第109話 ケーズ・バー K's Catering Bar

 ヤンキースタジアムを訪れたマーカス・メトカーフは、何を思ったか内野席ではなく、外野のグランドスタンド席へ続く回廊を人ごみを縫って進んだ。

 ホログラスは透明化してナイターに備えていたが、照明の乱反射には自動調整がかかり、背景画像は十分視認可能だ。地下鉄ではさすがに気づかなかったが、スタジアムに入ると尾行者の姿は一目瞭然だった。

 黒スーツで尾行するとは・・・

 週末とあってカジュアルな装いが溢れる中、目立つことこの上ない。CIAは地下鉄を降りるまで尾行して来たが、スタジアム内までは追ってこなかった。

 担当が変わったらしい、とメトカーフは悟った。

 FBIだ・・・捜査権がある代わり国内法を遵守する点がCIAと大きく異なる。捜査員がバッジを提示すれば、スタジアム側が入場を拒否することはまずない。

 しかも特別捜査官らしい。プライドが高い彼らにとって、黒スーツはステイタスシンボルだ。行き先の見当がつかない場合、変装する手間をかけなくとも何の不思議もなかった。

 

 ダレスの威光に忖度したFBIが、えり抜きのエリートを寄越したか?

 小型ドローンによる尾行は違法行為である。追尾装置と盗聴器を仕こむ手もあるが、裁判所の許可が必要になる。どの道、周到なメトカーフは探知機を持ち歩いている。参謀情報士官が相手となれば、CIAもFBIもそれぐらい想定済みだ。

 従って、とどのつまりは人力に頼るしかない。それが現場というものだ。しかし、気苦労ばかり多い退屈な張りこみに、二人の特別捜査官は不満を募らせているに違いなかった。税金を無駄に費やした挙句、ストレスばかり溜まる任務なら、同じ公僕として体験がある。

 ご苦労なことだ・・・

 メトカーフが同情こめて目を細めると、人の好さそうな笑い皺が目じりに寄った。実際、客観的に物事を見る習い性にさらに磨きがかかり、状況を客観的に見ている観察者たる自分が、意識の主導権を握っていた。

 かつて危機的な状況を切り抜ける際にだけ、不意に訪れた「無我」の心境が、今や日常化した感がある。油断なく覚醒した注意力と、相手も自分も笑い飛ばすほどおおらかな気分がメトカーフの中で共存していた。

 尾行に気づいて一か月以上経つ。間違っても尾行を巻かないよう気を配ってきた。一度でも行方をくらましたが最後、疑惑を深めた相手は執拗に監視を続けるからだ。幸いメッセンジャーという強力な援軍のおかげで、これまでのところダレスの裏をかきおおせている。

 監視チームの心理も計算に入れ、とことん退屈させて早期に手を引かせる算段だった。


 だが、今日の予定はキャンセルするわけにはいかない・・・

 政府広報には高官の日々のスケジュールが掲載される。随時更新または改訂されるが、国民とメディアに対する表向きの発表に過ぎない。その裏で、非公式の会合やイベントが「予定なし」の名目で、数多く進行している。重要な決定がなされるのは、概ねこうした秘密の会合の場であると言っても決して過言ではない。

 首席補佐官のメリンダはパールの予定を入力する雑務を買って出たが、それには訳があった。些細なスペルミスを故意に残したまま、AIのスペルチェックを無効に設定して投稿する。すると、オリジナルに手を加える権限のない広報担当者は、スペルミスもそのまま掲載する他ない。

 予定表にスペルミスがあれば、メトカーフには「密会」要請とひと目で分かる。これなら二人の関係を怪しまれる恐れはなかった。ヨガ教室のロッカーに届くメッセンジャーの指示に従い、メトカーフがメリンダに持ちかけた通信手段のひとつだ。メッセンジャーも政府広報をチェックして、メトカーフの観戦チケットを手配する。アナログだが一石二鳥の通信手段だ。


 フォックス国務長官がホテルの駐車場で転倒して負傷したのは、数日前の出来事である。メディアは「念のためしばらく静養する予定」と、驚くほど小さな扱いで済ませたが、ダグラス補佐官はその後の慌ただしい日程を縫って、ヤンキース戦に出向くとメトカーフに伝えた。重要な懸案があるのは間違いなかった。


 回廊から外野席三階へ通じるホールに、化粧室が設けられている。試合前に用を足す観客がすでに列を作っている。メトカーフは迷うことなく最後尾につけた。

 内偵目的の単純な尾行にチームは使わないから、FBIは二人だけだ。捜査局車両なら、地下鉄の駅に乗り捨ててメトカーフを追っても、レッカー移動の心配もない。

 予想通り、一人は後方で立ち止まり、もう一人は化粧室の前を通り過ぎた。二人して所在なげに回廊の滑らかな壁にもたれ、ホログラスに見入っている。メトカーフの映像を拡大して様子を伺っているのは、想像に難くない。

 思案するまでもなくアイデアが閃いた。二人の視界に入らないよう背を向け、懐から内野席観戦チケットと、肌身離さず持っているアナログなボールペンを取り出した。座席番号の上に何やら書きこんだ。

 化粧室に入ると辺りを見渡した。辣腕プロファイラーにとって、目ぼしい相手を見つけ出すのは朝飯前だ。FBIの一人が化粧室を覗きこむ前に、は速やかに成立した。


 外野席で試合を堪能したメトカーフが、メリンダとのは、FBIが思いもよらない場所だった。それも、二人組の目が厳しく光る中で、メリンダの存在さえ気取られずにやってのける。

 用意周到なメッセンジャーの計らいの賜物だった。



 スタジアムの出入り口は開架式だ。ゲームセットと同時に、危険物やチケットのサーベイランス機器は、すべてスルスルと床に収納されて姿を消した。各階の連絡通路を抜けると、広々とした空間が広がる。雑多な人々が三々五々、思い思いの方向へと散らばった。

 派手な全天候スーツの若者もいれば、昔ながらのヤンキースのキャップとユニフォームの上衣にジーンズ姿のファンも大勢たむろしていた。高齢者は弾むような足取りで進む。膝関節の再生を受けても、老化による筋力低下は如何ともしがたいが、神経信号伝達ユニットを組みこんだサポーターを両脚に装着すれば、若者に引けを取らない速度で歩行可能だ。機動歩兵が使用するユニットと原理は同じである。


 メインゲートの外には、ケータリング車両が何台も止まっていた。試合は午後九時前に終わり、土曜日の夜は始まったばかりである。一杯引っかけながら、今夜の快勝を祝うヤンキースファンが辺りのテーブルに集い、広場は賑わっていた。

 メトカーフは一台のトラックに歩み寄って青汁を頼んだ。コンパクトなレインボーカラーで塗装したタイヤ式小型トレイラーだ。側面のカウンターは洒落たネオンサインのイルミネーションに囲まれ、華やいだカラフルな光を放っている。

 入場する前にも立ち寄った同じトラックである。最近はこの「ケーズ・バー」で入場券を受け取るようにしていた。

 メッセンジャーがチケット受け取りの手筈を変えた理由は、こうしてFBIがスタジアム内に入ると予見したからに違いない!

 観戦中、ふと頭に閃いたメトカーフは、即座に確信したのだった。

 メッセンジャーの能力は、人智を遥かに超えている。当然、次の手も打っているはずだ。こちらの思いつくことぐらい先刻承知しているとなれば、大船に乗った気分で事態に対処すれば良い、と不意に得心がいったのである。


 ケイタリングトラックの店員は、若い東洋人男性だった。無表情な顔からはさしたる反応は読み取れない。かすかにうなずいたが、完璧なポーカーフェイスだ。顔立ちからして日系人ではなく生粋の日本人だ。

 いったいどういう組織なのか、新人類たちは?

 メトカーフは改めて好奇心をそそられたが、FBIの手前、自らもポーカーフェイスで押し通した。

 五年前に一度、そしてクアンティコで一度接触した以外に、メッセンジャーと直接顔を合わせたことはない。

 だが、いかに荒唐無稽であろうとも、メトカーフが彼女に抱いた信頼は、どうやら遥か過去に端を発しているようだった。と言うのも、受け取った古文書と仕こまれた薬物がきっかけで見た鮮明夢に、その後の調査から歴史の裏づけがいくばくか得られたからだ。

 とりわけ、スワン中尉の調査で浮かび上がった中世の肖像画とも符合したのが、実在した「オパル公国」である。点と点がひとまず繋がったが、メトカーフは同時にメッセンジャーの意図を察してもいた。

 慎重極まりない手法で正体を隠すのは、知る者が少なければ少ないほど、預言書の正鵠性が高まるからに違いない・・・

 テーブル席に腰を下ろすと、冷えた搾りたての無農薬有機青汁をじっくり味わった。新鮮なエネルギーが身体に横溢して、全細胞が賦活するイメージにしばし心を委ねてくつろいだ。


 ほどなくしてメリンダが姿を見せた。メトカーフには目もくれず「ケーズ・バー」に向かい、オーチャードを注文した。飲み物を手にすると、そのまま地下鉄通路へとゆっくり歩き去った。すでに決めていた通り、二人の関係をダレスに悟られぬよう、野球観戦中を除いて他人のふりを押し通している。

 ホログラスを掛け、大都会育ちのアラサーらしいカジュアルな服装から、政府高官の面影を推し量るのは難しい。背筋の伸びた姿勢ときびきびとした立ち居振る舞いに、軍事訓練の形跡が読み取れるぐらいだ。

 しかし、メトカーフはメリンダの口元に漂う緊張感に目ざとく気づいた。何か衝撃的な出来事が起きたらしい。


 メトカーフはテーブルを離れ、バンの脇に立つパンダそっくりのリサイクルロボットにカップを手渡した。実物が立ち上がったと見まごうほどリアルだ。毛皮まで精巧に再現されている。 背後から黒いコードが伸び、店内に繋がっていた。

 ロボットは両手でカップを受け取り丁寧にお辞儀をすると、うら若い女の声で「サンキュー」と朗らかに言った。その声に聞き覚えがあった。

 なんと、メッセンジャーの声を使っているのか!?

 思わず笑いがこみ上げたメトカーフは「おやすみ」と明るく声をかけ、愛くるしい黒い瞳を見つめ返した後、距離を置いてメリンダの後を追った。


 ここでチケットを受け取った後、FBIの尾行をいち早く探知して店内のAIに送ったのは、パンダの黒い目に隠れたホークアイカメラか!

画像分析AIを内蔵した軍用品だ。ネバダの事件当時は、戦闘機の標準装備品だった(*)。民間人の手に入る代物ではない。

 何という手回しの良さだ。これは敵わないな・・・

 感嘆をこめて「いやはや」とつぶやいた。一段と肩の力が抜けて、気持ちが穏やかに収斂してゆく。

 ホログラスの後方画像に、FBIが尾行にかかる姿が映った。さり気なくホログラスに手を触れたメトカーフは、カップ底面に貼り付けてあった一センチ四方のアセンブリを、フレーム上部の中央に取り付けた。

 メリンダのカップにも、同じアセンブリを忍ばせているはずだ。大学時代、予備役将校訓練課程に在籍、通信士官の資格を取得している。通信機器に詳しいから、すぐ用途に思い当たるだろう。メッセンジャーは、メリンダの過去の予備役契約も把握済みか・・・


 ケーズバーも然りだが、電気工事車両やピザや中華の宅配便と言い、新人類は入念に支援組織を練り上げているらしい。こちらからメッセンジャーに連絡を取る手段も、暗号化した手書きメモだ。ピザ宅配便もしくはこのトラックを受け渡しに使っている。

 アナログな手段を駆使するメッセンジャーと、デジタル情報処理にかけては圧倒的性能を誇る人工知能プライム。両者は新人類の組織構築に、どのように関わっているのか?

 尽きせぬ好奇心に駆られたメトカーフは、漠然と組織の全貌に想像を巡らせたが、手掛かりはほとんどなく、五里霧中としか言いようがない。また、それこそがメッセンジャーの意図、すなわち不確定要因の排除に違いなかった。

 だが、見方を変えれば、これほど楽なことはない、と思うのだった。

 何しろ、政府とは真逆で全面的に信頼できるときている。こちらは蚊帳の外に置かれるとしても、目の前の出来事に淡々と対応すれば、自ずと結果が出るのだから・・・

 

 初夏の清々しい夜風を愛でるように、メトカーフは人の流れに紛れてのんびり歩を進めた。

 人間の浅知恵など振り捨てて、天にすべてを任せるお気楽さだった。



* 「デザート・イーグル ~砂漠の鷲~」


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