一方、男子トイレ————


「はあ……」

 大衆居酒屋特有の強い芳香剤の香りをものともせず、秋比古は個室の便器に腰かけていた。ここに彼がいるのは、用を足すためではない。負の感情を抑えきれず、合コンという場で噴出させてしまったことに対し、猛省するためだ。

「なんであんなにムキになったんだろ。ヒロに悪いことしちゃったな」

 秋比古が顰蹙ひんしゅくを買うだけならば、まだ救いはあった。しかし、秋比古をこの場に呼んだ田柱にも、その責任が及ぶことは間違いない。それ故に、秋比古は苦悩していた。

 加えて、今はアルコールの摂取により暗い感情が増幅されている。このままでは、彼は会が終わるまで個室に閉じ籠ることを選択してしまう可能性すらあった。

 その最中さなか、自問自答を繰り返す秋比古に、支倉が扉越しに声を掛けた。

「末野くん、だっけ。大丈夫か?」

「えっ」

 思いがけない人物からの問いかけに、秋比古は狼狽うろたえながら返す。

「ど、どうしたんだ? 俺になにか用か?」

「いやあ用も何も、ここトイレだし。そこにずっと籠られると、他の人にも迷惑だから早めに出た方が良いよ」

「あ、そ、そうだよな。ごめん」

 恥ずかしい勘違いをしてしまい、秋比古は赤みが退き始めていた顔を再び赤く染め直しながら、個室を出る準備を始めた。しかし彼が慌てているとは知らず、支倉は話し続ける。

「ああ、ちょっと待って。聞きたかったことがあるから、急がなくてもいいよ。いや、むしろそのまま聞いて欲しい。あまり他の人には聞かれたくないから」

「そ、そうなんだ。な、なに?」

 支倉は大きく息を吐き、戸惑う秋比古にストレートな質問をぶつける。

「末野くん、どうして俺をかばってくれたんだ? キミだって、俺のこと気持ち悪いって思っただろうに」

「え?」

「俺は普通の人間じゃないって自覚してる。だから、あんな風に言われても何も言い返せないし、言い返す必要もないとすら思ってる。得体の知れないものを怖がるのって、生物にとっては普通のことだからね。でも、キミは雰囲気をぶち壊しにしてでも、俺を庇った。それはどうしてなんだ?」

「そ、それは……」

 秋比古は言葉を詰まらせた。彼が佐藤たちに強く意見したのは、単に支倉を庇おうと考えたためではない。自身のトラウマを呼び起こされ、突発的に返してしまっただけなのだ。

 周囲の人間からすれば、彼の怒りは明らかに不自然であった。何か理由があると勘繰られてしかるべきである。

「えっと、だな。その……」

 返答にきゅうする秋比古に対し、支倉は静かに告げる。

「まさか同情した訳じゃないだろうね? 俺、そういう綺麗事しか言わない人間って嫌いなんだ。憐れみなんて、人を見下してないと抱けない感情なんだから」

「ち、違う! そうじゃないんだ、俺は……」

 支倉の追及に観念した秋比古は、換気扇の音に掻き消されそうなほどの小声で言った。

、だから」

「同じ?」

「ああ。俺も、その……平尾くんが好きなんだ。顔も良いんだけど、声が初恋の人に似てて」

「ああ、そういうことか。なるほど」

 秋比古の言葉が同情から出たものでなかったことを知り、支倉は少しの間の後、真摯な声色で彼に詫びた。

「悪かった。逆に、俺の方が無神経だったね。あんなレベルの低い煽りにも反応するほど、キミはたくさん嫌な思いをしてきたんだな」

「べ、別に気にしなくていいよ。黙ってれば良かったのに、ちょっと呑み過ぎちゃって抑えられなかったんだ。俺の方こそ、空気を壊しちゃってごめん」

「いいさ。それより、もう少ししたら出てきなよ。適当に話題を振って、さっきの話を忘れさせておくから。今のままだと気まずいだろ?」

「ああ、ありがとう。助かる」

 そう言って、手を洗った支倉がトイレから出て行こうとした時だった。不意に、秋比古はある噂を思い出し、彼に告げた。

「あ、ああそうだ。支倉くん、ちょっといいか?」

「うーん、手短に頼むよ。さすがに長すぎると、大の方かと勘違いされるから」

「なんでそれは気にするんだよ。いや、そうじゃなくって。支倉くんの向かいに座ってる、御堂って子いるだろ? アイツには気をつけろよ」

「なんで? 分かりやすくネコ被ってて、ある意味可愛らしいじゃん」

「アイツの兄、結構名の知れた不良なんだよ。それこそ、何度も警察沙汰を起こしてるレベルで。んで、一番厄介なのが……」

「なるほど。そのお兄さんは妹を溺愛してる、ってとこかな?」

「え? あ、ああそう。そうなんだよ」

 支倉の勘の良さに目を丸くしながらも、秋比古は警告を続ける。

「あの様子じゃ、御堂は支倉くんを本気で狙ってくるだろうから、断り方を間違うと大変な目に遭う。だから、絶対に気をつけろ」

「はは、気にし過ぎだよ。いくらなんでも、妹になびかなかった男をリンチする兄なんていないさ。逆に、変な虫がくっつかなくて喜ぶものじゃないか?」

「まあ、そうかも知れないけど……」

「それとも、末野くんは俺にあの子と付き合って欲しいって思ってるのかな?」

「なっ————」

 思いがけない返しを受け、勢いよく立ち上がった秋比古であったが、その弾みで壁に肩をぶつけてしまった。ガタガタッと大きな音が鳴り、冗談を言ったつもりの支倉も心配そうな声色に変えて訊ねる。

「おいおい、大丈夫かよ。やっぱり結構酒が回ってるんじゃないのか?」

「い、いや、そういうことじゃないよ。大丈夫だ、心配しなくていい」

「本当か? まあとりあえず戻るけどさ、もうちょっと休んでから戻って来なよ。田柱くんには、大丈夫そうだって伝えておくから」

「あ、ああ。悪い」

 そして、何事も無かったかのように支倉はテーブル席へと戻って行った。一人トイレに残った秋比古は、痛む肩を押さえつつ、また大きく溜気をいた。

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