第4話 貴方の魂の淵からの幻
貴方は目から流れ落ちた涙をこすったが、私は未だに貴方の前に立って貴方をこの冷たい目で覗いている。私の姿は煙草の煙に映っている幻想のように見える。私達の目が重なり合った途端、貴方の身は完全に凍ってしまった。私は貴方の記憶の一番奥の片隅からまろび出る幻影のようなものであり、貴方の魂の暗い淵から映っている幻覚のようなものである。ところが、私は今此処にこうして貴方の前に立っている。それは貴方の記憶より消された私だ。色があせた写真の中だけで生きている私だ。
「一体どういうことだ……」と貴方はつぶやいて、慌てて立ち上がりながら写真を手から落としてしまった。
プレーヤーのレコード針はレコード盤の内周から外れると、トーンアームは一瞬止まってパーキング位置にスライドした。煙草の煙のように冷たい静寂が部屋の全てを覆った。貴方の息遣いだけが部屋に侘びしく漂い、まるで生者の世界にそれだけが残っているかのようだった。
「………コンスタンツェ」
貴方が唇を動かして私の名前を発しようとしたが、上手く発音できているのかいないかのかわからないぐらいにぎこちなく聞こえ、まるで遠い過去からの叫びのようだった。
「私のことを忘れたの?」と私は殆ど聞こえないかのような小さな声で囁いた。
貴方の顔色は蒼褪め、部屋に自分以外に誰もいないかどうか確認するように、貴方は辺りを目だけで見回している。五感を疑う貴方は愛惜しい。
「私のことを忘れたの?」と私は訴えを繰り返して言った。
貴方の目は熱くて粗く見え、まるで涙の一粒も流せないようだった。重たい表情をして、あなたは目を伏せた。
「君を一体どうしたら忘れられると言うんだい……」と貴方の曇った声が静寂から零れた。
「それが本当のことなら、どうして思い出から逃れているの?」
私の言葉は針のように貴方の胸の真ん中を突き刺した。息を弾ませた貴方は震える手で煙草箱を探し、それを見つけると一本を取り出して火につけようとした。マッチ棒の炎は永遠に消え去る前に一瞬ボッと燃え上がった。
「……ならどうして酒と煙草に逃げているの?」
「そんなことは絶対にしていない!」
と貴方は拳を握ってこちらに怒鳴った。火がついた一本の煙草は手から滑り落ち、残り火がカーペットに広がっていた。
「こんちくしょう!」と貴方は罵って、落ちた煙草を素早く拾い上げた。
「レーナに殺されちまうよ」と貴方は暗い顔でつぶやいた。
そして、貴方はカーペットの上から私の写真を拾い上げた。写真は広がった炎を全て受け止めたが、写真に写る私の微笑みはこれから永遠に醜く焼け焦げてしまった。まるで私の微笑む姿が過去のものになったみたいだった。
「くそったれ」と貴方は自分の衝動性を憎んで不機嫌につぶやいた。
貴方は顔を上げ、私の姿を目で探した。でも貴方は私の姿をもう目にすることはできなかった。冷たい煙だけがあの世の余韻のようにその空間に漂っていた。
そして、突然、電気がつけられた。
「こんな遅い時間に一体何をしてるの?」
とドアの所に立ち貴方を疑るように見つめながら妻が尋ねた。
貴方は彼女を粗い目でただ見つめていた。
「あの古い写真を見てたの?」と尋ねながら彼女はあの段ボール箱を目で指し示した。
夫の返答を待つことすらせずに、彼女は窓の方に行って、煙を逃がそうと窓を開けた。
「部屋の中で煙草を吸わないでくださいと何度も言ったのに……」と彼女は小さな声で小言を言う。
「そんなこと、お前には関係ないと何度も言っただろう!」
と貴方は怒った声で言い返すと、半分くしゃくしゃに握り締めた私の写真を段ボール箱に投げ込んだ。
「どうして最近あんな態度ばかり取るのかしらね……」
貴方の妻は半分怒っているような半分困り果てたような視線を送った。
「あんな態度とはどういうことだ!」と貴方は言葉に非難の力を込めて口から押し出すように言い、箱の蓋を閉じた。
「あなたは変わった……」と妻は伏せた目で呟いた。
「人間は変わるもんだ!」と貴方はひどく腹を立てた顔をして部屋を後にした。
部屋に残った妻が黙ったまま重苦しく貴方を見送った。彼女はろうそくを吹き消し、後片付けをしながら深いため息をついた。そして、貴方のあとについて寝室に戻るかどうかしばし躊躇った。結局、彼女は仕方がないといった表情で大きなため息をして電気を消し、部屋を後にして扉を静かに閉じた。
———貴方の胸から愛を奪ったのは貴方だけだ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます