欠食
剣山ザラメ
第1話 隠し事
一
十二月三日。私はいつものように硬い革張りの椅子に腰を掛け、コーヒーをすすりながら今日も何事もなく終わればいいと、そう思っていた。彼が診察室の扉をノックしたのは、午後の診療が始まってすぐの時間帯で、ちょうど眠くなってきた私の意表をつくように現れた彼は慢性のストレス性胃腸炎を抱えて私のもとへ足を運んできた。
ホオズキカガリ、十八歳。都内の大学に通う学生、以前彼が受けた診断書とアンケートをめくりながら、至って普通の青年のプロフィールと彼の顔とを見比べていた私は違和感や不安に似たものを覚えた。
彼の顔が強張って内にあるものを隠そうと必死という風に見えたからだ。私は仕事柄どこか影があったり精神的な疾患を持つ患者見ることが常だが、彼は他の患者とは違って見えた。病状以外には特に困ったことはないという風な、堂々とした風格があったのだ。表情こそしっかりして見えたものの、血色が悪く酷く痩せていた。彼には明確な意志が宿っているような気がしてならなかった。
私は彼の食生活について聞くと、最近食欲がなく食べる量が減ったということだった。無理もない。そもそも彼は胃腸炎を患っているのだから食欲は無いだろう。ストレス性ということは何かしら私生活において耐え難い思いをして発症した可能性があるということだから、環境の緩和や苦い思い出を話してもらうなどが望ましかった。
彼から悩みを打ち明けてもらったりすればひとまず進展と言えた。ただ、彼が抱えている問題は単に病状からくる弊害を解決したところでどうにかなることでもなさそうだった。だが彼は依然変わりなく、何事も無いように話している。特に根拠があった訳ではないが、以前からそうだったような、もう現状に慣れてしまっているような態度だった。私は彼の心情にうまく立ち入れないまま淡々と何気ない会話をするほかなかった。と言ってもただ症状について聞いたり、思い当る原因を聞いたりする程度だったが、彼は肝心のことは避けるようにして一つもそれらしい事をこぼすことはなかった。
彼とはその日大した話はしなかったが、彼から受ける印象は痩せた花壇といった自分でもよくわからない形容をしていた。
二
十二月五日。今日の彼は心なしか穏やかに見えた。彼に会うのは二回目だったが、不思議と彼のことを深く知っているような気になった。
彼は口をつぐんでしまっていたが、私と話をする気はあったようで、特に消極的な態度ではなかった。私は今聞かなければいけないような気がして、二三質問してみることにした。
「カガリ君は何か好きなものとかあるのかな」
私は苦し紛れに当たり障りないような質問をした。というよりも、それしか出てこなかったのである。
「僕は特にこれと言って、いや、飴が好きですね」
「あめって、飴のこと?」
「そのあめです。小さい頃に誰かからよく貰っていて、今でも自分で買ってきたりするほどには好きでいるつもりです」
妙な言い方をする子だと思った。
「その誰かって思い出せないの?親戚のあの人だとか、名前は思い出せないけど顔はわかるとか」
「いえ、思い出せないです。何せ小さい頃の話なので、それに低学年の時こっちに引っ越してきたので、覚えていないです」
大人びていると感心していて気が付いたことだが、彼は私を探っている。そんな気がしてきていた。腹を探っているような、そんな目つきだった。
「その、言いずらいとは思うのだけど、何か嫌なことはなかったかな。別に意地悪したいわけじゃなくて、些細なことが原因になって具合が悪くなることもあるのよ」
「特には思い当りません。ただ最近ツイてないと思うことが増えたように思います」
「どんなことでもいいの。話してみて」
「いえ、本当に大したことじゃないんですけど、例えば自販機で飲み物を買おうとして、小銭を落としてしまったりとか。道すがら視界に入った信号機が全て赤だったりとか、そんな程度です」
「そう、ほかにはないの?悲しかった思い出とか、悔しい思いをしたこととか」
「それならあります。今でもなかなか忘れられなくて思い出しては腹が立ったりします。高校の時、あるグループ課題のことで、もめたことがありました。僕は不真面目な生徒に混じって一人で課題を進めていたのに、それが気に食わないからって、僕は何もしなかったことにされました」
「それは災難だったね。今どきの子は変に頭が回るというか、悪知恵が働くというか、困ったものね。こんな礼儀正しい子に限ってそんな事があるなんて」
「買いかぶりすぎですよ。僕は別にいい子でいようとしたことはありませんし、今思えば僕が悪かったのかも知れないですしね」
やはり、ただ大人びているというわけではないようだった。
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