第8話 頼朝の失敗
***
目を閉じると前世の記憶の方が先に浮かび上がってくる。そんな自分を嘲笑うように頼朝は口の端を歪めた。
前世に囚われているという訳ではない。今生は前世の延長に過ぎないのだ。前世で出来なかったことを片付けるための延長戦。それが、今生の源頼朝の生だ。
ここまでは非常に上手く運んでいる。二人の弟、範頼と義経も無事に育っている。
ただ一つ気になるのは、平氏の頭領平清盛がいまだに沈黙していることだ。
清盛の目的が御霊を手に入れることなのはわかっている。そのためには、御霊の持ち主を不用意に死なせる訳にはいかないことも。
だが、清盛が本気で御霊を奪いにくる気配も今のところは感じられない。
何かを企んでいるのは確かだが、それがなんなのかわからない。
『聞こえるか。頼朝』
物思いに耽っていた頼朝の頭の中で、低い声が響いた。
姿なきその声に「ああ」と応えて、頼朝は足を止めた。ちょうど川沿いの歩道を歩いていたので、体の向きを変えて川を見る。
「何か用か?」
『なあに、ただの定期連絡だ』
からかうような調子を混ぜて声が言う。頼朝は不機嫌さを隠さずに言った。
「用がないなら話しかけてくるな。こっちは出来るだけお前の声なぞ聞きたくない」
『おやおや、ご機嫌斜めだな。そういえば、こないだはうちの知章をずいぶん痛めつけてくれたらしいな』
「馬鹿を言え。天狗を目覚めさせたんだぞ。あの程度で済んで幸運だと思え』
頼朝はあの夜、間近で目にした天狗の力を思い出して唇を噛む。この国が滅びる前に、あの天狗を殺さなければならない。
(場合によっては、義経ごと……)
暗い決意を胸に宿して、頼朝は夕陽を受けてキラキラ光る川面を睨みつけた。
「そうそう。今朝、俺の家にお前のところの鼠が忍び込んでいたぞ」
戦意は感じなかったし、特に見られて困るものもないから放っておいたが、鬱陶しいのには違いない。
『それはおそらく教経だろう。知章は怪我で動けんしなぁ。若い者どもは血気盛んで困る』
「ちゃんと管理しやがれ」
努力しよう、と応えて、それきり声は聞こえなくなった。
頼朝はふうと息を吐いた。次の瞬間、
「頼朝くーーーんっ!!」
背後から腰に思いっきりタックルを食らわされ、頼朝は顔面から地面に突っ込んだ。
「なっ……お、お前は……」
痛む顔面を押さえて自らに馬乗りになっている少女を見た頼朝は、驚愕の表情で声をあげた。
「政子っ!」
頰を赤らめて頼朝の顔を覗き込んでいるのは、紛れもなく前世での頼朝の正妻、北条政子であった。
「頼朝くんてば、政子に会いに来てくれたの?」
そう言って目を輝かせる少女はブレザーにチェックのスカートという出で立ちで、どうやら学校帰りらしい。
「はあーっ! しまった! ここは鎌倉女子高の近くか! いつもは絶対に近寄らないようにしているのに!!」
「ほう?」
己の迂闊さを呪う頼朝の正直すぎる叫びに、政子の笑顔に青筋が浮く。
頼朝は頭を抱えて後悔した。こんなことなら、会合の後に「殿、ご自宅までお送りします」「いや、俺が」「いや、俺が」と小競り合いを始めた家臣達の申し出を断るんじゃなかった。
政子は頼朝の腰にしっかり腕を回して離れようとしない。
「ここで会ったが百年目〜、交際か結婚か接吻をしてくれるまでは絶対に離さないんだから〜!」
「やめんか。援交と間違われる〜」
二十五歳の成人男性と十五歳の女子高生という、軽く問題のある組み合わせを危惧した頼朝は渾身の力で政子を引き剥がそうとするが、政子も必死にしがみついてくる。
さすがは前世で「尼将軍」とまで呼ばれた女。いい根性をしている。
そんな攻防の最中、道の向こうから歩いてきた通行人の少女と頼朝の目が合った。驚いた少女が口を大きく開ける。
一瞬、警察にしょっぴかれる自分を想像した頼朝だったが、次の瞬間、少女が叫んだのは頼朝の予想の正反対の内容だった。
「きゃーっ! 綺麗なお兄さんが痴女に襲われてる〜っ!」
ガクッ
さしもの政子も脱力して頼朝の上から転げ落ちた。頼朝も地面に沈みかけたが、すぐに気を取り直してこの隙を逃さずに立ち上がる。
「あーっ! 頼朝くーんっ!」
そのまま脱兎のごとく逃げ出した頼朝の背中に、我に返った政子が叫ぶ。
「もー!」
まんまと頼朝に逃げられて、政子は地べたに座り込んだまま憤慨した。
「大丈夫?」
頭上から声がかかる。
いつの間にか、政子のすぐ後ろに少女が立っていた。先ほど政子を痴女呼ばわりした彼女は、くすくす笑いながら政子に手を差し伸べる。
ショートボブの髪型とそばかすの散った幼い表情。政子より少し年下に見えるが、シンプルな白いシャツとプリーツスカートはこの辺りの学校の制服ではない。
「……どうも」
一応は礼を述べながらも、政子はその手には縋らずに立ち上がった。スカートに付いた土や草をほろう政子をにこにこと眺める少女は、頼朝が走り去った方向を指差して言った。
「かっこいいお兄さんだねぇ」
恋人? と尋ねてくるのに、政子はわずかに顔を赤らめて首を横に振った。
政子は初めて出会った瞬間から頼朝に夢中で必死に追いかけているが、頼朝の方はいつも遠くばかり見ていて政子に少しの関心も示さない。
だが、父に苦言を呈されても、兄に呆れられても、政子はこの恋を諦めるつもりはない。
幸い、頼朝は政子以外の女にも興味がなく、愛情はもっぱら二人の弟に注がれている。それはそれでどうかと思わなくもないが。
とにかく、自分にもチャンスはあると政子は思っている。
初対面のはずの少女は、政子のそんな想いを見透かしているかのようにくすくす笑った。
「まあ、気をつけなよ。北条政子」
いきなり名前を呼ばれて、政子は驚いて顔をあげた。名乗った覚えはない。
少女は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと政子に背を向けて来た道を戻り始めた。
「あの男は、怖い男だよ」
からかうような口調で、そう言い残して。
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