がちに近寄ってくる。
沙羅はそっと唇を引き締めて言葉を待った。何があったのだろうか。
「・・・ママ・・・」
「ええ、はい」
「(警察)・・の方が・・・」
「いくわ」
ドレスの裾をさばいてすらりと立ち上がると、
「中林様、少し失礼いたします。私が戻るまでごゆっくりなさっててくださいな」
慌てたふうもなく妖艶に微笑むと黒服を従えて沙羅はフロアからスタッフルームへ向かった。
「知ってる刑事さん?」
「はい、何度か。港東署の方かと」
やがて沙羅の瞳には事務所前に陣取る無粋な三人の男が入りこんだ。
隙のない微笑みを浮かべながら沙羅は男達に声をかける。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょう。
私がここの責任者の沙羅です」
二人は知っている。港東署の警部補と刑事。
もう一人の若い刑事は知らない、初めての顔。
「雨宮ママ、すまんね。いきなり押しかけて」
「ここでその名は出さないお約束ですわ」
「っとすまない。沙羅ママ、協力をお願いしたくて」
「わかりました。ここでは何ですので奥の部屋へどうぞ」
六畳ほどの事務所はデスクにパソコン、プリンターと店内監視のカメラ映像が映し出されるモニターが数台設置されている。
他には小さなテーブルとソファが置かれていてフロアの華やかさはこの部屋にはない。
刑事たちにソファをすすめ、自らは事務椅子に座った沙羅は綺麗な手さばきで細い煙草を唇に挟むと火をつけて軽く吸いこんだ。
その沙羅を若い刑事がじっと見つめている。
人から憧憬の目で見つめられることには普段から慣れている。
が、唇の端で密かに笑いながら沙羅の胸の中では小さく引っかかるものがあった。
《この子、どこかで・・・会ったことがあっただろうか》
「・・・でママ。この写真の男が店に来たことはありますかね」
年長の刑事が若い刑事に写真を見せるように顎をしゃくる。
黒服が刑事と沙羅の間にさっと入った。
「横から失礼します、マネージャーの黒木です。私とサブマネの横川は見たことありません。
・・・ママはいかがですか?」
マネージャーが振り返るが沙羅は何かを考えこんでいて答えない。
「沙羅ママ?」
「・・・えっ?あ、あぁ写真の」
咄嗟に若い刑事の手にある手配写真を自分の方へ向けた。
「─── 残念ですが私も見たことありませんわ」
「そうですか。では今後もしこの男を見かける・・・・・」
「あのね
「・・・え・・・」
「ママになんて口のきき方を!」
「おい、香月よせっ」
「写真の男が辺りに潜伏しているって情報があるから聞きにきたんですよ。ほら雨宮さん、もう一度確認してください」
「・・沙羅、よ」
「そんなのはどっちでもいい!我々も暇じゃないんだ」
「香月!この人は人の顔を見忘れるなんてことはない」
沙羅だか雨宮だか知らないが先輩達はこの女にやたら丁寧だ。
こいつ鋭い目で俺を睨みつけていたかと思ったらいきなりぼんやりしやがって。
口を開けばあっさり見たことない、だと?本当かよ。
こっちはもう3日も写真一枚を頼みに靴底すり減らして聞き込みやってるんだ。
チャラチャラ酒飲んでチヤホヤされて銀座のママてのは気楽な商売だよ。
「私は人様の顔を見忘れることはありません。特に一度ご来店されたお客様はお顔もお名前も全部記憶しています」
「全部?そりゃぁ大した自信ですね。いったい何人を “ 相手 ” にしたんだか」
「・・ま・・ぁ・・・」
「香月いい加減にしろ!」
「おい!沙羅ママに何て失礼なことを!」
「黒木およしなさい。北畠警部補さん、吉野刑事さん、よろしいのですよ」
「香月、この人は5千人の顧客名簿を記憶している銀座随一の頭脳明晰なママなんだ」
「はぁ?・・・・・って5千人!マジ!?」
「マジ、ですわ。かづきさんと仰るのね。覚えましたわよ」
「くっ・・・でも!」
「もういい香月!ママ、
「わかりました。横川、写真のコピーを取らせていただいて」
「はい、沙羅ママ」
「うちのフロアキャストには私から確認して改めてご連絡しますわ。
えっとそちらの若い方、かづきさん?」
「・・・何だ」
「 “ かづき ” はどのような字を書きますの?」
「・・・香るの香に月だ」
「まぁ・・・綺麗なお名前ね」
「何だっていいだろ・・・あんたには関係ない」
「では香月さん、あなたにご連絡しますわ。
北畠警部補さん、よろしいかしら?」
「もちろんです、ママ」
北畠と吉野が頭を下げる。
マネージャーが素早く立ち上がってドアを開け、刑事達は新顔の首根っこを掴むようにして扉の向こうへ消えた。
沙羅は浅いため息をついて三人を見送った。
ENDLESS RAIN 午前2時
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今夜も盛況だった。
途中でハプニングもあったけれど。
キャストの女の子たちの送迎が完了したことを確認して沙羅はフロアのバーカウンターで煙草に火をつけた。
「ママ、車を呼びましょうか?」
「ん、そうね。でももう少し飲んでいたいから。私が店を閉めるわ」
「では施錠をお願いします。ママもあまり遅くならないでください」
「ありがとう。おやすみなさい」
「お先に失礼します、おやすみなさい」
ドアの向こうにマネージャー達が消えたのを見送り、手元の煙草を唇に挟み直して火を点けてすぅ、と息を吸いこんだ。
視線を上に向けるとスワロフスキーのペンダントライトが撒き散らす光の飛沫が瞳に降り注いでくる。
沙羅は目を細めてそれを見やってから細く煙を吐きだした。
沙羅の記憶に手配写真の男の顔は、ない。
キャストの子たちも同じだった。
さて、あの香月とかいう刑事にどう連絡をしようか。
沙羅はグラスに唇をつけて、それから自分が微笑んでいることに気づいた。
「おかしな子。ずっと年下と思うのに」
幼い頃から人の顔を覚えるのが得意だった。
友達はもちろん、友達の兄弟、親まで一度見れば忘れることはなかった。
「あの子に会ったことはないわ、
ないはず」
会ったことがないのに記憶がある、
そんなことあるのかしら。
芸能人や有名人でもない、一般人でしかも関わることなんてない警察官だ。
しかも生意気。
「でも、会ったことがあるってここが言ってる。
いつか、どこかで。あの子に」
沙羅は胸に手をあてて呟いた。
が、すぐに切れ長の瞳を眇んでテーブルの上の手配写真を引き寄せた。
この写真を見た時に偶然に触れた香月の指先の温かさがまだ自分の指にも残っているような気がして。
「おかしな・・・ことね。不思議」
銀座四丁目 午前2時
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一本路地に入った暗がりに停まる一台の覆面パトカーの車内で二人の刑事がボヤいていた。
空からは夜半からの雨が間断なく降りフロントガラスに緩い水紋を描いている。
「くそっ、もう3月なのになんでこんなに寒いんだよ。
吉野先輩、暖房入れていいっすか?」
「経費節減でダメだ。いい加減張り込みくらい黙ってやれ、香月」
「はぁ、、わかりました」
「それにしてもお前、あの沙羅ママに突っかかるなんぞ俺は冷や汗が出たぞ。
署長には黙っておいてやるから感謝するんだな」
「署長?どうしてですか」
「区内の殆どの署はあの人に何度も捜査協力で世話になっているんだよ」
「世話?ただの飲み屋の女に?」
「飲み屋ってお前、銀座の一流クラブを居酒屋みたいに」
「似たようなもんですよ。で、あの女が何を?」
「はぁ・・・モンタージュだよ。とにかく記憶力が良くて今まで何人もモンタージュ作成に関わっている。お陰で十何件も検挙している」
「・・・嘘・・・」
「嘘じゃない。いいか、ママから連絡がきたら丁寧に丁寧に丁〜寧に対応しろ。これは仕事だ、分かったな」
「・・・わかりました」
銀座のママがモンタージュの協力?何度も検挙だと?
まだ港東署に赴任して2ヶ月も経たない俺が知るわけない。
銀座のママなんてキツい化粧の匂いさせて権高くて人を見下す女だ。
客から高い金を毟り取って人生までボロボロにさせて、自分は贅沢三昧の商売じゃないか。
ただ・・・
あの女の目は卑しく濁ってはいなかった。
深い湖みたいに澄んでいることに、白い手が温かいことに俺は気づいていた。
「・・・あーーっ!!!!!」
「急になんだ!張り込みの車で騒ぐな香月!」
「あの女、俺に連絡するって言ってた!?」
「あのな香月よ。あの女なんて二度と言うな。それにさっき俺がそう言っただろうが・・・頼むよ、しっかりしろ」
「すみません、、吉野先輩」
俺が慌てて頭を下げると勢いで額が車のハンドルにゴンとぶつかった。
あの女から連絡がくる。
いや、また会える・・・そんな気がしてならない。
俺はハンドルに額をつけたまま顔を窓の方向に向けた。
暗い空から降る雨の間からビルの航空点滅灯がチカチカ赤く瞬く。
「やまない雨・・・ENDLESS RAIN、か」
俺は丸3日睨みつけている手配書男より、
先月告白されて付き合い始めたらしい同僚の婦警より、
会って数時間の沙羅とかいう女の黒い瞳と白い手を思い出そうとしていた。
「俺、何やってるんだよ・・・」
次話は「意識」です。
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