さくらのはやしの 満開のした

@kooshy30

さくらのはやしの 満開のした


 “彼のひとの うせにし時を しい問われ さくらのはやしの 満開のした”


 さて。右の歌は、深大寺の叔父が亡くなった後、時期は不明だが、残された叔母が書いたものだ、と聞いた。


「私は無趣味だから」が口癖だった叔母からは想像し難い、なかなかに味わいのある佳い歌だ、と思う。思うのだが、どうしても見過ごせない、悩ましい点がひとつだけある。


 それは、叔父が亡くなったのが、十二年前の十一月三日、秋も十分に深まった、月曜の朝早くだった、と云う点である。


 もちろん、この点についての説明は出来る。出来るような気はする。が、しかし、果たしてそれを、他の人に理解して貰えるかと云うと、それはまた別な話だ、とも思う。


 だから、と言うわけでもないのだが、他に書く人もいないだろうし、今日は、この叔父と叔母のことについて、もちろん息子さんたちの了解を得た上で、書いておこうと思う。


 つまり、私が今日試みるのは、相も変らず、やってみないと成功するかどうかも分からない、そんな企てなのである。


     *


 植物公園沿いの細い路地を曲がってすぐ、日当たりの良いその道の間に、深大寺の叔父と叔母の暮らしはあった。


 町内でも評判の鍼灸院であったその二階家には、一階の半分に施術室が、残りの半分に台所とお風呂場、それに小さな客間が入れられていた。


 二階に上がると、先ずは子供たちの部屋があり、その隣に夫婦の寝室も兼ねた家族の居間、そうして、その奥の四畳半が叔父の書斎となっていた。


 この書斎には、彼が鍼灸師になった頃に手に入れたと云う、粗末な桐の小机が、ただ、ぽつんと置かれていた。


 叔父が三十五才、叔母が二十七才の時に二人は結婚。「惚れるのは、もう少し後」とは、叔母のよく言う冗談だったが、翌年には長男を出産。二人の子どもを育て上げ、長男の伯春さんは建築士に、次男の春仲さんは鍼灸師になって、店を継いでいる。


 夫婦仲は良好。辛辣・毒舌を旨とする彼の姉――つまりは、私の母をして「温厚篤実を絵に描いたような」と言わしめる叔母の性格もあってか、叔父が亡くなるまでの四十数年間、ケンカらしいケンカは皆無だったと言う。


 結婚後、数年して独立。この地で開業したが、初めは患者も少なく、訪問診療をよそおった叔父が、診察鞄片手に植物公園の奥へ消えて行く様子も、よく見られたという。『神代先生神隠し』と、近所の噂にもなったらしいが、情報源は母だけなので、話半分に受け取って貰えれば良いだろう。母はその当時からずっと、西葛西に住んでいるのである。


        *


 西葛西から深大寺の町までは二時間程度。私と春仲さんの年が近いこともあり、春夏の休みにはよく遊びに行っていた。


 東西線と中央線を乗り継いで吉祥寺へ。吉祥寺でバスに乗り換え、叔父が待つ停留所まで二十・三十分と云うところ。叔父の散歩も兼ねて、木花姫にお詣りをしてから、叔母の待つ家へと帰るのが定番だった。


 ちなみに、叔父の散歩コースは多岐に渡っており、植物公園はもちろん、深大寺の城址や自然広場の裏道・抜け道・脇道もよく知っていたようで、ある時、水生植物園の辺りで、春仲さんとはぐれた私が道に迷っていると、目の前の林の奥から、叔父が突然に現れたこともあった。『神隠し』時代の名残りかと私が問うと、叔父は笑って答えなかった。


 中学・高校時代は、私の部活やバイトが忙しくなったこともあり、深大寺に向かう機会もすっかり減っていたが、大学に入ると、武蔵野台で一人暮らしをすることになり、今度は逆に、叔父・叔母の鍼灸院へ頻繁にお邪魔するようになっていた。


 伯春さんは保土ヶ谷に移り、春仲さんは上井草で「年季が明けるまでは帰れない」状態だったそうで、お二人も寂しかったのだろう、本当の娘のように接してくれた。


 散歩以外の叔父の趣味を知ったのは、この大学時代。古典の昧読と和歌の書写であった。


 叔母曰く「ずっと以前からの趣味」とのことだったが、こちらの年齢が追い付いたために気付けたのだろうか、ある時、叔父の書斎で、『源氏物語』の注釈本と、叔父が書写した和歌のノートを見付け、そのことを知った。


 その時見付けたノートの大半、全てと言って良いかも知れないが、そこには古今東西・出来不出来も様々な、桜についての和歌が書写されていた。



 “去年の春 逢へりし君に 恋ひにてし 桜の花は 迎へけらしも”   若宮年魚麿


 “山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にくられぬ 花をこそ見め”   本居宣長


 “あらしやは 咲くより散らす 桜花 すぐるつらさは 日数なりけり”  藤原定家


 “世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし”    在原業平


 “今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求めえつれば” 本居宣長



 試みに、その時私の目に止まったものを、想い出しつつ右に上げてみた。


 宣長の、それほど名歌とは言い難い歌が入っているのが如何にも叔父らしい。率直な心を、そのまま歌にしたものを好んだのだろうし、若宮の歌などは、叔母のことを想う叔父の姿がそのまま重なるようで、とても好ましく――当時の私には――思えた。


        *


 そんな叔父が、ある山寺に墓所を買い求めたのは、亡くなる二年前のこと。叔母にも、春仲さんにも、一言の相談もなく、ある日突然、決めて帰って来たのだと言う。


 深大寺の墓所が手に入らなかったわけではない。鍼灸院に通う石屋店主の伝手があった。にも関らず、家の近所にではなく、少し離れたその山寺に、自身の墓所を求めたのである。


 私はその頃、すでに北習志野に移っていて、通夜の席で初めて、伯春さんから事の顛末を聞かされた。そうして、私はもちろんのこと、その場にいた誰ひとりとして、墓所に関する叔父の意図を、報されたものはいなかったそうである。


        *


 それから、謎は謎のまま、数年が過ぎ、今度は春がやって来た。


 別件の用で武蔵野台まで出掛けた私は、その帰途、ふと思い立ったように、調布の駅を降り、何の用意もないまま、叔父の墓へと向った。


 これまでの墓参では気付けなかったが、叔父が選んだその場所、墓地の外れ、言ってみれば一人静かに眠られるその場所に、若いが、花のよく咲いた山桜の林はあった。風はまだ冷たかったが、その細木の花たちは、あかく照った葉の隙間から、まばらだが、確かに、満開の色を滲ませていて、私は――本当に自分が情けないが――この満開の桜林をカメラに収めると『叔父さんは、この花を、私たちに見せたかったのではないでしょうか?』との文章とともに、叔母に送った。


        *


 その後、墓参を終え、そのまま深大寺に向った。


 お店のシャッターが降りていて、叔母が電話に出る気配もない。


 裏庭から物音がした。


 若干の後ろめたさは感じたものの、子ども時代からの気安さもあり、勝手に裏に廻った。


 叔母が居た。


 手に小さなナタを持っていた。


 焚火をしているようだ。


「叔母さん」と声を掛けてから私は動けなくなった。


 燃やされていたのは、叔父の小机だった。


「あら、やっちゃん」『温厚篤実を絵に描いたような』笑顔で叔母がこちらを向いた。


「お休み、なんですか?」自分の声がぎこちなかった。


「春仲が研修で、大平さんも具合が悪くて」そう言って、叔母は新たな薪をくべた。


 彼女の足元に叔父のノートがあった。


「あの、」まだ、自分の声がぎこちなかった。


「あのね、やっちゃん」私の声を遮るように叔母が言った。


「あなた、勘違いしてるわ」ノートが拾われ、破かれた。


「あの人は、本当は、自分が愛しているものにしか興味がないの」叔母は意識して、そこに書かれた文字を見ないようにしていた。


「あの人を分かろうとしても、あの人は、それを決して許そうとしなかったの」


        *


 あの日、叔母はそれ以上何も言わず、私も、それ以上何も聞けなかった。


 叔父が愛していたものが何か?それをはっきりと書くことは、私の常識が許してくれない。


 しかし、叔母にははっきりと分かっていたのだろうし、だからこそ、私の送った写真を見て、叔父の机とノートを燃やしてしまったのだろう。


 確かに叔母は叔父を愛していたし、でなければ、叔父の愛していたものが何か?理解などは出来ない。


        *


 それからまた七年が経って、今度は叔母の葬儀が開かれた。冒頭の歌は、その際に、春仲さんから見せて頂いたものだ。


 今日、改めて見ても、なかなかに味わいのある佳い歌だ、と思う。


 思うのだが、ここまで長々書いて来た通り、私には、どうしても、後悔の念の方が強く出て来てしまう歌なのである。



(了)

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