第113話 トロッコ問題

「多数を救うためなら、少数を犠牲してもかまわないと思うか?」


 答えはノーだ。さもなければ心理鑑定には通らない・・・

「トロッコ問題」と呼ばれるこの設問では、現実にどう対応するかでなく、建前が試される。

 もっとも現実を顧みるならば、たとえ支援を尽くしたところで救えない事態は珍しくもない。しかし、それは結果としてそうなったのであって、たとえ偽善に思えたとしても、決して建前を失ってはならない。

 マーカス・メトカーフは確信を持っていた。

 二十歳後半から老化が進行するにつれ、人は誰しも生物学的弱者の道を歩む。老化がある限り、盛者必滅は絶対だ。と言っても、自らが弱者や少数派になった場合を想定せずとも、つまり若く健康で社会的に自立していようと、トロッコ問題に対する答えは「ノー」でなければならない。宇宙物理学と心理歴史学の大家、ムラカミ教授の持論に私は完全に同意する(*)。なぜなら、建前を崩して開き直れる人間は、サイコパシーの脳を持つ可能性が高いからだ・・・


「すべてのサイコパスが刑務所にいるわけではない。一部は取締役会にもいる」 (**)

 真正のサイコパスは、連続殺人犯の行動分析を通じて世間に知られるようになった。しかし、サイコパシーは殺人者とは限らない。罪悪感や良心の呵責を感じにくい脳が故に、行動の選択肢が大幅に広がり、成果をあげて社会的成功を収める者も少なからず存在する。だが、人間はいざとなると本性が出るものだ。事が起きた時、周囲の人間は唖然とする。こんなに冷酷な人間だったのか、と。

 つまり、サイコパシーの傾向があれば、リーダーとしてもチームの一員としても決して信頼はできないのだ。事実、彼らの成功は、往々にして組織の仲間の犠牲の上に築かれる。

 とりわけ、サイコパシーを政治リーダーにしてはならない・・・権力を握るや、ファシストの本性を現すだろう。


 メトカーフが担当したケースも含めて、ファットマンは過去の心理鑑定すべてにパスした。形式を変えて何度質問しても「多数を救うためなら、少数を犠牲してもかまわないか?」の答えは「ノー」だった。嘘発見器でもサイコパシーの傾向は検出できなかった。

 面接を思い返しても、反社会的人格障害の要素は微塵も認められない・・・

 超一流のプロファイラーを騙しおおせるとすれば、サイコパスにしてマキャベリアンしかいないが、ファットマンはそのいずれでもなかった。低い自己評価と適応障害は認められるが、精神病質や反社会性人格障害ではない。権威への顕著な反抗は、おそらく軍人の父親との関係に起因するものだろう。控えめでおどおどした態度も、人を操るマキャベリアンの演技ではなく、持って生まれた臆病な脳が原因だろう、とメトカーフは推察していた。

 実際に、脳心理探査でも恐怖を感じる偏桃体の活動がやや過剰と判定されていた。


 ハッカーとしては稀代の天才だが、素顔はと言うと、対人関係で挫折を繰り返して鬱屈したごく普通の若者だ。温かい人間関係に恵まれていれば、強い正義感を破壊的行動に向けることはなかったはずだ・・・

 大人しく自己顕示欲に甚だしく欠ける若者と面談を繰り返すうちに、メトカーフはそこはかとない親近感を抱くようになった。自身とどこか似通った波長を感じ取ったのである。

 ファットマンは良心に照らして、正しいことをしたいと強く望んでいる!サイコパスには決定的に欠けている資質だ。


 面談ではバグフィルターのおかげで盗聴を阻止したが、立て続けに盗聴に失敗すれば、ダレスに怪まれるのは目に見えていた。そこで、バグフィルターを指示通りメリンダに手渡し、メッセンジャーが手を打っていると信じて、次の面談は丸腰で臨んだ。

 その面談の席上、ファットマンが不意に真剣な面持ちでこう尋ねたのだ。


「大佐、は存在すると思いますか?」


 メッセンジャーが介入した嘘発見器のテストから、ファットマンはプライムの新人類レポートとダレスの策略が密接に関連すると気づいたに違いない。そう考えたメトカーフは、スピーシーズすなわち「異種」とは、てっきり新人類を指すと思いこんで、その場は質問をはぐらかした。

 ところが、メリンダを通じて国務長官襲撃の詳細を知った時、メトカーフの緻密な分析力と研ぎ澄まされた直感が、ジグソーパズルの二つを引き寄せたのである。


 ファットマンはダレスにひどく怯えている。

 同時にダレスに対して極度の嫌悪感を抱いている。

  

 プライムや私とのやり取りをダレスに感づかれると恐れるのは当然だが、あの嫌悪感は説明がつかない・・・

 わずかに感じていた違和感が、地下鉄でのメリンダとのやり取りの最中に、驚愕の仮説となって頭に閃いた。長年の経験から培った直感のなせる業だった。


 もしや、ファットマンの言葉は、新人類ではなくダレスを指していたのでは!?


 だとすれば、ピッタリ符合する!ダレスの新人類への敵愾心も説明がつく!しかし、一体全体そんなことがあり得るのか!?

 これまでの動向を分析して、ダレスはサイコパスではないかと密かに疑っていたメトカーフは、いきなり背後からガツーンと頭を殴られた気分だった。

 もしとなれば、ダレスの脅威はサイコパスの比ではない・・・


 過去五年間、受け取った新人類レポートを分析するため、メトカーフは超人類にまつわる古今東西の逸話や伝説を丹念に調べ上げた。その中で、行き当たったある神話的な伝説が頭を掠めたのである。

 それは、とある学生社交クラブに伝わる他愛のない陰謀論に思えた。よくある話だ。成功者を輩出する有名大学と社交クラブを隠れ蓑にした秘密結社を巡る黒い噂は、昔から絶えない。権力と富を手にするため、コネを作り婚姻関係でつながる優等生のサークルだ。入会するには、人に言えない秘密を打ち明けて互いの弱みを握り、過酷なテストを受けるなどと、まことしやかに噂されている。

 その有名大学こそがダレスの母校だったのである。一昨年、ネバダの核ミサイル基地を狙った一味の母校でもある。


 数千年の闇に育まれた「蛇神」と、地球に舞い降りた「蒼い天使」にまつわる叙事詩は、よもや大学伝説ではなく真実だったのか!?だが、その疑問を明らかにする手立ては、メッセンジャーしかいないようだ・・・

 メッセンジャーと直接顔を合わせたのはわずか二度だが、メッセンジャーが新人類の一員と直感したメトカーフは、その後、時間をかけて緻密なプロファイリングを行った。

 メトカーフの観察眼は鋭い。ビアンカ・スワンやカミーユ・ドレフュスとは異なる特徴を明敏に嗅ぎ分けた。表情やわずかな身振り、さらにはヨガ教室で耳にした発声や英語の語彙や用法と、手書きメモの言語プロファイリングを基に、新人類のリーダー格に違いないと察していた。

 特異能力のほども配下の組織の全貌も見当もつかないが、合衆国政府をも動かすダレスに先んじる的確な対応策を迅速に実行する。あらゆる点で用意周到だ・・・一喜一憂することなく、ひたすら流れに身を任せて、メッセンジャーにすべてを委ねれば良い!

  メトカーフは己の無知と無力を改めて自覚したが、それは投げやりな諦めではなく、強靭なまでの希望に満ちた確信に繋がっていた。

 ダレス一味の不気味な正体を悟った衝撃は、すでに和らいでいた。



 同じ頃、イギリス連邦のイングランド国では、伽耶がやはりトロッコ問題に胸を痛めていた。イタリアから帰国する前に、社用フライヤーで英国に立ち寄ったのである。旅行中に、何度かテレポーテーションを駆使して日本とアメリカ合衆国に跳んだが、最終的に帰国するには、当局の疑いを招かないよう出国に準じた正規の手続きが必要だった。

 オックスフォード大学のボドリアン図書館を訪ねたのは、気持ちの整理をつけたいと思ったからである。大英図書館に次ぐ規模の図書館で、その歴史は遥か十四世紀にまで遡る。カヤコープ名義で多額の寄付をしてきた甲斐あって、一般人が入れない特別蒐集品展示室に案内された。


 ホワイトハウスの警備主任を引き続き盗聴した伽耶は、警備員殺害のあらましを把握して激しい衝撃を受けた。ダレスの動きは事前に予想していたものの、襲撃者が仲間を惨殺するとは思いもよらなかったのである。

 アロンダはスワン中尉として中東の基地を攻略した殊勲者だが、非戦闘員を巻き添えにした罪悪感に打ちひしがれた。(***)

 好戦的な第三世代でさえそうなるわ・・・

 第三世代と言えどもベースは慈愛に満ちた第二世代であって、旧人類とは一線を画している。敵味方の隔てなく、動植物と人間の隔てなく、生命いのちを慈しむ傾向が高い。実際、食事でさえも決して飽食せず、最低限必要な殺生しか行わない。


 たとえ敵側の一員でも、犠牲は出しなくはなかった!

 伽耶のふっくらした色白の顔が懊悩に歪んだ。このところ、かつてない情緒の乱れに悩まされる。

 変調を来たしたきっかけははっきりしているわ。マイケルオータキだ・・・

 千年ほど前のオパル王サウロン・アテナイアの生まれ変わりは、伽耶にも予測不可能な存在だ。貴美が大滝と共有した洞窟の明晰夢をアロンダから伝え聞いた時、預言書の記述について直感が閃いたのである。

 イタリアを訪ねて、大滝にまつわる謎を解く鍵をついに見出した。バトルプロセッサの行方も、預言書の「蒼い天使たち」の起源も推察がついたわ・・・

 点と点がつながり、最後のピースとなる兵器も手に入れた。最初のミレニアム計画をほぼ完了できる見通しがついた、と手ごたえを感じていた。

 でも、想定外の犠牲者が出てしまった・・・

 その上、降って沸いたように立ち現れた甚大な脅威が同時に発覚したのだった。

 まさかが生き延びていたなんて・・・ダレス一味の背後にいたなんて・・・


 伽耶は自問自答した。

 ダレスは果たして知っているのだろうか?が秘めた恐ろしい目的を?

 今回の危機は、第二ミレニアム計画のほんの手始めにしか過ぎないらしい、と思うと、過酷な現実に身内みぬちが凍りつくようだった。新人類の影のメンターである伽耶と言えども、想定外の存在に対して冷静に対処できるとは限らない。大滝然り、第三世代然り、そしてもまた然りだった。

 それでも、閃光グリネードで「闇の存在」を撃退できたのは幸いと思うしかないわ・・・

 あやまつことのない予感がものを言ったのである。

 預言書通りなら「蛇神」はしばらく現れないはず。最初のミレニアム計画は、どうやら達成の目途がついたようね・・・


 伽耶はため息をついて、目の前の展示物に憂い勝ちな目を向けた。

 初心を思い出すために私はここへ来た。忍者の里にはないものがここにあるから・・・

 1271年にアジアへ向けて旅立った一行を描いた後世の装飾写本だ。二十一年後、一行はモンゴル帝国が統一した中国の元から、イラン高原のイルハン国へ嫁ぐ王女を送りがてらヴェネチアに戻った。その時、伽耶が彼らと行動を共にして以来、実に九百年余りの時が流れた。

 帰路を率いたのは冒険家で商人のマルコポーロだったわ・・・父親に似て精力的で話し上手で有能だった。元のフビライハンが彼ら三人を手放したがらなかったのも当然ね。

 あの当時、日本から中国大陸へ渡り、さらにイタリアへと到る旅は、一編の冒険譚に他ならない。隔世の感と言うが、今日、社用ジェット機なら半日とかからない行程に三年を費やした。伽耶が元で遭遇したマルコポーロ父子と叔父の三人は、後の大航海時代の先鞭をつけ、歴史を大きく動かす原動力となっている。

 私の目的はただひとつ。預言書を求めての旅だった・・・経典を求めて天竺に旅立った三蔵法師のようね。懐かしいわ・・・

 大滝や第三世代の動きは予測がつかないけれど、方向性は間違っていなかった。今回の旅で確認できたわ。

 ふと微かな微笑みが伽耶の顔に浮かんだ。澄んだ声で小さく口ずさむ。


「天から蒼い十二使徒が舞い降りた・・・守護天使としてかの地に眠る・・・十三人目に聖母が降臨する・・・」

 大滝が覚醒すれば、強力な味方になるはず・・・

 密かな確信が生まれた。



* 人類全員が自然界では弱者であり、弱者を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略である。それが功を奏して人類は今日の繁栄を得た・・・(中略)・・・人口増加と資本の蓄積は、切っても切り離せない関係にある。富裕層の贅沢な暮らしは、圧倒的多数の非富裕層の存在によって成り立つ。

 たとえば、プロスポーツ選手の多額の契約金は、数千万人のファンの存在とメディア界の放映権料がなければ不可能である。同様に、富裕層が資産を形成した発端が製品であれサービスであれ株取引であれ、規模の経済なくして彼らの桁外れに豊かな生活は立ち行かないのである・・・(中略)・・・たとえロボットで労働力を代替したところで、「規模の経済」が崩壊すれば、贅沢な暮らしもまた崩れ去る・・・(中略)・・・

 ・・・安易な弱者切り捨てが始まった時、社会は内部崩壊の道をたどり、時として滅亡の危機に立たされる。対外的にも外資や外敵の絶好の標的となる。コストカットに偏った企業が、往々にして付加価値を創造できずに衰退化した挙句、敵対的買収の標的になるのと同様の現象が起きるのである。

――「論考:人道と心理歴史学(暫定訳)」パトリック Y. ムラカミ 2187年

原著 Patric Youichiro Murakami "A Study on Humanistic disciplines and Psycho-History " 2184


* * なぜ「邪悪な性格」の持ち主は成功しやすいのか? 2016年

トマス・チャモロ-プリミュージク ロンドン大学 

原文 "Why Bad Guys Win at Work" Tomas Chamorro-Premuzic 2015


***「ブラック・スワン~黒鳥の要塞~」第4話「苦悩の天才パイロット」

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