第2章 暗闇の中の閃き

第5話 冬風のささやき

 前の墓参りの時から、雪の毛布が町を覆ってきた。マッチ棒の先端をマッチ箱の側薬がわぐすりに擦り付けた貴方は、シュッと閃く炎を墓用ランタンに近づけ、真っ赤にランタンが輝き出す。それを私達の両親の墓に置いた貴方は、手を合わせ、祈りの言葉を口にした。



 何年も前のこの日、父が亡くなった。五十歳にもならずに訪れた突然で早すぎる死だった。私達の家族にとって、父の死は不幸への道の最初の一歩だった……。



 墓場を離れるために背を向けようとした貴方は一瞬躊躇った。松の陰に立つ、貴方のことをじっと覗く私の姿に気が付いたらしい。貴方は少し戸惑ったような目を私の方に直接向けた。薄絹を垂れ込めたような沈黙が私達を覆い、その沈黙に包まれた貴方は一言もいわずに、ただ私の方向をじっと眺めた。



「私のことを覚えるの?」と私は口を開けて言おうとしたが、喉からは静かな吐息さえ出ることはなかった。



 貴方は私の方に向かって挨拶をした。でも貴方は私に挨拶したのではなかった。貴方の目は私を透かしてその向こうに注がれていた。私が振り向くと、私の後ろの雪の中に一人の老女が立っていた。この老女は、私達の記憶によれば、私達がまだ子どもの頃、近所に住んでいたおばさんだ。彼女は貴方と挨拶を交わし、世間話を始めようとしたが、貴方は挨拶が済ませるや否や、身を翻してその場を離れた。貴方は一瞬だけ躊躇い、墓場のを通った。



「……どうして貴方は心の中に引きこもるの?」


 風は凍った息吹のような私の声を、過ぎ去った貴方の方に運んだ。



 昔のご近所さんは驚いた顔で私の方に見た。



「そこにいるのは、貴方?」と彼女は悲し気な声で風の方につぶやいた。彼女は自分の亡くなった夫に問いかけたらしかった。だが、彼女の声にはただ風が答えるだけだった。風は松の枝を、彼女に微笑んで答えるかのように優しく揺り動かした。



 でも彼女の目は人影さえ見つけることはできなかった。



 でこぼこにへこんだ車にもたれかかりながら、貴方は煙草を取り出した。その震える手を見るに、貴方の心を何かが苛んでいるのだろう。昔のご近所さんは貴方の前に悪い足を引き摺って通り過ぎた。だが、貴方は彼女のことを無視した。



 ———車に乗せて町に送ってもいいのにな、昔はよく世話になった人だから……。



 かつては貴方にとって全てが上手くいっていたのに……。


 三十歳にも至らないジョン・フィールドがロシアで成功を収めたように、貴方はいい仕事場を見つけ、優しい妻と結婚して間もなく、子ども二人に命を授けた。


 貴方は私達の家族に覆い被さった暗闇を乗り越えたと思ったのだ……。


 私はそう信じた。いつの間にか貴方は私の墓を訪れなくなった。いい意味で私のことを忘れたと思ったのだ。


 私はそれを信じたかっただけなのか……?



 ジョン・フィールドはロシアで数多くの楽曲を作曲した。ピアノの教師と作曲家としての幸せを見出したのだ。満ち足りた人生を送ったのだろう。しかし、私達が慣れ親しんでいた彼の最後のピアノ協奏曲第七番はその何不自由ない生活の終りを示した。妻は彼との生活に見切りをつけ、子どもを連れて出て行った。身体的にも精神的にも健康がアルコールの影響でどんどん悪化し、彼は十年もの間、新しい作品を一つも生み出すことができなかった。


 最後のピアノ協奏曲を完成させた時だけ、フィールドは病気を一瞬間だけ克服したかに見えた。協奏曲の第二楽章、つまり私達の親しんだ輪舞曲ロンドはその希望の光で輝いている。


 この曲は貴方にも希望を与えられると思った。それは私達の幼少期において忠実なお供だったから。しかし、母とよく喧嘩していたその時から、貴方はピアノを弾かなくなったようだった……。


 ———せめて貴方を一人にしなければよかった……。

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