二つ分のポリタンクが目の前に並び、僕はどうしようかと頭を悩ませた。

 やることは簡単だ。これを持って土手を上がり、向こう側に止まっている車の荷台に乗せ、それを田村さんの自宅へ持ち帰って水質調査を行う。

 既にやることが決まっているのに何を悩んでいるのかと言うと、スンゴク重いのだ。

 30L入りでほぼ満タン。少なくとも28L入っているとして1つ28KG。頑張って持ち上げられない重さではないが、なにぶん病弱で運動をして来なかった非力な体には堪える重さだった。

 両手持ちは開始して3秒あたりで諦めた。かと言って一つずつ持っていっても2往復することになり、考えただけでもその億劫さからか足から根が生えてくる。

 こんなことなら森田は来れないにしても、橋本あたりを呼び出すべきだったかもしれない。いや、でもあいつ川に近づけないから無理か、今から呼んでも来ないだろうな……。

 まどかは最初「片方持とうか?」と聞いてくれてはいたが、田村さんが「それよりケースを持っていきましょう」と、魚が入ったケースや釣り道具を二人で運搬することとなり、ポリタンクまで運んでもらうわけには流石に行かなくなった。

 はてさて、どうしたものかと考える。

 現実的に考えて2往復で運ばなければならないのは確かなのだが、もう少しだけ現実逃避して問題から視線を逸らしたい。こう何と言うか、スーパーマン的なヒーローの登場かか、もしくは可愛い声の女の子の声援があれば頑張れるかもしれんのだが……。


「なんやクボさん、お困りごとですか?」

「あ、チェンジで」


 関東圏では珍しい、しかし聞き覚えのあるイントネーションを含んだ声がかけられ、僕は条件反射的に答えてしまった。

 声がした方に目を向けると、そこには河鹿が立っていた。先月会った時と違い、黒髪は短く切り揃えられており、黒縁メガネもコンタクトに変えたのか掛かっていない。

 洋服もパンク系からラフな格好に変わっており、以前見たときと変わっていないのは首から下げたタオルくらいじゃないだろうか。

 河鹿は僕の回答に気にした様子もなく、ニヤけた顔で僕の顔を見返していた。

「チェンジて、だしぬけに失礼やな、クボさん」

「ごめん、別のこと考えてた。ってか河鹿くんこそ、なんでいるの?」

「両親が頑張った結果やろか?」

「いや、そう言う意味じゃなくて。江戸川になにしに来たのかってことを聞きたいんだけど……」

 河鹿の出立を観察しても、釣り道具や他の道具などを持っている様子はない。どこかに置いてきている可能性もあるが、目に見えている情報だけでは何しにきたのか判断が付かなかった。

「ああ、水質調査やってましてん。僕、大学での調査で各地域の川の水質調査やってましてですね。今日は江戸川の川、見ようっちゅーことにしたんですわ」

「へえ、僕も似たようなものだよ。川の水をポリタンクで汲んで、で、どうやってこのクッソ重いやつを、土手の向こうの車まで運ぶか、考えるふりしてサボってた」

「へえ、ポリタンクってこれなん?」

 河鹿は片手でそれぞれポリタンクを持ち、「よっと」と小さく掛け声を上げると、軽々しくそれを持ち上げてしまった。

 唖然として河鹿の方を見るが、彼は別段無理している様子もなく「なんや、重いゆーとったからどんなんかと思ったら、軽いやないですか」と余裕綽綽の様子で僕の方を見返した。ちょっと自尊心というか、うん、自分が情けなくなった。帰ったら筋トレでも始めようかな。

「せっかくやし、このまま車まで運びます」

 ポリタンクを両手に持ち上げたまま、土手の向こう側に向けて歩み出す河鹿を先導するため、彼の前に並び車へと歩を進める。

 流石に何も持たない自分が恥ずかしくなり、片方持とうかとも言ったのだが「大丈夫やて。なんかクボさん、ポリタンクに潰されそうやし」とやんわりと断られた。


 土手を登り切り、反対側に置かれている自分の車を見つけ、指差して河鹿へ伝えた。

「あのトヨタのbBやね。黄色い塗装とは、なかなか珍しい色してますね」

「事故防止で目立つ色買ったんだよ。まだ運転慣れないし」

 目標が定まってから河鹿の動きは早く、僕の先導もなしにさっさと車の方へと歩いていってしまった。僕も置いていかれないように歩みを進め車に近づく。

 僕らの接近に気づいたのか、後部座席と助手席から田村さんとまどかが出てきた。まどかは大きくこちらに手を振り、僕もそれを返すように手を振り返す。


「遅かったわね。っというか河鹿くんじゃない?」

 助手席から降りてきた田村さんは僕と共に歩く河鹿に視線をやる。彼は軽くお辞儀をし、僕と田村さんを交互に見返した。

「なんや見覚えのある人おるー思っとってましたが、田村さんやないですか。お二人とも知り合いやったん?」

「ああいや、知り合ったのは大学行った後。ってかファミレスでパフェ食ったのが田村さん。偶然見かけて意気投合して……」

「なる。こちらん方は初めましてやね。僕、河鹿ってゆいます。よろしく」

「あ、どうもご丁寧に。四月まどかです」

 まどかは軽く頭を下げ、何かが琴線に触れたのか、羨望を込めた眼差しで河鹿を見返していた。

 そんなまどかの視線に気づいていないようで、河鹿は後部ドアを開け持っていたポリタンクを軽々しく車へと積み込む。その間、まどかが僕の隣にきて軽くピョンピョンと跳ねている。

「すごいー! リアル関西弁初めて聞いた!」

「羨望の眼差しの正体はそれか……。うん、関西弁っていうか、大阪弁なんだろうけど、確かに関東では珍しいよね」

「いいなあ方言、憧れる。『まいど!』とか、『なんでやねん』とか、『おおきにー!』とか言うのかな?」

「『おおきに』は今の人使わんよ。店のおっちゃんが使う程度やないかな?」

 積み込み終えた河鹿が僕らのところに来て伸びをする。というか『おおきに』って大阪の人言わないのか……。意外。

「いやしかし、クボさんもスミに置かれへんね。女の子二人はべらせて、なんや楽しそうやん?」

「むしろ僕が奴隷のように使われているって思わない? ってか、ありがとうね。運んでもらって」

「いや、かまへんよ。クボさんとはこれからも関わっていきそうやし」

 うぅう……。普通なら嬉しいが、森田という存在がいる手前、素直に喜べない。何て答えて良いか迷っていると、田村さんもこちらに合流し、河鹿の方を向いた。

「河鹿くん、私からもお礼を言うわ。ありがとう。申し訳ないけど、ちょっと急いでいることがあって、これからすぐに出なくては行けないの」

「ああ、ええですよ。僕も僕でやることがあるんでこれで」

 河鹿は「ほな」と言って大きくてを振り、土手の向こう側へと消えていった。僕とまどかが手を振っている最中にも、田村さんは不機嫌そうに車の助手席に乗り、「行くわよ」と僕らに号令を出すので、急いで車に乗ってエンジンを掛けた。


 田村さんの自宅へ向かう途中。彼女は終始機嫌が悪そうに窓の外を見つめている。何度目かの嘆息を吐いた後、「ま、しょうがないか」と一人納得した様子を出した。

「やっぱり河鹿に関わるのはマズかったですか……?」

「まあ、あまり良い兆候とは言えないけれど、今回は事故のようなもんね。多分彼も川の調査で来ているのは本当だろうし、大学での研究か、もしくは私たちと同じ目的で動いている可能性もあるわ。何にせよ、今回の接触で河鹿くんに関しての状況が変わったのは確かね」

「それ、あんまし良い変化ってわけじゃ無いですよね……」

「ご明察。あなたに関してはそれほどでもなかったけど、私に対しては大学で会った時から、怪異に関わるものとして警戒されていたわ。退魔士の勘ってやつね。だから私と知り合いだと知られた時点で、あなたは『警戒するべき相手』、もしくは『田村のことを聞き出しやすい駒』として認識されたと判断して良いわね」

「ええ……。どうすれば良いんですか?」


「殺して」


 田村さんが冷静な声でピシャリと言い放つ。有無を言わせないほどの凄みが車内の温度が急激に下げらせ、僕はゴクリと唾を飲む。

「って言っても無理でしょうから、なるべく穏便に。できるだけ接触はせず、でも要求やら要望が来たら従って。命あっての賜物よ。

 正直な話、森田くんを売れば気負いしないで済む相手だもの。最悪そういう選択肢もアリね。そこの天秤はあなたに任せるわ」

 あ、焦った……。一瞬マジなのかと本当に疑った。

 まあ確かに森田の件があるからわだかまりがあるだけで、それをクリアしてしまえば河鹿に関しての後ろめたさは無しになる。いや、もしかしたら河鹿も森田の病状改善に協力してくれるかもしれない。この考えはまだ様子見段階ではあるが、協力してくれそうなら打診してみよう……。

「…………それにしても、大学の帰りと言い江戸川の調査と言い、タイミングよく河鹿くんと遭遇するわよね。前世でなんか結びつきでもあるんじゃ無い?」

「えええー、できればそういう相手は女性が良いです」

 落胆する僕を尻目に、田村さんは「ハッ」と鼻で笑って窓から広がる田園風景を眺めていた。


 田村さんの家に江戸川での成果物を置き、田村さんは今日1日、この調査を行うということで僕らは解散となった。

 まどかを家に送り返した後、僕も自宅に帰ってリビングでくつろいでいると、携帯電話のメール受信を知らせるベルが鳴る。送信元は河鹿であり、メール本文は以下の通りだった。

《お疲れ様です! ホント、今日は偶然でビックリですわ! そうそう、東京観光も兼ねて、どっか遊びいきませんか? 🐸》


 ……田村さん。これは、どうした方が良いのでしょうか?

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