第101話 ローズボウル Rose Bowl

 Tシャツを着た大滝はベッドの端に腰をおろして、向かいのベッドに座るロペス軍曹と膝を突き合わせていた。

 軍曹がひとしきり話し終えると、うつ向き加減に逞しい拳を顎に当てた。彫像のように微動だにしない。ロダンのブロンズ像「考える人」そのままである。

 大滝はおよそ沈思黙考するたちではない。事があれば爆発的に活動するが、何もなければ淡々と日々のルーティンをこなして、万事に泰然自若としているのが常だ。

 今日はいつもと様子が違う。無理もない、と軍曹は思った。

 ジャッキーに襲いかかったと知って、ショックを受けたに違いなかった。どうやら無意識に掴みかかったらしい。


 そのジャッキーは、大滝が目覚める前に基地を後にしていた。

 「ユニット調整は延期よ。マイクの神経信号が回復するまで待つわ」

 麻酔が与える影響を気にしただけで、大滝に恐れをなした風もなく、今後の仕事に支障はなさそうだった。

 軍曹はひと安心したのだが、「二人できっちり話し合って!」と釘を刺されている。

 言われるまでもなく、今回ばかりは見過ごせずに、大滝が目覚めるのを待ち、かいつまんで事態を説明したのである。


 やがて、大滝は顔を上げてポツリと口にした。

「ローズボウルだ」

 精悍な黒い顔には特段の感情は浮かんでいないが、図太く闊達な口調は影を潜め、何ごとか熟思している風だった。

 ロペス軍曹は面食らった。軍曹の身長は175 cmと白人種としては小柄だ。三十代半ばだが、引き締まった身体と小顔は五歳ほど若く見える。優し気な目を、いかにも神経質そうに瞬かせた。新年恒例のカレッジフットボール六大大会を知らぬはずがない。とりわけ華やかなローズボウルは、毎年欠かさず視聴している。けれども、ジャッキーの首を絞めた行為と結びつけるには、あまりに突飛に過ぎて理解不能だった。


 大滝は遠くを見つめるように淡々と言った。

「俺の最後の試合だ。残り時間はゼロで、敵陣40ヤードでサイドラインを割る瀬戸際だった。ケニーに追い詰められた」

 ケネス・イーズリーは、NFLきってのフリーセイフティだ。過去に大滝と二人して、全米カレッジ攻守最優秀プレーヤーにそれぞれ選ばれている。

 六年前だ!

 軍曹は思い出した。

 忘れもしない!南カリフォルニア大学(USC)のクォーターバック(QB)だった大尉は、最終プレーで95ヤードの劇的な同点タッチダウンを決めた!それもパスではなくランだ。エクストラポイントも決まり、一点差で栄冠を手にした!


 二十世紀の昔から、強豪フットボール部は大学のドル箱だ。

 コーチ、トレーナー、栄養士、臨床心理士、スタジアム、専用ジェット機、室内練習場、フィットネスジム、弁護士、税理士、家庭教師など、チームのサポート体制に巨額の金が動く。トップレベルの名門校の場合、フットボール関連の資産評価総額は優に50憶ドルを超えるほどだ。

 オリンピックやNFL同様、莫大なテレビ放映権料はNCAAと配下の地区カンファレンスを潤わせる。

 一軍先発メンバ―は超エリート集団にして、NFLの金の卵でもある。中には大滝とハイズマン賞を競ったミシガン大学のQBリッキー・リーチのように、大リーグからもドラフト指名を受ける選手もいる。カレッジのベースボールとフットボールは公式戦シーズンが異なるため、二刀流も可能なのである。しかも、リーチは学業成績がオールAの優等生でもあった。

 NCAA所属チームで公式戦や練習に参加するには、学業成績など一定基準をクリアしなければならない。プロに進まずとも、あるいはプロのキャリアを終えても、別の職業に就くうえで役立つ。事実、弁護士資格を持つプロ選手さえいるぐらいだ。

 チームが有力選手に家庭教師をつけるのは、この条件をクリアさせるためである。

 ただし、教授が下駄をはかせるという裏技は常に健在だが・・・


 ローズボウル史上に残るビッグプレーだけに、軍曹は少々興奮気味だった。当の本人と巡り合いこうして語り合えるとは、と感無量にもなる。どうした訳か、大滝はこれまでフットボール歴については話したがらなかったのである。

「覚えてます!トロージャンズ(*)が24対23でリードした第4クォーター、ミシガン大学はフィールドゴールのフェイクから、ホルダー役のリーチが60ヤードの逆転タッチダウンパスを決めたんでした。直後のキックオフはフェアキャッチとなり、USCは自陣5ヤードから最後の攻撃で、残り時間7秒でした」

「さすがだな、フリオ」

 大滝は目を上げてニヤっとした。軍曹の記憶力は常人のそれではない。明らかに特異な脳の持ち主だ。

「忘れられませんよ!まさか、あの場面でオプションプレーをやるか、とびっくりしましたが」

 目下のトラブルもどこへやら、軍曹は生き生きと目を輝かせた。語り草となった名試合は記憶に生々しい。映像記憶が頭の中でまざまざと再生された・・・


「フォア、スリー、フォア、スリー!・・・レディ!セット!ダウン!・・・ハット!ハット!ハット!・・・」

 大滝のバリトンがフィールドに響いた。ボールがハイクされた瞬間、時計は動き出した。

 左ハーフバック(HB)へのハンドオフに次いで、左オフタックルへ自らのランをフェイクした後、自陣エンドゾーン際を左に流れるフルバック(FB)にボールをピッチした。

 大滝は、しかし立ち止まらなかった。ノーマークでスクリメージラインを超えて走った。スプリットエンド(SE)は、パスを警戒して近づいたアウトサイドラインバッカー(OLB)を上手くブロックした。

 その間隙をFBは急激に縦に切れ上がった。右手から迫るミドルラインバッカー(MLB)の目前で不意に左を振り向き、右後ろを交錯した大滝にラグビーのように両手でボールをトスした。そのままMLBに体当たりして、ランプレーに反応したディフェンスバック(DB)もろとも三者がもつれ合う。

 その隙に、大滝は追いすがるディフェンスエンド(DE)を置き去りに、一気に左サイドを駆け上がった。


 決め打ちのトリックプレーが鮮やかに決まり、大観衆は総立ちになった。

「行け―ッ!!」

「止めろッー!!」

 相反する十万人の絶叫がほとばしり、スタジアムを揺るがした。

 

 大滝もまた、最後のプレーを頭の中で反芻した。

 ジャッキーを襲った記憶はおぼろげで判然としないが、明晰夢が原因なのは間違いなかった。不意に時が止まったと感じたところまで鮮明に覚えていた。


 あの夢は、ローズボウルの「あの瞬間」と繋がっている・・・


 ・・・前方に残るディフェンダー三人は、一気に包囲網を狭めた。最大の強敵イーズリーは、加速しながらDB二人に指示を出した。

「パターンUだ!」

 トップスピードに達した大滝を、正面から迎え撃って仕留めるのは至難の業だ。フェイントをかけられ、一瞬で置き去りにされる。

 イーズリーの父親は、米軍戦略訓練所の指揮官である。対戦が決まると守備チームと共に訓練所を訪れ、大滝の動きをインプットした人型ダミーロボットを相手に、防御シミュレーションを入念に積み重ねた。

 この状況は想定済みだ!QBスクランブルで年間最多タッチダウン記録を樹立した大滝とて、俺たちの敵ではないッ!

 イーズリーは狩人のように目を輝かせた。

 俺たちはウルヴァリンズだ!(*) 大型獣をも倒す獰猛なクズリだ!


 大滝は左サイドラインの十ヤードほど内側を疾走した。巨体にもかかわらず、40ヤードを4.2秒で走破する。イーズリーと並びカレッジ最速記録の持ち主だ。見る間にハーフウェイラインに迫ったが、三人のディフェンダーは中央へのカットバックを許さなかった。

 サッカー同様、スペースを潰すのが守備の鉄則である。弧を描くように速度を加減して、大滝をサイドラインへと追いやった。


 最初のタックルを受ける寸前、大滝はボールを両手でしっかり抱えこんだ。右斜め前から飛びかかったディフェンダーに向かって、猛然と頭から突っこむ。ヘルメットとショルダーパッドが激突して「ガキッ!」と異音を発した。衝突の瞬間、筋肉の塊と化した巨躯をグイッと突き上げた。

 激しい衝撃の弾みで、DBは大滝をわずかにつかみ損ねた。大滝も反動で左に転倒しかけたが、たたらを踏んで強靭な下肢で持ちこたえる。斜めによろめきながらも体勢を立て直し、転倒したDBが必死に伸ばす手をかわして、サイドライン際を切り上がった。

 しかし、再加速の前に二人目のDBが右横から、イーズリーが右前方から肉薄した。二人して万全の体勢だ。倒せなくともタックルを受けた大滝は、確実にサイドラインを割る。

 いただきだ!

 ミシガン大学の応援団は勝利を確信した。


 包囲網を閉じるタイミングが絶妙だ。読まれていた!

 大滝はマウスピースを着けた歯を食いしばった。こうなってはギャングタックルを避ける術はない。

「もはやこれまでか・・・」と、思いがよぎった。

 衝撃に備えて上目遣いにイーズリーを睨んだ目に、ゴールポストと大観衆で埋まったスタジアム越しに広がる真っ青な空が映った。

 どこまでも深い青が、遥か暗黒の宇宙空間へつながっている・・・


 その瞬間、突如として時間軸が間延びした。すべてがスローモーションで映る。思考が停止した大滝は無意識に動いていた。



* 南カリフォルニア大学「トロージャンズ」

**ミシガン大学「ウルヴァリンズ」

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