第三話②
でも、なんだか先ほどまで先生に取り巻いていた『孤独』という名のモヤが薄くなった気がしました。
ナカノ先生は呆れたようにこちらを見ています。
「カンザキさんは、そこで何をやっていたのかな」
「えっと、かくれ鬼ごっこ…です」
ふうん、とナカノ先生がいって会話が終わってしまいました。けれども、ナカノ先生はまだ私の方を見ています。まるで不思議生物でも見るような目でした。(あとでわかったのですが、ナカノ先生は理科の先生でした)
しばらくの気まずい沈黙を、耐えきれずに破ったのは私でした。もっとも、ナカノ先生には気まずいとは感じていなかったのでしょうが。
「えっと、その…ごめんなさい」
「…どうしてカンザキさんが謝るんだい?」
「なんか悪いことをしたような気がして…」
ふうん、とナカノ先生は首をひねりました。
「悪いことって?」
「え?」
「カンザキさんは先生に対して、何か悪いと思うようなことをしたのかな」
私は考えました。そして、おそるおそる言いました。
「してない、と思う…じゃなかった、思います」
「よろしい。じゃあ、きみは謝るべきではないな、悪いことはしていないのだから。自分が悪いことはしていないと思っているのに、謝るのはよろしくない。謝罪の価値が下がる」
はあ、と私はあっけに取られました。どちらかといえば、先生の言っている意味が分からなかったということの方が大きいのですが。
しかし、これほど喋ったナカノ先生は授業のほかであまり見たことがありません。
その頃、私はまだ幼く、今よりもずっと世間知らずで、純粋でした。平たくいえば、馬鹿正直に言わなくても良いことを言ってしまったのです。
あっ、と思わず声をあげた私に先生はどうした、と反応しました。
「…あった。悪いこと」
「へえ。なに?」
「朝、ナカノ先生が教室に来て、『みんなのはっぴょう』の作文を見ていたとき…」
なんだあれのことか、と先生は気が抜けたようにふっと息を吐きました。もしかすると笑ったのかもしれません。
「おこってないぞ?おれは。いったいどんな風に見られているのやら」
そうだな、と先生は自分のあごを指でくいくいとなでました。
「ずいぶん昔にな、ちょうどカンザキさんと同じようなことをしたやつがいたんだ。
自由に感想文を書け、っていう内容であんまり重要でもないことについて熱心に書いたやつがいた。今とは教育方針はかなり違っていてな、―ああ、教育方針っていうのは、要するに先生がどんな風に子どもに教えるかっていうことだ― おれはそのとき教えていた生徒の前で、そいつの作文を悪い見本として他の生徒に見せた。ちょうど、カンザキさんと同じくらいの年だったかな。
で、そいつは泣き出しちまった。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝りながら。当時はそれが当たり前だと思ってやっていたが、まあ、今から思えばひどいことをしたもんだ。しばらく年月が立って、そいつは大人になり、小学校の先生になった。そして、数十年前に自分と同じような作文を書いた子どもに出会った。その子どもというのが、カンザキさん、きみだ」
「えっと、じゃあ、そのナカノ先生がすっごくおこった子どもっていうのが、さくら先生?」
「よくわかったな、その通りだ。まあ、おれはおこったつもりはないが…。
昔、自分がやったこととおんなじことをした子がいる、とさくら先生は、きみのあの作文を私のところまで見せに来てくれたんだ。なぜだかわからないが、嬉しそうにしていたな。さくら先生が覚えているくらい、私はひどいことをしたはずなのに。
どのように、コメントすれば良いでしょう、と相談されたから、私はこの手のことが苦手なんだ、力になれなくてすまない、と断った。そのあと彼女がどんな風にコメントをしたのかが気になって、たまたま朝、通りがかったきみの教室をのぞいたわけだ」
私の頭はこのときすでにショートしておりました。けれども、ナカノ先生は、見た目は怖いけれど、実はけっこう優しい先生なんじゃないかな、なんて思えてくるのでした。
調子にのった幼い頃の私は続けます。
「さくら先生の先生がナカノ先生なんだったら…。じゃあ、ナカノ先生はいったい今なんさい?」
先生はおどろいた表情で私を見たあと、ふうと長い溜息をつきました。
「さあ、何歳だったかな、忘れてしまったな。なにせ毎年変わるものだからな」
先生の言い方は、妙齢の女性が年齢を隠すために言うそれ、ではなく、本当に忘れてしまったかのようでした。
そして、先ほどはあんなに葉巻を吸っている悪の組織の黒幕といった雰囲気を出していたように見えたというのに、今度は窓際の安楽椅子に座ってパイプをふかしながら物思いにふけっているおじいさんのように見えてくるのでした。もちろん、ここは学校ですからタバコは吸ってはいません。あくまで例えの話です。
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