第108話 爬虫類人 Reptilian

 空間が揺らぐ様は肉眼でも見てとれた。その場に瞬時に立ち現れた敵は、フードの付いたローブクロークにすっぽり身を包んでいた。

 けれども、パールとメリンダを震撼させたのは、キリスト教文明に綿々と伝わる邪悪や闇の象徴たる不気味な衣装ではなかった。黒装束より遥かに怪奇でおぞましい姿だった。

 漆黒のフードから覗いているのは、紛れもない爬虫類の顔だったのである。


 な、何なの、こいつは!?


 恐竜とも蜥蜴とも蛇ともつかない顔面は、人間の頭部と同じぐらいの大きさだったが、不気味なことに白く艶やかな鱗で一面が覆われている。

 冷たく青い燐光を放つ無機質な目は、人間のそれとは異質だった。離れた両眼は顔面の側部に位置している。まさに爬虫類の目そのものだ。


 爬虫類人なのッ!?

 パニック寸前のせわしない思考が二人の脳裏を駆け巡る。 

 そんなもの、いるはずない!テレビや映画で見聞きしたフィクションが作り出したイメージでしかない・・・

 突然の騒音や高所に対する恐怖と同じく、蛇恐怖も身を守る本能のプログラムと言われている。火急の事態では、旧皮質に刻まれた根源的な恐怖に、理性の新皮質は対抗する術がない。なす術があっては、咄嗟の条件反射が働かず危険なのである。

 コンピューターの基本ソフト同様、誰しもが従わざるを得ないプログラムだ。空腹や尿意と同じで、避け難い身体反応を呼び覚ます。

 

 二人は大きく両目を見開いたままだった。逃走か闘争かの二択に備えて、血流が手脚に集まる。瞬きもできず、血の気が引いた顔面は蒼白だった。パールの顔には雀斑がくっきり浮かび上がり、メリンダの顔は青黒く変色していた。

 だが、二人は一歩も動けなかった。

 立て続けにシークレットサービスが倒された直後に、戦慄すべき敵の素顔が追い討ちをかけて、脳に耐え難いショックを与えていた。逃げるか戦うかの瀬戸際はとっくに過ぎ、過剰なストレスで身体が硬直している。ここまで追い詰められると、自動的に心の機能は麻痺して、身を守る意思さえも放棄する。

 現実を否定しなければ、精神が破綻しかねないレベルに達していた。正視したが最後、脳に文字通り物理的な損傷が生じて、執拗なトラウマ症状が残るだろう。脳は自動的に現実逃避と否認に転じて損傷を防ごうとする。

 その先には完全な感覚鈍麻と、死に備えた脳内麻薬の放出が控えている。

 これもまた自由意志では如何ともし難い反応だった。瞑想や暗示やVRマシンによる訓練でも積んでいない限り・・・


 唇のない平たく切れ長の口が開いた。今にも長い舌が飛び出して来そうに見えた。退路に立ち塞がった「それ」は、不気味な含み笑いを響かせた。

『ふォ、ふォ、ふォっ」

 低い機械音が駐車場一杯に木霊した。発された言語は英語で明瞭だった。


「お前たちチンパン人どもは、弱者の快楽を追って世界を汚した。だが、もうおしまいだ!我ら新人類こそが、薄汚いチンパン人に取って代わる優越種だッ!」


 増幅された機械音が、朗々と空間を震わせた。ビンビンに空気を弾いて響き渡る。頭の隅で効果音とぼんやり知覚してはいても、物凄まじい迫力に反応して一段と身体がすくみあがる。


 「それ」は黒マントの下から、右手で何かを取り出した。

 「ひッ」とパールが喉を鳴らしたぐらい、何とも異様な手だった。

 銀白色の硬質な鱗に手の甲はびっしり覆われている。指は長く人間の手に似ているが、なんと二センチほどの黒っぽい太い鉤爪が生えている。

 メリンダも子細に観察できるような精神状態ではなかった。頭の中は真っ白だ。左手が木偶人形のそれのように動いて、意図せぬままにドレスに隠れた胸の谷間に伸びた。


「それ」が二人に向かって歩き出した瞬間、メリンダは爆発的に動いた。振り向きざまパールを押し倒し、床に転がして上から覆いかぶさる。


 突如、辺り一面が強烈な閃光に包まれた。

 眩しい光が駐車場を煌々と照らし出し、柱や車両の陰を鮮明に浮き彫りにした。裸眼ではとても正視できない光度だった。


 閃光は五秒間ほど続いた後、唐突に消え去った。


 その直後、地下通用口のドアが開き、二人の警備員が脱兎のごとく飛び出して来た。閃光に気づいたのだ。

 二人して青い警護会社の制服姿で、レーザー銃を構えながら走り寄った。

「奴を追え!」

 状況を把握した警備員は、同僚にきびきびと指示した。

 その言葉に目を上げたメリンダは、マントを翻して駐車場の出口へと走る襲撃者の後ろ姿を追った。黒いフルボディスーツに包まれた身体がチラッと目に入ったが、心なしかよろめいているように見えた。

 追跡した警備員が、走りながら大声で叫ぶのが聞こえた。

「止まれーッ!止まらないと撃つッ!」

 しかし、暴漢は立ち止らない。二人の姿はたちまち地下二階へと消えた。


 その場に残った警備員が性急に声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 恐怖にまだ言葉が出なかったが、メリンダとパールがうなずくと、素早くイヤーモデュールに触れて通報した。

「応援を寄越せ!パラメディックもだ!地下一階で八名負傷。VIPは無事。犯人は地下二階へ逃走。警察に伝えてホテルを封鎖しろ!」

 緊迫した声が響いた。


「ここを動かないでください!すぐにスタッフが来ます。私は犯人を追います」

 手短に言い残した警備員は、返事も待たず駆け出した。目覚ましい速度で地下へ向かった。

 メリンダは辺りを見回した。

 シークレットサービスはまだ起き上がれず、全員がコンクリートの上に転がり、呻き声を上げている者もいる。他にも目を惹いたのは、傍らを通り過ぎた襲撃犯が取り落とした物体だ。

 しかし、意外にも武器ではなかった。平たい板のように見えた。


 そこへ、ホテルから警備員と救急隊員があたふたと駆けつけ、二人を助け起こした。

 立ち上がったパールとメリンダは、呆然と顔を見合わせた。メリンダが近づくと、パールは小刻みに震え始めた。唇もわなわなと振動して、打って変わって激しく瞬きを繰り返していた。しきりに息を吸いこんでは、短く吐き出す。

 パニック発作を起こしているわ!

 典型的な過呼吸だった。めまいを起こして倒れないよう、メリンダは長身のパールをしっかり支えて抱き止めた。筋肉が硬直しているのが分かる。

「あ、あれ、あれはヘビ!?・・・恐ろしい、恐ろしいわ・・・」

 むせぶように声を振り絞った。

 パールはカソリック信者だ。何か蛇にまつわる恐ろしい話を、子供時代に聞かされたに違いない、とメリンダは推測した。

 さもなければ、タフなパールがパニックを起こすはずはないわ・・・

「もう大丈夫です。息をゆっくりゆっくり吐いてください・・・」

と声をかけながら背中をさすった。

「過換気症候群だわ。手当をお願い」

 近づいたパラメディックにささやきかけた。こんな事態でも、上司のプライドを傷つけないよう気を配るのは忘れなかった。

 救急医療班が応急処置用の椅子を広げて、パールを座らせ手当にかかると、メリンダは、襲撃犯が取り落とした物体に近づいた。

 それは、伝統的な名刺を二枚横長につないだ程の外形をした薄いプレートだった。


 これは・・・プロバガンダプレート?なぜ、こんなものを・・・


 けれども、おぞましい蛇の顔と強烈な恫喝の衝撃に比べれば、大した謎とは思えなかった。

 しかも、他にも謎があった。

 わたし、暗示にかかっていたらしい・・・あの不気味な鈎爪を見た瞬間、勝手に身体が動いたもの!

 プロファイラーならではの気づきだったが、問題は誰が暗示をかけたのかだった。

 メトカーフ大佐じゃないわ・・・同意もなく暗示をかけるたりする人じゃない。

 では、誰が、いつ、どうやって?

 メリンダは素人ではない。暗示をかけようとする相手は、そうと見抜けるはずだった。


 ニューヨーク市警が到着して簡単な事情聴取に応じるまで、恐怖から冷めやらぬメリンダは、その場で懸命に沈思黙考を続けた。しばしの間でも毅然と振舞うには、とりあえず戦慄の体験から気持ちを逸らせるしかなかった。

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