第114話 燦然とした世界
優しい青色で塗りつくされた空の上に、輪郭が曖昧な白の煙めいた塊がまばらに浮かんでいる。
それをしばらく眺めた後、自身の足元へと視線を向ける。透き通った黄混じりの緑を纏った草原とは、ある一点だけではない。地続きに向こうの方まで広がっていた。
向かって右方向に続く草原は鬱蒼と茂る森へと変化を遂げた。背の高い木が生やす枝は、無数に分岐を繰り返している。そこには、手のひらよりも少し小さい程度の葉が敷き詰められていた。そのせいで森の奥先の景色は見られない。 ……ピィ、と甲高く鳴くあの音とは一体何なのだろうか?
燻った疑問から逃げるように、最後に前方の光景を眼に映した。
……丸みを帯びた輪郭の草原が崖となり、ストンと高度を落とす。それからなだらかな丘が続き、ずっと遠くの方には建築物の群れを見つけた。ひどく淡い茶色の壁に、赤基調の屋根。高い建物もあれば、低い建物もあった。
そのような建物群の更に向こうには、所々に黒のラインが入った群青色の液体が遥か彼方まで続いている。よくよく見るとそれは、大袈裟に動いていることが
………………。
あら方の景色を眼に捉えたシヅキはゆっくりと眼を閉じた。
シヅキはこの景色を知っていた。闇空の下、白濁の草原に、廃れの森と港町。その先に続くのは真っ暗な海だ。 ……それらを一望できるここは高台の上。トウカが同族を
それは間違いない。地理的にはあっている筈なのに。 ……しかしながらまるで。
シヅキは口元を震わせるようにして呟いた。
「…………まるで別物じゃねえか」
空は闇色に染まっておらず、草原は緑だ。森には廃れの要素が見られず、港町は景色に調和をしていた。海は黒になんか濁っていない。
これは何だ。何なのだ。当に違和感の範疇は超えていた。先ほどから鼓動の音が内側で鳴り響いている。それがやけにうるさい。シヅキは自身の胸元を強く握り込んだ。そして体内に溜まった異物を吐き出してしまうように、言葉を絞り出したのだ。それは彼の中の察しだった。
「ここは………………生命の生きている世界だ」
断定をする。疑いはなかった。そう出来てしまえたのは、
その理解を後押しするように、ささやかな風とともに土の匂いが運ばれてくる。芳ばしいソレは心の塔の入り口で嗅いだものと同じだった。あの時もこの匂いが妙に気になっていた。内面的な、なんてそんな変な感想を抱いて。
「……そういうことだったのか」
気怠い身体を強引に動かし、眩む視界を頼りに歩こうとする。行く宛はない。何故歩こうとしたのかも不明だった。どうも思考が鈍い。 ……生命を前にして自分は今、何を思っているのだろう。
それを確認するために、シヅキは改めて世界を見た。
「生命……これが生命」
青い空、白い雲、緑の草原、豊かな森と人間が暮らす街。それらは比喩的な意味でひたすらに
………………。
なんて綺麗なのだろう。それと同時に……なんて――
「ぐ……ァ………………」
5、6と歩みを進めたところでシヅキは崩れ落ちた。意識が朦朧とする。今よりも1秒先が苦しい。2秒先はもっと苦しい。生命に囲まれることは、こんなにも苦しいのか。
ますます鼓動が速くなってゆく。魔素なんてもので再現された偽物の心臓が、偽物の鼓膜を震わせる。偽物の呼吸を荒げるシヅキは小さくその場に
左手へ更に力を込める。
「心臓…………痛ぇ…………………」
ノイズの渦を越える時に、同じような経験をしたことがある。痛みの走り方も似ていた。 ……あの時の原因とはシヅキの心の在り方に問題があった訳だが、今回はどうだろう。正直手に負える気がしなかった。
もうシヅキの身体は動かなくなっていた。もう眼を開ける訳にはいかなかった。
青い空、白い雲、緑の草原、豊かな森と人間が暮らす街。生命の生きている世界。
なんて綺麗なのだろう。それと同時に……なんて残酷なのだろう。
「俺たちは……俺たちが在る世界って………………」
闇空の下、白濁の草原に、廃れの森と港町。その先に続くのは真っ暗な海。生命の生きられない灰色世界。
そんなシヅキにとっての現実がたった今、燦然と輝く世界によって掻き消されてしまった。その代償に得てしまったものとは、途方もない虚無感と劣等感だ。
シヅキの眼を一滴の涙が伝う。
「灰色世界は……なんて空っぽなんだ。何も無い。何も無いじゃないか。価値が無ェんだ。 ……それってこんなにも哀しいことなのか」
ボロボロと涙が溢れ落ちていく。灰色世界を諦めることなんて、とっくの昔に済んでいた筈なのに……そうでは無かったというのか?
その問いに対する答えを探し求めるように、シヅキは彼女の名前を口にする。
「…………………トウカ」
トウカが求めているのは、このような景色だというのか? このような景色の中に花を見つけるというのか? それが彼女の望みだというのか?
「ダメだ……………………ダメだろ、そりゃあ」
間も無くしてシヅキの意識がだんだんと遠のいていく。それは元の世界へと連れ戻される感覚だった。その最中にシヅキは最後の理解を遂げる。
ホロウにとって生命は、毒そのものなのだ。
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