第30話 かくれんぼ
晴夏はタクシーに乗って、3日ぶりに初めて携帯の電源を入れた。
そしたら、留守電とメールが入るの通知はどんどん入ってくる状態になった。幸い携帯はマナーモードになっていて、晴夏は振動が収まるまで画面を見ずに、ただ外の風景を眺めていた。
しばらくしたら、携帯の振動は収まった。画面を確認したら、メール100件以上と留守電50件以上があって、その大多数は仕事関連のものだった。しかし、その中に一人の名前が目立っていた。
「桧垣陸翔」
メール35件、留守電20件。携帯の電源を切ったのはただ60数時間しかないのに。
ため息をした晴夏は、陸翔の着信とメールを確認する気はなかった。連絡帳からある電話番号をかけて、そして電話の向こうにある相手と待ち合わせの時間と場所を確認した。
晴夏は待ち合わせ場所になったフェに到着し、窓際のテーブルに案内してもらった。注文した後、携帯をいじっていた間、外から慌てて駆け付けた男は晴夏を見つかり、彼女の向こうにある席に座った。
「あのな、携帯の電源を切るなよ、こっちは大変なことになっただから。」
「休暇中は仕事しないから、電源を切るのは当たり前でしょう。」
「あのわがまま坊ちゃんが暴れていたよ。」
これを聞いた晴夏は笑った。
「そんなに面白いの?」
「想像だけで面白いから。」
「あんたはもうすぐ解放されるから、うちはまだまだ坊ちゃんと仕事しなければならないだ。なあ、辞表を取り戻したらいいじゃないか?」
「社長、私たちの約束では、この年末正式退社するになりますから。約束を破らないでください。」
「そのつもりはないが、やっぱり考え直した方が…」
「却下。」
「本当に俺たちを見捨てる気?」
「後継者をちゃんと育てましたから、大丈夫。そして、坊ちゃんはもういい大人だし、プロとしての自覚ぐらいはあります。」
「あなたは彼の鎮静剤みたいのもんだよ、いないと大変なことになる。この3日間だって、あいつは落ち着かないだし。」
「彼は私がいなくてもちゃんと生きていられます。」
こう言った晴夏は本当にそう思った。桧垣陸翔は自分がいなくても、死なないしちゃんと生きていられます。
晴夏と話をしていたのは陸翔が所属する芸能事務所の社長だった。昔は同じ事務所で新人のスカウトを務めていたが、その後順調に昇進を重ね、今は晴れて社長になった。陸翔は大学一年生の時、演劇部の舞台を見に来て、彼をオーディションに誘い、俳優デビューのオファーをしてくれた恩人だった。
晴夏は大学卒業後、出版社に就職できて、念願の編集者の仕事をしていた。しかし、陸翔は二人が20代半ばの時、マネージャーになって欲しいと言い出して、晴夏はその後この事務所に入り、彼の専属マネージャーになった。あれからはもう10年以上経った。
今年の夏、晴夏は社長に会社から辞めたいと初めて言い出した。自分がもっとやりたいことがあったから、マネージャーの仕事を辞めたかった。長年同じ事務所にいた晴夏はすでにチーフマネージャーになって、そして陸翔一人の担当しなくなった。最近の数年は、他のマネージャーの育成がメインで、陸翔と現場へ行くこともなくなり、顔合わせの機会も減った。陸翔との関係がギクシャクになったので、この状況は晴夏にとってむしろ好都合だった。
しかし、最も肝心な理由は陸翔と別れたいことだ。晴夏は陸翔と仕事上の関係も、プライベートの関係も終わらせたかった。社長は晴夏を引き留めたが、彼女の意思は固かった。だけど、この話は事前に陸翔にバレたら面倒なことになるので、二人は水面下でいろいろ準備してきた。
そして、晴夏は正式事務所から離れる日が迫って来た。
社長と30分ほど話して、年末まで事務所に顔を出すことを約束した。わざわざこのカフェで待ち合わせしたのは、陸翔と会いたくなかったからだ。ここは事務所から歩けば15分程度の距離もあって、晴夏は一人で息抜きをしたい時はいつもここに来る。陸翔はこの場所を知らないので、絶対顔合わせることはなかった。
家へ帰る途中、電話がまた鳴った。陸翔の名前を見た晴夏は躊躇なく携帯をカバンに入れた。しかし、今日の陸翔はなぜか粘り強く何度も掛け直したので、携帯の振動はずっと続いた。
ようやく住んでいるビルの前に着いた時、変装もせず堂々とそこに立っていたのは陸翔だった。平日の昼下がりに、人気俳優がこんな住宅地にいたなんて、周りの人は思わず彼のことを二度見をして、コソコソ話していた。しかし、当の本人はそんな目線を構わず、携帯の画面を集中していた。
さすがにこんな状況はまずいだと思い、晴夏は陸翔からの電話を出た。
「ようやく出たな。」
「無神経にもほどがある。そこで姿をさらすなんて非常識でしょう。週刊誌に載る気?」
「あんたが電話を出ないから、待ち伏せしかできなかった。どこにいる?」
「マンションの裏口で会おう。」
これを聞いた陸翔は満足そうに裏口へ向かった。そこに晴夏はすでに待っていた。彼女の後ろについて、無言のまま彼女の部屋へ行った。晴夏は去年の秋ごろ、いきなりここへ引っ越したいと言い出して、陸翔はここに入るのが初めてだった。ここは二人が一緒に住んでいたマンションより小さな1LDKだけど、一人暮らしでは十分だ。
陸翔は興味津々で家の中を見渡した。それにしても、この家に晴夏のものがあまりにも少なかった。晴夏は読書好きだけど、このマンションでは本棚どころか、本すら見当たらなかった。生活感がない上、なんかいつもの晴夏のスタイルじゃなかった。晴夏は上着を脱いで、自分の荷物を部屋まで持った。
「どうした、そのスーツケース?旅行でもしたか?」
「どうして家まで来た?」
晴夏は陸翔の質問を答える気がなかった。そして、彼女のトーンから明らかに不機嫌だった。
「人に質問する前に、自分から答えするって礼儀じゃないか。」
「人の家の前に押しかけて来たあなたに言われたくない。」
このままだと、二人はまた喧嘩になるから、やっぱり自分の話し方を変えた方がいい。陸翔は息を吐いて、また晴夏に話をかけた。
「俺は心配したんだ。電話が繋がらないから、しかも三日連続。誰に聞いてもあなたの居場所は分からないって。真琴に電話もしたが、彼女も出なくて。だから家まで来た。」
「御覧の通り、まだ生きてます。もう生存確認できたから、帰ってもいいですか?」
「この前は悪かった。俺が言い過ぎたかもしれないが、1か月以上口を利かないってひどくないか?」
「あなたは悪くないよ、すべて私が悪い。それでいいの?」
嫌味たっぷりの言い方だ。それは当然だろう、だって二人は先月陸翔の誕生日当日に大喧嘩したから、晴夏は今だに怒っていた。あの時、自分が言い過ぎたことは認めるだけど、一か月以上も経ったのに、まだ怒りが収まっていないなんて、内心では大げさだと思った。
「晴夏、もう怒らないでよ。悪かった、俺はあんなことを言うべきじゃなかった。もう許して。」
「許して欲しいことをしていないでしょう?だから、こういうことを言わなくていい。」
「じゃ、俺にどうして欲しいと言うの?」
「私は今疲れている、だからあなたが今すぐ帰ったら助かります。そして、もう二度と変装もせず、外で歩き回ることをしないで欲しい。特にうちの前まで来ないで欲しい。」
「じゃどうしろと言うんだ?あなたと連絡取れなくて、ここへ来るしかなかった。やっと会えたのに、あなたの態度はこれ。俺の気持ちはどうだったか知らないの?」
「逆に聞きますけど、同じようなことされた私の気持ちを今になって分かってますか?くれんぼをしている気分でしょう?どう探しても見つからない、そしてようやく見つけた時あんな言葉を投げられた。」
「だから、俺は今謝っているだろう。」
「もういいよ。何度も同じことを繰り返して、あなただって疲れるでしょう?」
「また別れ話?いい加減、毎回喧嘩する度にこんなことを。」
「じゃ最後にして。」
「晴夏…」
「帰ってください。」
「勝手にしろ!」
そう言った陸翔は晴夏の家を出て、すごい勢いでドアを閉めた。ようやく一人になれた晴夏は無力感に襲われ、そのまま床に座り込んだ。
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