第3話 永久に失くした微笑み

 スピーカーから漏れ出した輪舞ロンドは既に消えていたが、古い靴箱の中では響きつづけている。箱の中には、家族がまだ一つだったあの頃の写真が乱雑につくねられている。貴方は指の間で写真をパラパラと踊らせるようにめくる。それはまるでその写真たちが、それらの中に閉じ込められた代わり映えのしない顔ではない、今現在の貴方の顔と対面することを喜んでいるように見える。



 貴方は写真を一枚取り出して、光に照らしてみた。



 それは若い頃の母の写真だった。母の両手は、私達子どもたちの手を一人ずつ優しく握っている。そして写真の中で、母は天使のように清らかな微笑みを永遠に湛えている。



 貴方はワイングラスを一杯飲み干した。この女の人はどうしてあんな酷い人間になってしまったのかと貴方は思ったのだろう。それか、彼女がどうしてあの頃のような微笑みを失ってしまったのかと貴方は写真に尋ねたのかもしれない。



 ———それとも、貴方はもしかして、私のことを思い出すのかしら……。



 貴方はもう一度グラスに赤ワインを注いだ。その思い出が重く貴方の上にのしかかり、貴方の動きを鈍らせていることが、私によく伝わって来る。



 貴方はもう一本の煙草に火をつけようとしたが、それをためらった。その代わり、温もりや安らぎを求めて、リビングのテーブルに置いてある大きなろうそくに火をつけた。そして貴方は床に腰を下ろし、箱を膝に載せ、ろうそくの炎の薄暗い光に照らされた写真を一枚ずつ手にとって眺めた。



 写真を手に取りながら、瞳には常に、私達の過去が鏡のように写っている。



 ———私と違って、貴方にとっては、あの頃から無数の年が過ぎ去っていた……。



 そして、貴方は私が写った写真を手に取った。貴方は息を呑み、手がひどく震えだし、目頭が熱くなる。



 写真には十六歳の私が写っている。その写真は祖父母のところで過ごしたクリスマスの日に撮られたものだった。私はセーター姿で、綺麗に編んだお下げ髪を垂らし、生涯において二度と湛えることのなかった笑顔を浮かべている。



 貴方の目の前に広がっている薄暗い部屋は、ろうそくの炎の仄めきに照らされ、まるであの世と繋がっているかのようだった。ボツボツとクララ・シューマンのロマンツェロ短調の音符が、写真から徐々に貴方の世界に歪んだ波のようにゆらゆらと漏れ出して来る。貴方を囲むろうそくの炎の影は、その歪んだ波のように揺らめく旋律に合わせてゆらゆらと瞬いている。目に見えるものはじんわりと霞んでいる。



 ———この旋律は、私の葬式で、おばあさんが弾いてくれたものだ……。



 クララ・シューマンはこの旋律を夫の死後作曲した。のアドヴェントに感じた淋しさが全てこの曲に漂っている。「夫は私の愛をこの胸から奪い去ったのだ!」と、クララは夫と死に別れた日に日記に書き記した。彼は透明で美しく、穏やかで救済されたような死に顔をしていると彼女は書いた。あらゆる神聖さも、あらゆる痛みや悲しみも、クララのこの音符の中で響いている。まるで私が逝った後の祖母の嘆きのようだ。祖母がこのロマンツェを葬式で弾いたとき、私はかつてクララの夫の魂がそうしたように、祖母の頭の上に漂っていた。その時からずっと、この曲には、貴方にとって、祖母の嘆きが永久に彫り込まれている。そしてこの旋律が貴方の耳に響きだした途端、貴方の目の前の世界が溢れる涙でぼやけていく。



 私の目が貴方に向けられているのを貴方はかすかに感じ取った。貴方は写真から顔を上げ、驚いて涙に抗い瞬きをした。瞬く間に見えるぼやけた世界の中に、ろうそくのちらちらしている炎に照らされた私の姿が、まるでこの世のものであるかのように、貴方の目の前に立っている。透明で穏やかな薄い表情をした私の額に、貴方の昔の思い出の全てが映っているかのようだった。すると、貴方の胸の中で私の声が重く響くのを感じた。



「あなたの胸から愛を奪い去ったのはお母さんや私かじゃない!」

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