まつりのあと。

@kooshy30

前編

     *


 ハヌマンラングール (霊長目オナガザル科)のオスによる子殺しが発見・報告されたのは一九六五年のことであるが、この行動が自然に起きたものであることは長い間認められて来なかった。


 と云うのも、種の保存の観点から考えると、同種の仲間を殺すという行為は、自然淘汰の原則に反すると考えられたからである。


     *


 成都帰りの平井が、その晩私達に見せた土産は、杵形の把の両端に槍状の刃が付けられた仏具であったが、これが少々変わった代物で、把の部分に通常見られるような装飾がなく、代わりに、上下の刃の片方がもう片方のそれより二倍ほど長かった。


「何かの武器のようだな」と私が言うと、同席していた旧友で軍医でもあった出井が、これは本来インド神話に登場する神が起こす雷電を模した法具・法器であることを教えてくれた。


 そうして彼は、酔余の勢いもあったのだろう、この一風変わった土産物から連想するように、十数年前の――彼が未だ日本中を飛び廻っていた頃の、日本の或る地方で見聞きした (又は体験した)物語を聞かせてくれた。


 酒のせいか仏具のせいか、彼の話は断片が断片を呼ぶ形態のものであり、話頭は転々として奇を究め、要約することが困難な内容であったが、その幾つにも分れた断片を拾い集め、切り貼りしつつ、以下の物語をご披露出来ればと思う。


 ただ、右のような成り立ちをしたテキストであり、事実には即しているものの、その詳細に関する瑕疵や私の手によるちょっとした誇張、様々な文献からの引用・借用が見られる事については、どうかご容赦頂きたい。


 また、出井を含めた生存者らの希望もあり、人名その他の固有名については、変更を加えている事を合わせてお伝えしておきたい。


 もちろん、事件のその他の部分に関しては、死者達への弔いの意味もあり、出来得る限り忠実な再現を試みている。


     *


 この物語の舞台を正確にお伝えすることは出来ないし、舞台を正確にする事自体にさしたる意味もない。そもそも、例えば東京で、例えば呉と岩国の違いを述べたとして理解して貰えるとも思えない。


 なのでここでは、西日本の何処か――とだけ言っておけば、事は十分に足りるであろう。


 それよりも、何より重要な点は、某大手製薬会社が (或いは某大手自動車メーカーが)、大幅な工期遅れが懸念される新工場建設において、その地域の政治的・経済的統合も視野に置いた上で、彼らにとって有力な人物をその地に派遣した――と言う部分であろう。


 この人物は、母方の祖父母こそ近隣地域の出身であったものの、父母及びその当人は首都圏の生まれ育ちであり、この地域では結局、最後まで、余所者として扱われる事になる。


 私が彼女を見掛けたのは二度――いや、一度だけだが、五十手前とは思えない黒々とした髪に聢りとした顎、現場の職人の間に立ってさえも遜色のない広い肩幅、それに、知性と狡猾さを同時に感じさせる鋭い眼。御園生喬子――無論これは本名ではないが、彼女は、確かに、他人を屈服・服従させることに喜びを見出す側の人間だった。


 そんな彼女の性向は、赴任直後の最初の仕事――基礎工事監督の汚職と呼ぶには軽過ぎる過誤を根拠とした解任――からも伺われた。彼は、家族も職も評判も自尊心すらも奪われてから彼の地を去ったのであるが、空席となったその作業机を見た御園生女史は、満足そうな微笑みを浮かべたと云う。


 その後、工事は順調に進められたが、彼女がその手を緩めることはなかった。地域一丸となっての新工場建設であり、血気盛んな利害関係者が多いのも確かではあった。多額の金銭が飛び交い、労働者は活気に満ち、町は一見、平和そのもののように見えた。


 しかし、或る暑い夏の夜、突然、何の前触れもなく、御園生喬子の姿が消えた。


 当然、町でも現場でも、彼女の誘拐や殺害の噂が立っては消え、消えては立ち、静かな混乱が全体を蔽って行く様子が窺えた。


     *


 一九六五年のハヌマンラングールの子殺しについて、報告された内容は概ね次の通りである。


一.先ず、或る単雄複雌の群れに対し、群れ外のオス達が協力して、その群れを攻撃、核オスを放逐する。


二.次に、群れを乗っ取ったオス達の中の一頭が、他のオス達を攻撃・放逐、新しい核オスとなる。


三.その後、このオスは、群れのメスたちから赤ん坊を奪い、その赤ん坊を噛み殺す。


四.そうして、全ての乳児が殺されると、授乳が止まったことによりプロラクチンの抑制が解かれ、エストロゲンの量が上昇した母メス達は発情、「自分の子どもを殺したオス」との交尾を始める。


五.やがて、この元・母メス達は、そのオスの子どもを妊娠・出産する。


     *


 私が現地に派遣されたのは、御園生女史の失踪から一週間が経過してからだった。


 彼女の一件は、本社からの意向もあり (或いはその意向以上に)報道はされず、地元警察による関係者への聴き取りも行われていなかった為、私は、全く一からの調査を行なう事になった。


「私人であれば調査が出来る」と発言した旧財閥系企業の (或いは世界的多国籍企業の)上司の言葉は気に入らなかったが、この地では恐らく全能であった御園生喬子も、彼女を捜すこの私も、これら複雑極まりない体制では駒の一つでしかないのであろう。現地へ到着した翌々日から私は、そんな希望も期待も抱き難い使命の為、この地方の町々を歩き廻った。


「そりゃあ、だれのことですかいのう?」


「そりゃあ、いつのことですかいのう?」


「そんなん、うわさもなんもありません」


「わたしら、なんにも聞いとりませんが」


「そんな人、見たら分かるんですかね?」


 同じような顔の人達が、同じような声と表情で聴き取りに応じる。皆が皆、丁寧に (或いは親切に)答えてくれるものの、彼ら・彼女らが言外に言おうとしていた・しようとしていたのは、ただただ『御園生喬子は存在しなかった』と云う事だった。


 何も知らない。誰かも分からない。見た事もない。聞いた事もない。私が調査に来た事もない――そう言われても、少しも不思議ではなかった。


「この人なら、若い男の人と歩きよったで」


「港の飲み屋でぎょうさん飲んだと聞いた」


「ようけ服を買いに来んさった方じゃねえ」


「奥の谷のじいさまの家に転がり込むどる」


「今し方、あの角の家に入って行きょった」


 また、その反面『今でも彼女は、そこかしこに存在している』と言い出す連中もいた。


 五分前に出て行った。昨日話した。別の男と歩いていた。あの家に泊まっている。そんな事を言っては彼女の欠片のある・あった場所へと私を連れて行くが――結局、彼女は消えたか『五分前までいた』事になっていた。


 平然と嘘を吐き、私がそれに苛立つとまた別の嘘を吐いた。嘘が嘘を呼び、話は飛んでは変わり、要約も叶わない。私は何も信じることが出来なくなっていたが、それでも耳を閉ざすことだけは止めなかった。


 そうしてある夕刻、一枚のメモが私のホテルのドアに挟み込まれたのである。


      *


 ハヌマンラングールの子殺しについて当時の資料を読むと、報告者はこれをオスの繁殖戦略である――と、当初から主張している。


 しかし、冒頭でも述べた通り、当時の学会及び研究者らの大半は、これを異常行動――何らかの人為的影響を受けた病的な行動である、としてしか捉えられなかったようだ。


 だが、その後、他の霊長類やライオンのオスによる子殺しが報告されるようになると、これらは異常行動ではなく、性選択理論で説明出来る自然行動であると認められるようになって行った。


     *


 指定された住所にタクシーは入れず、細く長いだらだらとした坂道を歩いて行くことになった。家と家の軒がぶつかりそうに近く低い。夕餉の支度と夫婦の怒鳴り声が同時に響くような場所で、坂の頂上近くで道が二つに分かれていた。


 右の道は引き続きのだらだら坂で、左の道の先には急な石段が見えている。奥の方から賑やかな声が聞こえて来る。地元の子ども達が、私を追い越し石段を駆け上って行った。木の陰に隠れて小さな白木の鳥居が見える。鳥居の向こうで祭りのようなものが催されているらしい、目指すべき道はこちらだ。


     *


 鳥居をくぐり損ねている私の横を、一人の老婆が通り過ぎて行く。杖を突き、影のように歩いていたかと思うと、突然その場にしゃがみ込み、そのまま石の様にジッと動かなくなった。


 石の様な老婆は、くすんだ菫色の被風を着ていたが、それは襤褸切れと言っても良いような代物で、同じ色をした御高祖頭巾の合い間からは、僅かな眼鼻が覗いていた。


 しかし、その眼鼻も、それは例えば、仔猫の屍骸めいたものが二つ三つ重なり合い風呂敷包みの間から覗いて見えている――と云う印象を私に与える風のものだった。


 夕闇が足元にまで拡がって来た。私は「失礼」とも「すみません」とも言わず、御園生喬子について知っていることはないかと老婆に尋ねてみたが、老婆は先ほどからずっと含み声でよく解らぬ事を呟いている。


 その呟きは、まるで念仏のようであったし、『念仏を唱える以外救いは無い』と云う独白のようでもあった。恐らく、私の声は聞こえていないだろうし、仮に聞こえていたとしても、理解の彼方であろう。


 私は再び、「失礼」とも「すみません」とも言わず、彼女から離れる為に、白木の鳥居をくぐろうとした。


「もちろん知っとるよ」鳥居の向う側で老婆が言った。


「町の皆が捜しとる。事件じゃなあかと気を揉んどる。じゃけど、そりゃ、えらい昔の話でしょう?何故、今頃になって、そんな古い話を聞きたいと言うんですか?アレは、栄の港が高潮でアカンようなる前の話でしょうがねえ。」


 思いも掛けない老婆の言葉に、私は驚きと緊張を隠せなかったが、ドアに挟み込まれたメモの事を思い出し、彼女にその『古い話』をするよう求めた。


「そないに古い話を聞いて、どないするんか知らんが、そもそも、きちんと想い出せるかも分からん。神さまなり仏さまなりの怒りに触れんようにするんが一番じゃが、果たして話せるかどうか?それもそもそも、あの頃は、みながみな腐っちょったし、みながみな黙って何もせんかった。お祈りもお念仏も呪いの言葉に変え、嘘や勘違いやおためごかしばかりを言うとった――まあ、でも、もちろん、みながみな、悪い人間と云うわけでもなかったけどのお」


 よくとは見えない老婆の、仔猫の屍骸めいた眼が、微かに笑った気がした。


「ほじゃけえ、この土地に工場が出来る言うたときは、そのために他所のひとが来る言うたときは、よほど悪い気を持っとるひとやない限り、みんな喜んだもんよ。お金の話だけでなく、もちろんお金の話でもあるけれども、それよりもなによりも、土地の者の無秩序よりは、他所のひとの秩序のほうがマシや、と、そう思うたんでしょう」


 老婆の体は小刻みに揺れているようだが、その小さな体を蔽う襤褸切れはちっとも揺れている気配がない。


「ほしたら、あの女がやって来たでしょう。すると今度はどうですか、賄賂と密告ばかりが飛び交うことになりました。誰が、何をやっても、あの女次第で、罪に問われにゃああかん人が大手を振って歩き廻って、お金さえ渡しゃあ、警察も誰も彼らを追わんようになった。最初は、わたしらあも『そういうもんかなあ』思うて、あの女の好きにさせよったんですよ。この土地の者には分からん、あちらの土地の、あちらの会社の、あちらの人たちの、なんがしかの、正当な理由がある思うとったんですかねえ」


 不意に、神社の奥からざわめきが聞こえた。


 私は一瞬、老婆から眼を離せなくなっている自分に気付いた。


 老婆は、ざわめきにすら気付かない様子で話を続けている。


「ほいでも、何か月か経つと、こっちも気付いて来ますよねえ。あの女が、ただただ、性根の腐り切った人間じゃあ言うことが……。まあ、でも、そん時には、もう、遅かったんですわなあ。あの女は、この土地で、勝手気ままに、まるで王さまか殿さまのように、振る舞うようになっとったわけですから」


 鳥居の向うから一際大きな歓声が上がった。


 老婆も、今回は、一瞬だけだが、歓声の方に意識を向けたようだった。


「……それで、どこまで話しましたかのう?そうそう。勝手気ままな振る舞いが目に付くようになって。で、『どうにかしてやりたい』と考える人も出て来ましたし、口に出す人も出て来ました。すると当然、中には『それだけじゃあ足りん』って思う人たちも出て来ますわねえ」



(続く)

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