第75話 全ては×××の為に
遥か遠くまで続く坂を見上げ、シヅキは大きく息を呑んだ。
「また俺はここに……」
この坂を上りきれば“結界”に辿り着くことができる。それは酷く簡単な行為のように聞こえてならないが、シヅキにとってはあまりにも高すぎる壁であった。
「大丈夫、だよ。私が傍にいるから」
声の方向に視線を移すと、そこには真っ白の外套を着たトウカがただ一体。 ……他には誰の姿もない。調査団は既に”結界”へと向かってしまったのだ。
シヅキはその細い眼でトウカを見やると、すぐに溜息を吐いた。
「な、なんで溜息を……」
「お前なぁ。よくもあんな啖呵を切りやがってよ」
「啖呵、って?」
「本気で言ってんのかよ。 ……お前が、俺を導くってやつだ」
妙なくすぐったさを覚え、シヅキは自身の首の後ろを掻いた。彼が思い返したのは、口角を吊り上げるようにして嗤ったコクヨの笑みだった。
彼女はトウカの言葉の後にただ一言、こう言った。
『ならやってみるがいい。無理だろうがな』
「……」
「シヅ、キ?」
「……正直、俺だってあのノイズを超えるのは無理だと思っている。身体がよ、えげつねえ拒否反応を起こすんだ」
「痛かった?」
「痛ぇは痛ぇよ。でもただの痛みだけならどうとでもなる。そう言うんじゃなくて……触れたくないっていう……俺の気持ちの問題だ」
シヅキは独り言のように呟くと、「ハッ」と自虐的に笑いを溢した。
「嗤えよトウカ。ノイズがよ……たかがノイズの筈なのに……クソ怖えんだよ。ほんとに……」
「さっきも言った、でしょ? 私が居るから。必ず、連れて行くから」
「でもよ――」
「シヅキにはベースキャンプに残る選択も出来た、よね? でもここに来たのは、ちょっとでもある、
「…………」
トウカはこの場に似合わない柔らかな微笑みを浮かべてみせた。
「私、結構嬉しい、よ? コクヨさんじゃなくて、私のことを選んでくれたの」
「……バカ言ってんじゃねえよ。それで、どう俺を“結界”まで連れてってくれんだよ。まさか何も策が無え訳じゃねーだろ」
「策って呼べる程のものじゃないけど……“考え”はあるの」
そう言ったトウカは、こちらにその小さな手を差し出してきた。まるで、それは握れと言わんばかりに。
「んだよ」
「握って?」
握れという意味だった。
「握ってどうすんだよ」
「簡単、だよ。握って歩くだけ。そしたら、たぶん超えられるから」
「……は?」
「ちゃんと説明する、から。 ……もう隠し事を続けるの、疲れちゃった」
※※※※※
「コクヨさーん! コクヨさーん!」
「…………」
「コ・ク・ヨ隊ちょ〜う! 聞いてるすか〜?」
何度も何度も名前を呼ばれ、コクヨはようやく振り返ったのだった。
「ああエイガか」
「はいエイガすよ〜! 酷いっすよ〜ずっと無視されたら流石のオレでも傷ついちゃうすよ!」
「そうは言うが、随分とお前はご機嫌に見えるが」
「えへへへへ! そりゃあそっすよ〜!」
エイガは大きく跳び上がるように移動すると、コクヨの目の前に着地した。そして、その緋の眼を蘭々と輝かせながら饒舌に言葉を紡ぐ。
「だってぇ〜コクヨさんがオレに頼みたいことがあるなんてぇ〜滅多にないことじゃあないすか! 流石のオレでもテンション爆上がりすね! ほんと!」
「さほど普段と変わらない気がするが……まあいい。お前は
「色が薄い? よく分かんねぇすけど、オレが必要ってことすよね!?」
「ああ。 ……もう少し声量を落とせ」
「あー! さーせんす!」
その虚の眼でエイガのことを一通り睨め回したコクヨは、再びその視線を戻したのだった。はるか遠くに見える豆粒ほどの大きさである彼らを目にし、小さく息を吐いた。
「どうせ無理だろうに」
「ひょっとしてシヅっちのこと観てるすか?」
「ああ」
「……ふーん、そっすか。オレには小さすぎて観えねーっすけどね」
そう言いつつ、エイガは近くに落ちていた手ごろな大きさの石を蹴り上げた。宙を待った石はあえなく、崖下まで落ちていってしまったのだった。そんな石の末路を見届けたエイガは、赤毛の髪を弄りながらこう言った。
「もしかしてなんすけど、その頼みってのもシヅっちがカンケーしてたりするんすか?」
「察しがいいな」
「その褒めは嬉しくないすよ。 ……んで、オレは何をすりゃあいいんすかね?」
「なに。お前の力を借りるかどうかはあくまでも保険だ。然るべき時に相応の働きをすればいい」
再びエイガの方へと振り向いたコクヨの眼は、先ほどのものよりずっと細く、闇が深いものであった。
エイガはその
その眼が今、自身に向けられている。その眼が今、自身のことを映してくれている。その眼が今、自身のことを求めている。 ……そんな事実は、エイガにとってあまりにも大きな救いに他ならなかった。
エイガは早る心臓を抑えずに、高揚する心を抑えきれずに、ただひたすらにコクヨの言葉に浸ったのだった。
「――というわけだ。頼めるだろうか?」
エイガはブンブンと縦に首を振った。そして、その震える声で彼はただ一言だけ……こう誓ったのだ。
「全てはコクヨの為に。オレの信じるものは
――
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