後編

     *


 オスによる子殺しが性選択理論で説明出来ると云う考え方は、その後、特にそれまでの社会生態モデルの欠陥を補う根拠として、広く利用されるようになった。


 と云うのも、それまで葉食・草食の霊長類のメス達が纏まりの良い集団を作る理由については『捕食される危険を逃れるため』としか考えられて来なかったのであるが、その理由だけでは『何故、彼女たちの集団に常にオスがいるのか?』と云う疑問に答える事が出来なかったからである。


 繁殖の為だけであれば、常にオスを抱え込んでおく必要はない。


 が、しかし、オスによる子殺しの危険があるとすれば話は変わる。集団外のオスによる子殺しから乳児を守るためには、集団内に、有力なオスを常駐させておく必要があるからである。


     *


 神社からのざわめきは未だ続いていた。


「『足りない』とは、どう云う意味ですか?」


 老婆の言葉が聴き取り辛くなった事に苛立ちながら、私は尋ねた。


「そんなもん、分かるでしょうに。『どうにかする』んですよ。捕えて何かしてもエエし、捕えずに何処かへやってもエエ……ただ、まあ、それでも、そんなこと考える男の人は、単純なひと、若いひとたちばかりでしたから、結局、『どうにかする』んは、いつもの通り、女の人らあでしたけどねえ。旦那や、子どもを、ひどい目に会わされた人は、まあ、ぎょうさん居りましたからのお」


 冷たい風が吹いた。


 私は、右手に抱え込んでいた背広を羽織ろうとして、その左の内ポケットから、件のメモが落ちて行くのに気付いた。


「信じてもらえんかも知れんけれど、彼女らあは、みんなで、あの女を捕まえ、車に載せ、町外れの――昔は『忌み小屋』って言われとった――小さな小屋に、あの女を閉じ込めたんよ。ほいで、ひどい目に会わされた人たち。あの女に、ひどい目に会わされた人たち。その人たちを呼んで、来させて、中には、ほら、私みたいな年寄りや私の孫みたいな子どもらあも呼んでねえ、みんなに、鋏やら針やら、好きなものを持たせて、小屋に来るように言うたわけよ」


 再び、冷たい風が吹いた。


 地面に落ちたメモが飛ばされそうになった。


 私は、右の爪先で、そのメモが飛ばされないよう、軽く踏んだ。


「一番最初は、左の手の人差し指の爪の間。針が刺された。次がその手の甲。皮を少し剝いだ。左足の親指。爪が割られた。右足首。金槌が振り降ろされた。左手の親指。右の膝。内太腿。左の頬の皮。だんだん、だんだん、だんだん、場所が増えて、やり方が増えた。「少しだけ」と始めたもんが、その「少し」がどんどんどんどんと増えた。

 あの女も、初めの方は我慢出来とる風やった。けど、声は出されんし、眠ろうとすると痛みが来る。体は動かせれんけれど、頭が働くんも止められん――で、まあ、最後の方には、そういう細切れの痛みに耐え切れんようになったんじゃろうねえ、あの女、裁判を開くよう言い出した」


 拾い上げたメモの筆跡を確かめようとして意識が離れていたのだろう、老婆の言葉の意味を量りかねた私は、思わず彼女に聞き返していた。


「裁判?」


「それぞれの人に与えた痛みを、それぞれの人から返されとったら、そりゃあ、とてもじゃなあけど、体も心も保たんでしょう。裁判なら、裁判の判決なら、一つですもんね」


「しかし、それは、」


 と、私は言い掛けたが、その時、石段の下から女たちの話し声が聞こえ、私はその口を噤んだ。


 頭巾に隠れて見えるはずのない老婆の口元が笑っているように感じた。


「しかし、それは、あまりにも女に不利ではありませんか?」


 女たちが鳥居の向こうに消えて行くのを確かめてから、私は続けた。


「周りは、言わば、女の敵ばかりなのでしょう?」


「あんた、何処の人?」


 老婆が初めて、その顔を私の方に上げた。光の加減だろうか?頭巾の奥には暗闇が拡がっている。


「この土地の人間じゃあないんは、着とるもんとか、話し方から分かるんじゃけど」


 私は、素直に、自分の現住所を、老婆に教えた。


「ほいじゃあ、よう分からんかも知れませんけどねえ。そっちの人らあは、世の中、自分と同じような人間ばかりで出来とると思い勝ちでしょうけれども、でも、あんた、岸の向うとこっちとでも、原爆が落とされた所と、原爆が落とされんかった所とでは、其処に住む人らあの生活も、考え方も、感じ方も、なんもかんも、変わるはずでしょう?それに、広島に落ちた原爆が、そっちの人の生き死にに影響する事もあれば、そっちの人のちょっとした振る舞いが、何処かの国の、たくさんの人が殺されるような『何か』に影響するっちゅう事も、無いとは言い切れませんよねえ?」


 ここで今度は、神社から出て来る子ども達のために、またもや、老婆の話は中断された。


「無いとは言い切れん」老婆が繰り返した。


「ここの人らあも、どんどんどんどん増えていく黒いもんに耐えられんようになっとったんかも知れん」


 石段を駆け降りる子ども達の (嬉しそうな?)歓声が、遠く聞こえた。


「一度の裁判で復讐が済むんなら、それがええと思ったのかも知れん」


     *


 だが、ここで一つ疑問が残る。


『オスによる子殺しを、メスたちは止められないのか?』捕食される危険を減らすための集団を形成出来るのならば、オスによる子殺しも、集団の力で止められるのではないか?


 が、しかし例えば、これまで観察されたハヌマンラングールの群れでは、メスは、乳児への攻撃を仕掛けて来るオスに対し、赤ん坊を殺されまいと単独での抵抗はするものの、メス達で協力し合って赤ん坊を守ると云うような行動は取っていなかった。個体としてのメス自身を守るためであろうと推測はされるし、だからこそ、有力なオスの常駐が必要となって来るとも言えるわけだが、彼女たちの真意――そんな物があればだが――については、実際のところ、よく分ってはいない。


     *


「しかし、それでも」と、私は言った。


「しかし、それでも、私には理解出来ません。一体、誰が女を裁くのですか?誰がその裁判を取り仕切るのですか?」


「それは、籤で決めた」


 事もなげに、しかし真実それ以外に方法はなかったとでも云うように、老婆は言った。


「裁判の長は、女が持っとった鞄、それに石を入れて、その石の中から、たった一つ入れた黒の石を取ったもんがすることになった」


「女は?認めたんですか?」私は聞いた。


「もちろん、認めた」老婆が答えた。


「おそらく、こう考えたんじゃろう。仮に自分が許された場合、ここに一度でも来た人間は危険に曝される。だから、大勢に聞けば、その大勢は必ず『殺す』と言うはずじゃ。

 しかし、決めるのが一人なら?――誰でもええ、籤でもなんでもええ、そこで選ばれた一人、その一人だけを説き伏せれさえすれば、殺されなくて済む、と」


 ここで老婆は沈黙した。心の何処かに、何がしか引っかかるモノでもあったのだろう。しかし私は、その沈黙に耐え切れず、その先を急ぐよう、彼女を促した。


「そうして、ある若い女が、黒を引いた。あの女はその若い女のことを知らんかったし、若い女も、自分がどこの誰かは言わなんだ。裁判が始まった。朝も昼も夜も、代わる代わる、何人、何十人もの証人が呼ばれた。女は、それぞれの証言に対し、一つ一つ、その若い女の目をじっと見詰めながら、丁寧に、言うてみれば真摯に、弁解をした。しかし、どうせ嘘だと云うことは、皆分かっていた」


 ここで今度は、何人かの男たちが神社から出て来て、再び、老婆は沈黙した。


 彼らは、私と老婆の間を通り過ぎて行ったが、誰一人として、我々の存在を認めようとはしなかった。


 彼らから酒等の匂いはしなかったが、皆が皆、どの顔もどの声も、ひどく興奮しているように見えた。


 そうして、その内の一人が、通りすがりに、


「俺は、右が良いって、言ったんだ。

 俺は、右が良いって、言ったんだ。」


 と、呟いているのが聞こえた。


     *


 話は少し変わるが、他の霊長類の中でも、チンパンジーの子殺しには異様な特徴がある。


 それは、殺した子どもを群れの皆で食べる――文学的な表現が許されるならば『分かち合う』と云う点である。


 その光景は、獲物の肉を食べる――『分かち合う』時と酷似していて、オスもメスも、殺された子どもの肉に殺到し、分配を求めるのである。


 ある意味、文化人類学における食人俗を思い出させる光景ではあるが、この異様な興奮が、肉食という習性のためなのか、それとも別に要因があるのかは、これもまた、実際のところは、未だよく分っていない。


     *


「どうせ嘘だと云うことは、皆分かっていた」


 男たちが消えるのを待ってから、老婆はそう繰り返し、話を続けた。


「結果が出た。若い女は、先ず、他の女たちに、あの女の手と足を切るように言った。それから、女たちが道具の準備を始めるのを見届けてから、子どもたちに、あの女の眼を抜き、耳を焼くように言った。子ども達の道具は、男たちが揃えることになった。また、残った男たちには、手足を切り取られたあの女を入れておくための、小さな箱を作るように言った。そうして最後に、ある年寄りに、昔の伝手を使って、あの女の口が利けなくなる薬を持って来るように言った」


 老婆のくすんだ眼が、見えない頭巾の向こう側で、再び、ニヤリと笑った――ような気がした。


「年寄りが、あの会社から、薬を持って来た。

 あの女は、躊躇ことなく、その薬を飲んだ。

 引き抜かれるまえの眼で、年寄りを見詰た。

 睨むでも、憐みを乞うでもない、眼だった。

 そう云う、ある種のいさぎよさ、があった。

 あの女の、数少ない美徳のよう、に思えた。」


 まるで、今し方見て来たかのような物言いで老婆が言った。


「今の話は、いつ起こったことですか?」と、私は訊いた。


「あんたが訊きたいんは『どこ?』じゃないんね?」老婆が訊き返した。


「知っているんですか?」


 夕闇が増して来ていた。くすんだ老婆の眼はいよいよと見えなくなり、御高祖頭巾の中の暗闇が周囲に拡がって行く。


「知るわけがない」と、苛立ちとも諦めとも付かぬ口調で老婆が言った。


「ずうっと昔、誰も詳しいことを覚えていないずうっと昔のこと、『いつ?』も『どこ?』も『だれ?』も、誰もよう知らん。ただ、この土地か、この土地と変わりのない別の土地か、あの家か、あの家と変わりのない別の家か、どの土地か、どの土地とも変わりのない別の土地か、それぞれが異なることなぞ何処にも何もない。わしが知っとることと言えば、ただただ『この世は地獄』っちゅうことくらいじゃ」


 ここまで言うと、不意に老婆は立ち上がった。神社から最後の歓声が聞こえた。人々のどよめきとざわめきが鳥居の方に押し寄せて来る。祭りは終わったのだ。気付くと、老婆はいなくなっていた――いや、人々のどよめきとざわめきの中に沈んで行ったのかも知れない。


 人々のどよめきとざわめきは、何時しか祈りと歌声に変わり、町の中へと消えて行った。私は一人取り残された。神社から若い女の啜り泣きが聞こえた。右手に、小さな、槍状の刃の付いた道具を持っていた。刃は、血で汚れていた。彼女は、夫と息子を奪われていた。傍らに、作られて日の浅い、小さな箱が置かれていた。微かなうめき声が聞こえた。


     *


 出井は (或いは彼にこの話を聞かせた人物は)、その箱を開けると、近くに置かれていた所持品等から、その塊が、御園生喬子であることを理解し、その後数時間の記憶を失くしたのだと言う。 



(了)

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まつりのあと。 @kooshy30

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