第6話 クリスマスマーケットでの出逢い
可愛い灯りに彩られた旧市街の街並み、人々で賑わう小路、クリスマスの時期の雑多な音色や匂い。それら全ては貴方にとって鈍い日常生活からの逃げ道だった。旧市街のあらゆる小路という小路で開かれているクリスマスマーケットにいた貴方は、
妻との関係は悪くなっている。貴方達二人は共通点を失い、疎遠になっているのだと貴方は思った。でも、実はこれが自分のせいだと秘かにわかっているのだろう。仕事も上手くいっていなかった。集中力を失った貴方は、いつもしていた仕事さえやり遂げなくなった。もうおしまいだ、いつ首になるのかわからないと貴方は思った。
でも貴方は逃げられないだろう。貴方の人生がもろくも崩れ去るような気がして怖い。このみすぼらしい生活が貴方の全てだ。逃げ道なんかない。壊れやすい心を人の目から隠すために、その弱い心を固い貝殻の中に閉じ込めて、アルコールに溺れる前の自分のふりをしながら、貴方は日々を過ごしていた。
クリスマスマーケットに置いてある立ち飲みテーブルに寄りかかっていた貴方は、夜遅くまでごった返す人並みを眺めていた。もうすぐ閉店するであろう甘い物やワインからクリスマス飾りまで売っている屋台の間を、客はワイワイと元気に笑いながら歩いている。もうすぐ小路は寒い夜に覆われていく。でも貴方は、冷たい手の中に温かいコップを持っている。
広場の小さな舞台の奥に、飾りの光でキラキラ輝いているグランドピアノが孤独な雰囲気の中に佇んでいた。人気のない舞台なのに、ピアノが独りで唱う旋律が貴方の耳に届いた。貴方の頭の中でジョン・フィールドの
私達の祖母はかつて、満員だったコンサートホールでフィールドやショパンを優雅に演奏していた。祖母の激しくて美しいピアノの能力に達することができなかった母の心は、辛さと恥とでいっぱいだった。彼女が祖母から才能を受け継いでいない訳でも、十分な練習を積んでいなかった訳でもないのに、彼女は祖母のレベルまで達することができなかったのだ。彼女にとってピアノは何よりも逃げ道だった。彼女は、辛い感情の全てを鍵盤に押し込めて、ピアノの弦に打ち込んだ。
———このことに関して、貴方はそっくりだ。
私は貴方の傍に立ち寄って、貴方の手を優しく握った。私の感覚にとって、貴方の手は貴方の酒臭い息のように湿っぽくて温かい。ただし、実際に私の触覚は既に失われていたのだが。
貴方は私の目を探した。
「この音符はどうにしても忘れられない」と貴方は湿っぽい息で私に声をかけた。
「おばあさんがこのピアノの前に座って、この曲を弾いているようだわ……」 と私は答えた。
コップの中の冷えた液体に視線を落とすと、貴方は鈍くて曇った声で呟いた。
「そんなことを言わないでくれ」
私は貴方の胸を苦しめる複雑な痛みをよく感じ取った。
「お兄ちゃんを絶対一人にしないわ」
貴方は私に驚いた視線を送った。
「……なんでこのことを?……なんでここにいるんだ?……なんで君は……」
貴方は息を止めた。貴方の胸はいっぱいで言葉が出なかったのだろう。私は貴方の頭の中に響いている最後の主題を聞いていた。
しばらくしてから、私は「……この世から離れられないの」と明確な声で言った。
「……それはどうして?」
と貴方は尋ねたが、私はもう答えられなかった。貴方は私の目を探したが、見つけることはできなかった。夢か幻だったかのように、私は音楽とともに貴方の世界から消えていた。
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