第5話 逃亡
十一月二十五日。のどの渇きを覚えて起き上がると洗面台に向かい、ひたすら顔に冷水をかけては、同時にわずかな水分を口に入れた。
僕は拒むことに慣れていた。いつしか拒むこと以外の選択肢を誰かから剥奪されたかのように、僕は一つのことを貫いていた。何かが足りない気がしてならなかった。心の一部から剝離した欠片の正体は未だにわかっていなかった。常に一択の設問は僕を苦しめ続けた。
僕はここ二日間、食を拒んでいた。先日かかりつけの医者の所に行くと、ストレス性の逆流性胃腸炎だと診断された。特にそれを不思議がることはなかったが、以前からそのような症状を抱えている気がしていた僕は本当にただの胃腸炎なのか疑問に思った。別に医者が言っていることを疑う訳ではなかった。確かに以前と比べ格段に具合が悪くなっているのは自分でもわかっていたが、それとは違う何かが引っかかっているような気がしていたからだ。
むせかえるような吐き気を催した僕は、昨日もらった胃薬をおもむろに取り出して押し込むように飲んだ。これじゃないと言わんばかりに、口に入った異物を嗚咽とともに吐き出した。
最近口に物を入れると嘔吐いてしまって飲み込めない。そんな日々が続いて僕の体はみるみる内に痩せこけていき、学校に行くのもままならなくなっていた。
昨日電話があった。それは大学の友人からの電話で、なかなか学校に顔を出さない僕に気を使ってのことだった。
食事を取り決めたのは昨日の晩で、あれから何時間経過しても一考に変わることのない自分自身をできるだけ無視していた。だが無視することの許容を越えていた自分の現状とは裏腹に友人からの申し出を断れないでいた。友人には申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、何かと断れない性格の僕は不安を片脇に抱えて身支度をしていた。
せっかく誘ってもらったのに僕はただ机に突っ伏している時間が増えるだけの事だということを悟っていたが、いつの間にか僕に選択できる余地はなくなっていた。
待ち合わせは十一時。僕は多少の後ろめたさから、早めに家を出て、十五分前には待ち合わせのF駅改札南口についていた。できるだけ邪魔にならないところに落ち着くと、今日これから告白しなければいけない内容をまとめていた。不安がまとわりついてくるのを感じる。素直に話してやり過ごせばいいものを、なかなか決めかねていた。
駅前のベンチに腰を下ろして両手を組み、必死になって吐き気を抑えて友人を待った。
そもそも最近の僕にとっては食事という言葉だけでタブーなのだ。かなり体力も落ちて毎日吐き気に耐えながら過ごす日々を送っている僕にとっては食事程苦痛な物はなかった。何かに浸食されたかのような、まさにそんな感じだった。
結局駅前のファストフード店に入りさっそくメニューを凝視する友人。それに比例するかのように僕の視線は右上に向かっていたが、何も見えていない。何か食べるかと友人は快活に聞いてくるが何も答えられない。
「実はそんなに食欲なくて」
「大丈夫かよ、そういえばなんか顔色も悪いし」
「この間から何も口にしていない」
「なんか食った方がいいよ」
「いや、何も食べたくないんだ」
僕は従業員が置いた水を睨んで口を付けぬままに立ち上がり、店内のトイレへと向かった。それから僕は右手の人差し指と中指を喉の奥に突っ込んで、小便臭い便器に大量の吐瀉物をまき散らした。一通り吐いたあと、心配する友人に別れを告げることなく逃げるように店を出て、帰路についた。
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