第39話 グッドバイ

2018年12月 静岡&東京


真琴は実家の庭で慎也からの電話を出た。


「もしもし」

「真琴?よかった、ようやく繋がった」


慎也の声から焦りと安心が混ぜているように聞こえた。多分、彼は今日久しぶり家に帰ったら、真琴と未希が出て行ったことを初めて知った。だけど、二人は静岡に帰ってきたからすでに五日が経ったのに。慎也はいつもそうなんだ、気付くのが遅すぎるよ、真琴はふと思った。


「さっきから電話したけど、何で出なかったの?」

「ご飯を食べていたから、電話を出れなかった。それに今は未希の寝る時間だし、さっきまで一緒にいた」

「そうか。今はどこ?」

「静岡の実家」

「今は家にいるだけど、さっき…あなたが置いたものを見た。それで直接話したいんだ。明日、そちらへ向かうから、会って話そう」

「こっち来るの?平日なのに?」

「ああ、今はそれどころじゃないだから」


これを聞いた真琴は急に笑い出した。彼女の表情が見えないので、慎也はその反応に困惑していた。


「何で急に笑った?」

「何だかおかしくて、つい」

「何が?」

「慎也が私たちのために仕事を休むって、いつぶりでしょうね。ああ、プロポーズされた日、結婚式の日、そして未希が生まれた日。で、最後は離婚した日か…」


これを聞いた慎也は何を言えなかった。今更だけど、彼は真琴と未希のことを本当に大事にしていなかったので、二人に愛想をつかされるのは当然だった。長い沈黙したまま、慎也は再び話をかけた。


「とにかく、明日会おう」

「じゃ、駅前にあるカフェで待ち合わせする。実家へ来たら困る」


真琴は慎也に両親と会わせたくないようだ。


「ご両親はもう知ってるの?」

「うん、随分前に知らされた。慎也のお母さんと汐里ちゃんにも事情を説明した」


慎也はさらに驚いたのは、真琴が離婚したいことを知らなかったのは当事者である自分だった。いや、もっと正確に言うと、真琴はそういうサインを彼に何度も出したのに、無視していた自分が悪かった。


「それいつの話?」

「明日、ゆっくり話しますから。今はもう遅いし」


「今はもう遅い」という言葉、今になってどうしてももう一つの意味があると考えてしまう。


「分かった。明日10時に会おう」

「じゃ、おやすみなさい」


そう言ったすぐ、真琴は先に電話を切った。いつもなら、先に電話を切るのは慎也だったのに、今はすっかり立場が逆転した。


クリスマスイブは家族団らんの時間のはずなのに、一人ぼっちになった慎也は空っぽになった自宅を見て、苦笑いしかできなかった。



一方、陸翔と晴夏の対峙がまだまだ続いた。


「晴夏…」

「もう私の名前を呼ばないで」

「分かっている、ここ数年俺たちの関係はずっとよくないこと、そして市倉との件でさらに悪化させた。でも、一つだけ言いたいのは、俺はあなた以外の女を好きになったことがない。18年前からずっと、あなたしかいなかった。それだけ信じて欲しい…」

「好きでもない女と平気な顔して旅行できる人と一緒にいられない、例えどんな理由があっても」


陸翔は反論する言葉が見つからなかったのは当然だった。確かに晴夏への気持ちはまだあるとは言え、仕事上の衝突で二人の関係を確かに消耗してきた。市倉と曖昧な関係を維持したのも晴夏への当てつけで、今更晴夏が彼の気持ちを信じるわけがなかった。それでも、陸翔は諦めたくなかった。今となって、彼はようやく実感したのは、目の前にいる晴夏は自分から去って行くで、そしてそれをどうしても耐えられないことだ。


「俺に何をして欲しい?どうしたら、俺を許す?」

「あなたは何も悪くない、一番いけなかったのは私だ。もしあの時、仕事を辞めずにあなたのマネージャーになれなかったら、私たちの関係はここまで悪化しないでしょう。いくら恋人でも、仕事も一緒になったら、意見の食い違いで結局お互いを嫌いになる。だって、あなたもそう思わない?出口が見えない渦に堕ちたように、息苦しくて、そして辛い。これ以上お互いを嫌いにならないために、もう私を解放して」


ここまで言われたら、陸翔はようやく分かった。晴夏が長年の間どれほど苦しくて、それと自分が思った以上に彼女を苦しめた。


「晴夏、もし時間が欲しかったら、しばらく別々…」

「しばらくじゃない、もう全部終わらせたい、完全に」


深いため息をした陸翔は晴夏を見つめて、決意をした。


「分かった。晴夏は俺から離れたいなら、それでいい。しかし、俺はあなたを諦めたわけじゃないから。ちょっと距離を置いて、冷静になろう。お互いにとって、これは一番いいかも」


これを聞いた晴夏は陸翔から目線を逸らした、そして黙り込んでいた。


「今夜はゆっくり休め。おやすみ」


陸翔は晴夏の部屋から出た。その後ろ姿を見た晴夏は小さな声で言った。


「さよなら」



クリスマスの朝、慎也は一番早い新幹線で東京から静岡へ行った。年に一度しかここに来ないが、いつも早くここから離れたいと思っていた。それは真琴のお父さんと会う度に、慎也は全然落ち着かないからだ。


結婚当初と比べて、義父の態度はだいぶ良くなっていたが、それでも慎也はまだ自分が彼に見下していると思い込んでしまった。実際のところ、真琴のお父さんは慎也のことを最初は良く思えないが、年月が過ぎて慎也の頑張りを目にして、彼のことを段々認めていた。しかし、皮肉なことに、ようやく慎也を受け入れた途端、真琴は彼と離婚することを両親に告げた。


慎也は真琴と待ち合わせする予定のカフェへ入り、窓際の席で彼女を待っていた。昨夜は一睡もしてない慎也は、これから真琴と何を話せばいいのか、徹夜で考えていたけど、結局何も浮かべ上がらなかった。


大きすぎるキングサイズベッドの上に一人で寝て、クロゼットの中は自分の服しかない、未希の部屋にあるぬいぐるみ、人形や本がすべて消えて、そして空気が流れる音が聞こえる静かすぎる家。慎也にとって、このすべては自分の失敗を想起させたものだった。仕事がどんなに出来ても、彼はその代わりに家族を失った代償を払った。今になって、もう取り返しのつかないなのか、それでも真琴からもう一度チャンスをくれるか、慎也は確信がなかった。


待ち合わせ時間の5分前、真琴はカフェへ歩いていた。でも、一週間前の真琴とはちょっと違っていた。真琴の髪は前に肩より長く、少しウェーブが入っていた。しかし、今の真琴は長い髪をバッサリ切って、大学生時代のショートボブになった。いつも柔らかい雰囲気の女性らしいワンピースが着たが、今日の真琴はカジュアル系の黒ニートとジーンズを着ていた。髪型と服装を変えただけで、彼女の雰囲気はすっかり別人になった気がする。


真琴は慎也の前に座り、店員さんに紅茶を頼んだ。


「朝はいつもコーヒーじゃないの?」

「私はコーヒーよりお茶が好きなの」

「じゃ、毎日一緒に…」

「あなたが飲みたかったから、合わせただけ」


今になって、慎也は初めて知った。自分はいったい真琴の何かを知っていたんだろう。彼女はいつも自分に合わせて生きて来たのに、一度も文句を言わず、常に自分のことを一番重視してきた。慎也は自分がどれほど情けない人間だって気づいた。


紅茶が運ばれて、真琴はそれを啜りながら、慎也を見ずに外の景色を眺めていた。


「あなたと未希はいつからここに?」

「離婚届を出した後の二日後」

「その理由は何だ?」

「あなたは私たちを必要ない、それに私たちもあなたを必要ない」

「俺は一度もそんなことを言ってない」

「言われなくても、あなたの行動からもう分かった」

「俺は必死に仕事するのはあなたたちのためだ、それぐらい分かっただろう?」


真琴はそれを聞いて、また昨日みたいに笑った。


「最初はそうかもしれないけど、いつの間にかその初心はもう変わってしまった。分かっていたよ、あなたは私の父に見下されたと感じて、だから必死に仕事を通じて自分の実力を証明したかった。すごく偉い弁護士さんになりたい、事務所のパートナーにもなりたい、そして沢山の金を稼ぎたい。あなたの気持ちは分かるけど、それって私と未希が望んでいないものでしょう。いつも不在の夫と父はどんどん偉くなって、それと同時に私たちはあなたにとってどんな存在なのか段々分からなくなった。私たちの関係を修復しようとしたけど、結局こっちがどんなに頑張っても、あなたは応じるどころか、私たちを避けてきた。だから、名義上の夫とずっとこのまま一緒にいることを諦め、私は正真正銘のシングルマザーになることを決めた」

「真琴の考えはよく分かったけど、でも本当に離婚する前に話し合うべきじゃないだろう?」

「あなたはそれからも逃げたことを忘れたの? あなたは仕事を口実をして、私たちを避けて向き合おうともしない。最後の最後まで、あなたは私との会話をまた拒否したし、だから事務所まで行って、直接あなたに離婚届を書かせた」

「未希のことを考えてよ、俺たちが離婚したら…」

「未希のためにやったことです」

「それって…」

「未希が学校でケガをした時、あなたは一度もお見舞いに来なった。陸翔みたいな無血縁、そしてマスコミに監視された人でさえ、わざわざ病院まで来た。実の娘に無関心の君と比べて大違い。そして、あなたの存在は未希にとって良くない影響を与えたことが気づいた。ただ11歳の未希はてっきり自分が父親に嫌われると思い、だからあなたが家にいた時、彼女はあなたの機嫌を損ねることを恐れて、いつも何も喋らなかった。ケガした時だって、あなたが見舞いに来ないことは自分の責任だと感じてた。私は、自分の娘に同じ思いをさせたくない。彼女は私と私の家族にとってどれほど大事な存在なのに、父親に愛されなかったせいで自分を責め続けることを許さないです。だから、私は決心をした」

「俺はそれを知らなかった」

「あなたは知ろうとしないだから、それは当然でしょう? でも、私たちの関係が壊れた責任は私にもあった。もし私はあなたにすべてを合わせようとせず、ちゃんと自分の意見や気持ちを伝えていたら、この状況は変わるかもしれない。でも、今更になって、こんなことを考えてもしょうがない」

「真琴、もうすべては分かった。でも、俺に最後のチャンスをください。この12年間できなかったことをもう一度させてください」

「慎也、私たちはやっぱりこのまま終わった方がお互いのためだと思う。あなたは自分が思うように生きればいい。私たちはここで新たなスタートをしたい。もちろん、未希と面会したいなら、私は阻止しない、でも決定権はあくまでも未希にある。でも、今は引っ越したばかりなので、未希の気持ちはまだ落ちついてないから、もうちょっと彼女を待っていた方がいい。そしてあなたとのことはもうおしまい、戻るつもりは一切ないから」


真琴から言われた言葉の一つ一つじは慎也の心に強くダメージを与えた、そして今の状況は絶望的だと実感した。



クリスマスイブに会って以来、陸翔と晴夏の連絡は途絶えた。今更彼女に何も言えなかったし、言っても晴夏は聞きたくないと思った。しかし、陸翔は知らないのは、クリスマスの次の日、晴夏は正式に事務所から辞めて、その日のうちに静岡へ帰った。


年明けから、陸翔は新しい作品の撮影が始まる前に、事務所でスタッフと会議をした。それが終わったら、事務員の一人は陸翔の元へ来て、ある封筒を渡した。


「陸翔さん、これは晴夏さんが残してしまったものです。彼女のオフィスを片付けた時見つけたの、これを渡してくれませんか?」

「オフィスを片付けって、どういうこと?」

「ええ、知らないですか?クリスマス当日、ここで晴夏さんの送別会をやったこと」

「その日に会社を辞めたってこと?」

「そうですよ。陸翔がそれに来なかったのは撮影のためだと思っていたが、まさか知らなかったとはね…」

「分かった。これを晴夏に渡すから」

「ではよろしくお願いします。」


陸翔は背筋が凍りついた、まさか晴夏は本当に何も告げずにこのまま去っていった。渡された封筒を見て、さらなる衝撃を受けた。これは病院の名前が印刷された封筒だ。晴夏の具合が悪いか?それともどこでケガをしたか?震えた手でその封筒にあるものを取り出して、内容を確認した。


中に入ったのは領収書だった。そこに晴夏の名前が入っていたが、一体どこが悪いか記されていなかった。しかし、その詳細に入院費用の項目があって、そして入院した日付も書かれていた。その日は晴夏が陸翔へ何度も電話をした日、そして彼はその日市倉と沖縄で旅行していた。


この瞬間、陸翔はすべてを分かった。晴夏は大変だった時、自分へ助けを求めていたが、自分は他の女と一緒にいたので、電話を出れなかった。そして、沖縄から帰ってきても、晴夏のことを気にかけてくれなかった。


だから、彼女は自分に失望した。だから彼女は別れたかった。だから彼女は何を言わずに去って行った。


そう考えると、陸翔は自分の心が誰かに絞められたように、すごく痛かった。晴夏の気持ちを考えると、陸翔がようやく気付いたのは、二人はもう一緒にいられないこと。

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