第111話 赤い水 Aingavite Baa

 最初に異変をのは、 ニューヨーク市環境保護局下水道管理部が所有する探査ドローンだった。警察犬の数百倍の感度を持つ嗅覚センサーが、探知対象の有毒ガスではなく、微かな血の匂いを感知したのである。

 徐々に空気中の揮発性低分子の濃度が高まるにつれ、内臓AIが自動的にドローンの速度を落として警戒モードに移行した。

 流れやすいよう傾斜がついた本管は、地下五十メートルにある下水道幹線に繋がる。探照灯で暗がりを照らし、辺りをくまなく探索しながら、ドローンは空気中の血液分子濃度が高い方向へ、緩やかに移動を続けた・・・


 オペレーター室に警報が鳴り響いたのは、ちょうど日付が替わる頃だった。

 夜間の当直は決まり切った退屈な業務だ。警報が鳴るのはドローンの誤動作と相場が決まっている。

 有毒ガスは未検出だ。また、センサーの誤動作か・・・

 係員は何気なくドローンの映像に目をやった。夜間の気温低下で霧が発生したらしく、白っぽく靄がかかった合流管が映っていた。

 うん?なんだ、これは?・・・

 コンクリートに広がるコールタールのように黒っぽい染みの上に、点々と転がる不定形の物体の正体は、咄嗟には理解不能だった。およそ環境保護局の仕事場には縁遠い惨状に、事態を呑みこむまで数秒かかった。

 ま、まさかッ!

 突如、目を飛び出さんばかりに見開いて、係官はインターコムに飛びついた。夜間警備員が対応するや否や、必死の形相で叫んだ。

「た、大変だッ!市警に連絡を取ってくれ。大至急だッ!」


 真夜中にもかかわらず、ニューヨーク市警はすぐさま現地に警察官を派遣した。殺人捜査課の警部自ら夜番の刑事を引き連れて、真っ先に乗りこむ気合の入りようだった。通報の内容から、三日前の国務長官襲撃と関連があると直感したのだ。

 幸い、下水路の水量は少めで左右の通路は水没していない。通報から小一時間後には現地に到着した。

 だが、あまりにもむごたらしい現場に、真っ先に駆けつけた三人は言葉を失った・・・

 枝線が六方向から集まる合流管制御室のコンクリート上に、血まみれの人間の死体が散らばっていたのだ。いや、赤黒い水溜まりの上に浮いているように見えた。

 血の海という言葉がふさわしい。


 「こいつは・・・」

 内臓も骨も衣類も原型を留めちゃいない・・・

 目を背けたくなる惨状だった。中東の戦闘区域に従軍した経験がある警部でさえ、言葉を失った。

 ヒグマに食い散らかされた遺体を見たことがあるが、ここまで滅茶苦茶に引きちぎられちゃいなかった!

 これじゃ、爆弾テロか爆撃の直撃を受けたのと変わらん・・・


「鑑識はまだか?」

 仄暗い照明の下でも、部下の顔が蒼ざめている様がはっきり見てとれた。刑事はげーッと喉を鳴らしかけたが、どうにか吐き気をこらえて声を振り絞った。

「遅れているようです・・・ここはセルフォンが使えず、連絡が取れません」

 無理もない・・・さすがの俺も胸がワルくなる。

 警部は言った。

「犠牲者は一人じゃないな。見ろ!靴が三つ残っている」

「二つはお揃いです。あと一つはどこでしょう?」

 二人が探照灯で辺りを照らして、目を凝らした瞬間、下水本管で待機中の刑事が、何者かを誰何する声が密閉空間に大きく轟いた。下水道伝いに近づく数人の人影に気づいたのだ。


「誰だ!止まれッ!止まらないと撃つッ!」

 辺りに立ちこめる濃厚な血の匂いに怯えて、年若い刑事は過剰反応を示した。

 殺害犯がまだ近くに潜んでいるかも知れない!

 警部と連れの刑事も、素早くレーザー銃を抜いた。

 しかし、すぐさま低く男の声が低く響いた。

「落ち着け。我われはDHSだ。オライリー警部に話がある」

 国土安全保障省だと!?なぜ連中が割りこむんだ?

 警部は訝しく思ったが、国務長官襲撃事件の異様なまでに厳重な緘口令が頭をよぎった。漏らしたら降格では済まないぞ、と市警本部長から直に釘を刺されている。長年の殺人捜査課勤務で培った直感が働いた。

 するとこの犠牲者たちは、行方不明になったホテル警備員か?

 なんてこった!


「わたしがオライリーだ」

「警部、DHSのライデッカーです」

 下水本管から現れたのは、痩せぎすで鋭い目つきの男だった。五十代のオライリーより二回りは若い。引き連れた四人の部下と同じく、黒いスーツの上に匂いが吸着しないよう透明アノラックを纏っている。父親に瓜二つのかんばせに見覚えがあった。オライリー警部はライデッカーと握手を交わしたが、にこりともしなかった。

 はなから気に食わなかったのである。

 ははーん、こいつは国防長官の息子だ!道理で、まだ若いのに国土安全保障省の幹部に納まっているわけだ。保安畑でキャリアを積んで、いずれ国政に打って出る気だな・・・世襲ってヤツは、無能で傲慢な権力者を生み出す諸悪の根源だ!

 連邦政府のアホどもが権威を振りかざしやがって。くそ面白くもない!と言うのがオライリーの本音だった。

 だが、DHSの対応はどう考えても早過ぎた。

 この事態を察知していたとしか思えんな。残虐極まりないこの殺人現場の裏には、国家機密が関わっているらしい・・・

 そうなると市警の出番はなく、指揮権を奪われるのは目に見えている。巨大な行政機構の政治力学なら重々承知していた。ことに緊急事態条項の恐ろしさは、一方的な強権発動に尽きる。

 そればかりか、権力を維持しようと、時の政権が有事を演出する「偽旗作戦」も決して珍しくない。「敵の脅威」の自作自演は、権力の常套手段だ。内憂を外患にすり替え批判をかわすと同時に、世論を都合よく扇動する。まさに一石二鳥である。

 連中が振りかざす「国家の有事」は錦の御旗だ!

 緊急事態条項という法的拘束力がなくとも、国民もメディアも自主的に沈黙するからだ。政府にものを言えない雰囲気に国全体が飲みこまれる。

 我われ捜査当局でさえそうだ・・・


 案の定、握手を終えるやライデッカーが言った。

「ここからは我われが引き継ぎます。市長と署長の了解も得ています。鑑識も引き上げました。あなた方もお引き取りを」

 口調は丁寧だが、有無を言わさぬ圧倒的な威光を笠に着た冷酷な響きが宿っていた。

 慇懃無礼を絵に描いたような野郎だな・・・

 オライリーはギロリとライデッカーを睨んだ。が、口を開く前にライデッカーが畳みかけた。

「この件は胸に留めて決して口外しないでください」

 

 辣腕の国防長官は大統領の信任も厚い。政権内では国務長官を凌ぐ実力ナンバーワンだ。強面こわもて揃いのDHSでも、この若造には誰も逆らえないんだろうよ。虎の威を借りやがって!

 腹に据えかねたが、できることに集中するしかない。オライリーはうなずいて、捨て台詞めいた口調でそっけなく言った。

「承知した。では、失礼するよ」

 まだ吐き気と戦っている刑事の肩を叩き、そそくさと「帰るぞ」と促した。部下が正気を保てるかどうか心もとなかった。

 凄惨な現場は嫌と言うほど見たが、ここは間違いなく最悪だ!修羅場と化した現場に接する度に、人の心は次第に削ぎ取られて摩耗してゆく。担当を外れてむしろ幸いかも知れん・・・

 二人は連れだって下水本管へ向かった。待機していた刑事に事情を伝え、三人して早足で現場を離れた。照明に照らされた暗渠を歩み、十分遠ざかったと見るや、現場に居た刑事がやおら口を開いた。

「警部、探照灯でサーチした時に見たのですが、血まみれの足跡が奥に向かって続いていました」

「犯人か?」

 オライリーがささやき返した。

「それが・・・異様な形でした。アヒルのような足型に見えました」

 アヒルだと!?

 警部は思わず背後を振り向いた。静寂が支配する暗渠に、水が滴る音だけが妙に甲高く聞こえてくる。

 奇怪な化け物に後をつけられているような気がしてならなかった。

 病院に出向いた緊急対応課の警部が、面会謝絶のフォックス国務長官に代わって、ダグラス補佐官から直に事情を聞いている。

 補佐官はテロリストが爬虫類の顔と手をしていたと語ったらしい。むろん変装に決まっているが・・・

 魑魅魍魎は闇に潜むと言うが、下水道の暗がりと瘴気が醸し出す言いようのない不気味な雰囲気が、否応なく妄想を掻き立てるのだった。


 ほどなくして、無事にマンホールへ続く鉄はしごを登り地上に出た。緊張に息を潜めて、ろくに話もせずに下水道を抜けた三人は、思わず安堵のため息を漏らした。騒々しい不夜城の薄汚れた街角が、これほど平和でのどかに見えたのは初めてだ。

 刑事二人がパトカーの運転席と助手席に乗りこんで、エアコンを消臭モードでフル回転させると、後部座席からオライリーが声をかけた。捜査当局特有の強固な縄張り意識とプライドが、ムクムクと頭をもたげたのだ。

「今夜の件はオフレコだが、国務長官襲撃はまだ俺たちのだ。犠牲者がホテル警備員かどうか調べるぞ!」

「しかし、警部、どうやって調べます?現場からは何も回収していませんし、第一、顔も身体もバラバラで・・・」

 現場に入った刑事が顔をしかめながら尋ねた。まだショックの余韻が消えず、思い出すだけで、酸っぱいものが喉にこみ上げてくる。

 オライリーは「これだ」と言って右足を左膝の上に乗せて、靴底を指さした。

「血だまりに踏みこんだからな」

 ワークブーツの靴底には、滑り止めに深い窪みが穿たれている。赤黒い血の塊がべったり張りついているのが目に入り、助手席から背後を覗きこんだ刑事は、ゾッとして反射的に視線を逸らせた。

「DNA鑑定ですね?」

 運転席の若い刑事が尋ねた。

「そうだ。十中八九、ホテルの警備員に間違いない。犯人を追って返り討ちにあったのかも知れんな」

 オライリーはうなずくと、靴を脱いで透明フィルムを丁寧に靴底に貼ってから、証拠品用の透明バッグに入れた。シールをすると自動的に空気が抜け、ぴったり靴を覆うように張りついた。

 助手席の刑事が言った。

「国務長官を襲撃した犯人ほしは、ホテル警備員が使った閃光グリネードにひるんで逃走したようですが、逃走経路がまったく掴めていません」

 ホテルと駐車場の出入り口は、事件前から警護の警官隊が囲んでいた。下水道以外には抜け道はなかった。

「謎だな・・・駐車場の地下二階には雨水用の下水路があるが、マンホールの鉄柵は、小型クレーンがないと持ち上げられない」

 犠牲者がホテルの警備員だとすると、犯人ほしと後を追った二人の警備員は、どうやって下水道に入りこんだのか?

 エアカーの中でオライリーは思いに沈んだ。


 殺人現場は嫌と言うほど見てきたが、今回は桁外れに獰悪で、そして何より異常だった。思い出すだけでも身震いがする。背筋が凍てつくような寒気に襲われた。

 ショックを受けた部下の手前、口には出さなかったが、どう見てもあれは食人だ!

 とてつもなく凶悪な影が、この大都市ニューヨークに忍び寄っているように思えてならなかった。

 人間にあんな真似ができるはずがない・・・

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