第9話 建礼門院
***
始業のベルが鳴り担任が入ってくると、喧騒に包まれていた教室はあっという間に静かになる。しばしの間、出席を取る教師の声とそれに応える短い声だけが教室に響く。
やがて、その静寂の中に小さな足音が混ざり、小走りでこちらに近づいて来るのがわかる。
足音の主は、教室の前で止まると勢いよく戸を開けた。
「おっはようございまーす! イエーッ! ぎりぎりセーフ!」
「ぎりぎりでもセーフでもないわぁぁっ!」
なんら悪びれることもなく満面の笑顔でVサインと共に登場した女生徒の頭を、担任が出席簿で殴打した。
「体罰反対!」
「やかましいわ遅刻常習犯! なんだってこう毎日遅刻するんだお前は!」
堪忍袋の緒が切れた担任の詰問に、殴られた頭を押さえていた女生徒は俯いて目を伏せた。
「い……い……」
「胃?」
「い……いい男が……」
「は?」
呆気に取られる担任の前で、女生徒は拳を握って力説する。
「滅茶苦茶いい男を見かけて跡を追いかけたんですよ! 頑張って追跡したのに、3丁目付近で見失って……ああ! 返す返すも口惜しい!!」
本気で悔しそうに地団駄を踏むその姿に、クラス中が唖然とする。そんなクラスメイトの雰囲気にはまったく気付かずに、女生徒は教壇上で力強く言い放った。
「いい男を見たら追いかけるのが女子の義務ですから!」
「……平、もういい。もういいから、少し黙れ」
あまりにも堂々と主張するその姿に、担任が匙を投げた。
「源くん、おはよー」
「お、おはよ……」
笑顔で挨拶しながら隣の席に着く女生徒を見て、義経はもう何度目になるかわからない疑問を心の中で繰り返した。
(本当にこれが、安徳天皇生母建礼門院の成れの果てなのかねぇ……)
平清盛の娘、建礼門院
敵の大ボスの娘と一年の頃から同じクラスで、現在は隣の席という巡り合わせに、義経はいまだにどう対応していいか計りかねていた。
***
広大な平家の屋敷の中心にあるのは、頭首清盛の住まう本殿だ。
重盛が知っている限り、今生の清盛がここから出たことはない。それどころか、身の回りの世話をする下女以外、一族の誰も立ち入ることを許されない。唯一立ち入りが許されるのは、今まさに重盛と忠度が座っている、謁見のために設けられたこの広い空間だけだ。
重々しい足音が耳に響いて、重盛と忠度は目を伏せて頭を下げた。戸襖が開き、足音の主が袴の裾を蹴り上げながら二人の前に立った。
「面を上げい」
酒に焼けた野太い声に命じられ、重盛と忠度は顔を上げて姿勢を正す。
二人の眼前に、威風を纏わせて立つ僧形の男——平清盛は、ぎらりと二人を睨めつけてから御座に腰を下ろした。
「忠度」
「はっ」
名を呼ばれて畏る忠度に、清盛は脇息にもたれかかりながらニヤリと口の端を上げて見せた。
「知章は、どうだ」
「はっ。天狗に受けた傷は幸い然程深くはありませぬが、動けるようになるには今しばらくかかるかと」
今は能宗と蕨が看ております、と告げると、清盛はふんっと鼻を鳴らした。それが忠度への叱責を意味するのか、或いは知章を嘲ったものなのかは判然としない。
「重盛」
「はっ」
「先日、教経が勝手な行動を取ったそうじゃな」
背筋がヒヤリとした。平静を装うとするが、内心の恐れは消えない。何故、知っているのか。何故、知られているのか。
教経と通盛が独断で源氏の元に忍び込んだことを知っているのは、平氏の屋敷の中では重盛と忠度だけのはずだ。何故、自分の本殿から一歩も出ない清盛がそれを知っているのか。
冷や汗をかく二人の反応を楽しむように、清盛は言葉を続ける。
「あまり血の気の多い行動をさせるな。特に、頼朝には決して手出しをさせるなよ」
そう言うと、清盛はおもむろに懐に手を差し入れた。探り出した紙片を取り出すと、それを目の前にかざして見る。
そこに映っているのは、前世で清盛が最期に欲した首の持ち主——源頼朝だ。
「頼朝は誰にも討取らせん。あれは、わしの獲物だ」
ぎらついた目で頼朝の写真を食い入るように見つめながら、清盛は譫言のように言った。
「源頼朝の息の根を止めるのは、この平清盛だ」
謁見の間を後にして、重盛と忠度は廊下の途中に立って中庭を眺めていた。本殿から一歩外に出ると、あれほど強烈に感じていた寒気と得体の知れない空気がゆるゆると解けていった。張り詰めた息をゆっくりと吐き出しながら、忠度は重盛に問う。
「どう思う?」
お互いに目を合わせようとはせずに、重盛は応える。
「問題だな」
声を絞り出すように重盛が呟くと、忠度も沈鬱な口調で同意する。
「ああ。大問題だ」
先程の清盛の姿を思い出すと、腕が小さく震え出す気がする。物に憑かれたような目。異様な雰囲気。
忠度は苦い物を噛み潰すように擦り合わせた歯の隙間から呻いた。
「四十九歳のオッサンが二十五歳の青年の隠し撮り写真を常時懐に忍ばせているだなんて」
「大問題だな」
「ああ。まったくだ」
キモいキモい。と繰り返す忠度に、重盛も真顔で同意する。
二人はしばらくの間——鳥肌がおさまるまで——そのまま立ち尽くしていた。
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