第2話 ユーフォルビア

 十二月八日。流石に冷え込んできた寒空に別れを告げるかの如く、腰ぐらいの丈のブラインドをいっきに下ろした。室内でも冷気を感じるようになった私は毎日着ている白衣がとても頼りなく思えた。診察室を叩く音が聞こえる。

 今日もカガリ君の診察が入っていた。


 「カガリ君、お久しぶり。何か変わったことはあった?」

 「いえ、特に何も変わったことはなかったです。だからまたこうして来たわけなんですけど」

 「そう、まあとりあえず掛けて」


 そう言うと彼は素直に、肩掛けのカバンを下ろして上着を脱いだ。白で統一された部屋には目立つベージュのコートを両手で簡単にたたむとそれを膝に乗せて回転いすに腰を掛けた。以前から処方しているトフィソパムの量から見て、そろそろ症状が落ち着いてくる頃合いだった。


「体調はどうかな、吐き気は良くなった?」

「いえ、吐き気は治まってません。その他にも、特に良くなっているとはあまり思えないです」

「そう」


 私はただ、床の大きな正方形のタイルに視線を落とした。やはりカガリ君にはもっと別な負担がかかっていて、症状を良くしてもこの先ずっと引きずって行くような気がする。処方した薬はちゃんと飲んでいるようだし、ここまでとなるとまた話してみる必要がありそうに思えた。


 「カガリ君、もしかして君にはまだ誰にも話したことのない秘密があるんじゃないかしら」


 何の根拠もなかったが、彼にはそんな予感をさせる雰囲気が感ぜられた。


 「あまり言いたくなかったんですが、トウシン先生。そのことなんですけど、一つ思い当ることがありました」

 「よかった。さっそくだけど聞かせてくれるかしら」

 「はい」


 彼は少し咳払いをするとゆっくりと重い口を開いた。


 「今まで誰にも言ったことはなかったんですけど、すごく辛かった思い出があります。僕が小学校のときに、ある友達ができたんです。名前はホタルと言います。その子とは小学校低学年まで一緒に遊んでいたんですが、ある日を境に会えなくなってしまいました。その頃の僕には連絡手段もなかったし、その子の家も親も知りませんでした。ただふらっと現れては一緒に遊ぶと言った感じだったので、名前以外何も知りませんでした。そのまま僕は毎日を逃げるように過ごしていって、高校に上がったころ、僕はその子と再会しました。僕はその子の事をすっかり忘れてしまっていて思い出せなかったのですが、その子のおかげで少しずつ思い出してきたんです。それから、えっと、その色々ありました。すみません、ここら辺の記憶が曖昧で」

 「仕方ないよ、薬の副作用の可能性もあるし」


 彼は床を見たまま微動だにせずまた、口を開いた。


 「はい、では続けます。それから結局その子は何らかの事故だと思うんですけど、その事故に巻き込まれてどこかに行ってしまったんです。もしかしたらもう亡くなっているかも知れません」

 「そう、そんなことがあったのね。でも、君のせいじゃないよ」


 ただ相槌を打って聞いていた私はそうやって慰めることしかできなかった。君のせいじゃないなんて私にはわからない。だけど私にはそうやって言うことしかできなかった。


 「いえ、僕のせいなのかもしれないんです」

 「え?それはどういう」


 次第に彼の表情が暗くなる。それに引っ張られるような形で、辺りが歪み始めた。辺りが、部屋全体に広がって行った。まるで、黒い水溶き絵の具をこぼしたかのように。


 「今日は、もう失礼します。すみません、少し眩暈がしてきてしまって」

 「そう、私こそ無理させてしまってごめんなさいね。話はまた今度聞くから」


 私はそう言って彼に帰るよう促した。彼を心配してというよりは、私が怖くなったからかも知れない。段々と迫る彼の雰囲気が私には耐えられなかった。感情の波が押し寄せてくるような、そんな不安を煽らせたのだ。

 私は取り繕うように必死で彼に声をかけた。


 「ぜ、前回もそうだったけど、思ったより元気そうでよかったわ。お大事に」


 彼は回転いすから立ち上がり何も言わず部屋の扉へ手をかけると、少し振り返って呟いた。


 「そう、見えますか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る