8
沖田総司の記念碑を十分に堪能し、僕らは今戸神社を後にする。
とりあえず見たいものは全部見たと言う感じで、早めの夕飯を食べることとなり、河鹿が予めチェックをしていたカレー屋に訪れる。本格的なインド料理を作っていることは表の看板からも伺え、内装も少し仄暗いバーのような雰囲気だった。
僕ら二人の訪問にインド籍だと思われる男性が応対し、店の奥側のテーブルへと案内される。河鹿はさっさと椅子に座ったので、僕は対面である壁側のソファに腰掛ける。
「こう言う本格的なインドのカレー食べるの初めてなんだけど」
「お、そりゃ良かったですね。人生何事も経験です」
「うん、一度食べてみたかったし助かった。河鹿くんはカレー好きなの?」
「はい。カレーとか辛いもん全般に好きやね。コレがないと生きていけんです」
大袈裟な言い回しに少し笑みが溢れる。まあ僕も辛党だから気持ちは分かる。
「初心者にはチキンカレーかキーマが無難やね」と言う河鹿の意見を尊重し、僕はチキンカレーのセットを注文。河鹿は聞いたことの無いようなカレーの名前を店員に伝えた。
興味本位でその商品名のカレーを見てみると、辛さが通常の15倍あると書かれており、僕の想像している以上に筋金入りの辛党であることが分かった。
数分後、頼んでいたカレーが到着する。ナンは想定していた以上の大きさがあり、油でテカテカと輝いていた。カレールーからはスパイスとともに甘酸っぱい匂いも感じられ、空腹の腹を刺激する。
河鹿の料理もともに運ばれ、彼の前へと配膳される。ナンなどの仕様はそのままだが、ルーは今まで見たことないほどに毒々しい色に染まっている。茶色でも赤でもなく、赤黒く染まったルーを見たのは初めてだ。見ただけで目が染みるのは気のせいだろうか……。
「なんか、凄え色してない?」
「この店で一番辛いっちゅーことで楽しみにしてたんすわ」
初手で一番辛いもの注文するかとは思ったが、河鹿は慣れた様子で食べ始めた。僕も見様見真似でナンをちぎり、ルーに浸して口に運ぶ。
スパイスにココナッツが効いた匂いが鼻腔に広がるとともに、少し甘さのあるルーの味とナンのもちもちとした食感が新鮮だった。うん、めちゃくちゃうまいなコレ。
初めの2、3口はそうでもなかったが、後から辛さがやってきて舌を痺れさせる。水を飲みながらでも無いとまともに食べ進めることも出来そうに無い。
対して河鹿を見ると、多少の汗が出ているものの特に苦戦している様子もなく食事を続けていた。すごいな、今食べているもののの15倍はあるだろうに、そんな辛さは微塵も感じさせない。
「河鹿くん、それ、美味しい?」
「んー。中々イケますね」
「ちょっと、一口だけ食べて良い?」
他人が食べているのを見ると少し試したくなるのは、人の性と言うものなのだろう。河鹿はどうぞと自分の皿を差し出し、僕はナンをちぎってルーに浸して口に入れる。
初めは何の変哲もない味だった。15倍って、盛りすぎじゃね? と思ったのも束の間、次の瞬間には後頭部を槌で殴られたような衝撃が走り昏倒しかける。辛さで顔の筋肉が強張り、舌がペンチで引っ張られているじゃ無いかと言うくらいの痺れが走る。
「あ゛、ごれ……」
テーブルの上にあるコップを血眼になって探している僕に危険を感じたのか、河鹿はサッとコップを差し出した。僕はすぐにそれを受け取り水を一気に飲み干す。
いや辛い。正直15倍をなめていた。飲み干した水のおかげでピークは脱したが、一度受けたダメージは相当尾を引いているようでまだ頭がガンガンしている。舌の痺れもまだ引いておらず、上手く回らないのが実感できた。
「
口を開き呼吸をして新鮮な空気を口内に循環させるが、そこに流れる風さえもひりつく舌には刺激だった。その刺激を抑えるために何度か水を口に流すが、一向に治る気配もない。さすが辛さ15倍恐れ入る。
「はは、
「え? ああ、まだ痺れてるゆーたんやね。でもそれ、カレーの辛さのせいちゃうで」
はえ? いったい彼は何を言い出したのだろう? カレーのせいでこの痺れが出ているとばかり思っていたが、他に何か要因でもあるのだろうか?
「それに、これからもっと悪ぅなる」
微笑みを崩さない河鹿は別段何事もないかのように言ったが、その言葉は空間から切り取られたように宙に浮き、僕の耳には別世界の言葉のように印象に残る。
痺れは喉の奥側まで広がり始める。何度か咳払いを行うが違和感は拭きれず、やがてヒューヒューと喘鳴が喉奥から聞こえ、首を締められた様な息苦しさを覚えた。
確かにこの事態は尋常ない。以前にも誤って唐辛子を一個そのまま食べた時も、ワサビの塊をそのまま食べた時もこのような症状は起きなかった。辛さで引き起こされている訳ではない。では、コレはいったい……?
「ハーレイクイン」
河鹿が何かを言い、僕は彼の顔を見返す。飄々とした笑顔の下に何を潜めているのか、全く見当がつかず、薄寒い何かを感じる。
「知っとりますか? 蛙っちゅうんは無害そうに見えて、実は毒を持っとる個体が結構おるんよ。雨蛙とか素手で触った手で目え擦るんはアカンゆうの、聞ぃたりしませんか?」
毒。現実離れしたその言葉だけが耳に残る。コレか。コレが毒? だとしたら毒をかけた相手は一人、目の前にいる河鹿しかいない。そんな素振りはあっただろうか?
「クボさん、アンさんは怪しすぎやで。始め会うた時はパッとせぇへん猫好きやな思とったんやけど、数時間も経たんと再開した時には、ホンのちょっとやけど蛇の匂い漂わしてましてん。
次に最近事故の多い川での遭遇。あと、田村さんとの交友関係もか。田村さんは初めっから何ぞやりよる思とったんやけど、その人と付き合いのある時点で怪しさ満点やな」
答え合わせでもするように今までのことを一つずつ列挙され、どうしようかと思案した。確かに客観的に見て何かがあるようにも捉えられるだろうが、この情報だけならまだ偶然で済ませられそうな気もする。”知らない。単に偶然だよ”とでも、言ってみるか……? 考えあぐねている僕に気にせず、河鹿は話を続けた。
「極め付けはさっきの許嫁の話ん時ですわ。クボさん、僕が許嫁の話した時、「複雑そうだもんな」言うてはりましたね。「複雑そうやな」やらまだしも、「だもんな」言うんは、ある程度家のこと知っとらんと出えへん言葉とちゃいますか?」
…………詰み。コレはちょっと言い逃れ出来そうに無い。
そもそもうまく呼吸が出来ない時点でマトモな思考ができる状態では無い。何か手はないかと視線を回す。店内の様子は河鹿に遮られて良く分からない。コイツ、コレも考えて椅子に座りやがったな。
店員を呼ぶか? 僕はまだ自由が効く手を使い少し強めにテーブルを叩くと、河鹿はそれに合わせてケタケタと笑い声を上げた。
「ははっ! クボさん辛いからって暴れすぎやで。店にメーワクかかるやろ。あ、スンマセン。気にせんといてください」
すかさず僕の右手は河鹿に捕まれ、テーブルに押さえつけられた。28キロものタンクを軽々と持ち上げる膂力に対しては、僕の筋力では全く太刀打ちが出来そうに無い。
「ちょい考えるオツムはあるようやな。左手でもう一回やったらこの腕、折りますわ」
掴まれている手に力が込められ、右腕の骨に悲鳴代わりの痛覚が走る。ゾワリと悪寒が全身を駆け抜け、それは一つの確信に代わっていった。
目の前にいるこの男は、やる時はやる。
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