第9話 いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ *  She's Orbed

 アメリカ合衆国のレインボー・ステイト、ハワイ州。


 南国の強い日射しも夕刻には急激に和らいで、爽やかな貿易風が吹き抜けてゆく。水蒸気がみずみずしい真っ白な雲となって、島の北側に切り立つ山脈の頂を覆い、スコールの雨が風に流されて、天空にくっきり虹が浮かび上がった。

 小さな島の南側に広がる海辺には穏やかに波が打ち寄せ、砂浜に広がっては潮騒と共に消えてゆく。遠い水平線上には、低く垂れこめた黒い雲が連なって浮かび、上空の薄雲は夕日を反射してピンク色に染まっている。その雲の合間から、鮮烈なまでに真っ青な空が覗いていた。

 冬の雨季が明けて二ヵ月、朝夕は得も言われぬほど澄み切った空気に包まれ、文字通り地上の楽園を思わせる。米国人実業家と結託した米国公使が合衆国海軍を派遣してハワイ王国を侵略、リリウオカラニ女王を退陣に追いこんでかれこれ三百年になるが、人類が繰り広げる貪欲な争いなどまるでなかったかのようだ。


 貴美は黙りこくったまま、ナラニと肩を並べて人気のない浜辺を歩いた。打ち寄せる波に濡れた砂の上に、二人の裸足の足跡が点々と続いている。

 ナラニはアーモンド形の切れ長の黒い瞳に、綺麗に日焼けした瓜実顔の小柄な女性だ。フードが付いたゆったりとした薄いワンピースの衣装越しに、グラマラスな肢体が見え隠れする。東洋と西洋の女性美が絶妙に融合した癒し系モデルとして、広く世界に知られている。


 十年前、初めてナラニと出会った後、貴美はファッション・ウィークに参加するナラニと共にニューヨークやパリを訪れたことがある。行く先々でナラニを目にした男たちが、彼女に視線を釘付けにして凍りついたように動きを止めるのを見てきた。男たちだけではない。女たちもナラニの姿を見ると、一瞬息を呑んで言葉を失うのだった。

 ファッション界には、人目を惹く個性的な美女が溢れている。しかし、人々がナラニに向ける視線には、羨望や性的な願望の欠片もない、純粋なあこがれがめられていた。

 当時、貴美は十代半ばだったが、人々がナラニに抱く崇拝に近い感動を感じ取って、外見でなく内面から発するオーラが、ごく普通の人間にも感じられるほど強烈なのだと気づいた。

 限りなく優しく柔らかな慈しみに満ちて、否応なしに周囲の人々を惹きつける。心のどこかで誰しもが抱く限りない安らぎの記憶を呼び覚ますかのように・・・

 その癒しの力こそ、今の貴美が必死で求めているものだった。


「わたし、見たの・・・」

 話を切り出しかけた貴美が言葉に詰まった。

 傍らを歩くナラニはいつもと変わらなぬ穏やかな表情で、涼し気な目元を細めて貴美を見返した。

 貴美がアイランドのこの海辺近くに建つ「フラワーハウス」に着いて、まだほんの半時ほどしか経っていない。貴美の様子を一目見たナラニは、挨拶を交わした後、ただひと言だけ、「カミ、海を見に行きましょう」と、促したのだった。

 貴美は突然「休暇を取ったから遊びに行く」とメールを送ってきた。ナラニは匠が覚醒したと悟った。同時に、ホットラインで連絡もせず、匠をシティに残してやって来たからには、他にも大きな出来事が起きたに違いないと明敏に察した。 

 貴美を目にした瞬間、ナラニは驚きよりも深い感動を覚えたのだが、表に出すことなく黙って寄り添ってここまで歩いて来たのだった。


 貴美は先週末の衝撃的な出来事と、引き続いて我が身に生じた変化にとても対応できず苦しんでいた。(**)

 アメリカ中央情報局の諜報員にして新人類第二世代の貴美には、人間離れした強靭な体力と精神力が備わっている。だが、十年を費やして匠の覚醒に備えてきた貴美は、まさか自分まで変異するとはこれっぽちも予想していなかったのである。

 その上、目の色までが青く変わり、あまりの衝撃にいたたまれなくなり、休暇を利用して急遽きゅうきょアイランドへ立った。IDやデジタル・パスポートの写真にマッチするよう、黒いステルス・コンタクトレンズで青い瞳を隠しての旅だった。


 心身がこうも不安定では、覚醒した匠を守るどころか、自分の力さえ制御できそうにない!まだ正体も知れない敵を招き寄せてしまうのでは?

 それが何より怖かった。


 波打ち際まで来た二人は、どちらともなく立ち止まった。何から話して良いのか言葉にならないまま、澄み切った空気を無意識に深く吸いこんだ貴美は、南洋の色鮮やかな黄昏たそがれの空に目をやった。

 心地好い貿易風にヤシの木立がざわめき、白い砂浜に打ち寄せては広がる波が裸足の足を包む。ナラニに会った安心感も手伝って、緊張していた肩の力がふっと抜けた。


「カミ、見て!」

 ナラニが口を開いた。


 急速に辺りを包んでゆく夕闇の中、貴美は自分の身体が淡く白い光に包まれているのに気づいて息を呑んだ。

 淡い光の中に、ほとんど目に留まらないほど小さな明るい光の粒子が現れては、風に吹かれて消えて行く。同時にさらに細かい光の軌跡も、時折りスーッと直線的に伸びては流れ星のように薄れて行く。

 驚いた貴美は、淡く白い光に包まれた両手を持ち上げ、手のひらをかえしてまじまじと見つめた。

 後天的な第二世代の貴美には、これまでいくら努力してもどうしてもできなかった「オーブをまとう」と第二世代が呼ぶ現象が起きたのである。


 ナラニに向き直って、不安気なか細い声でささやいた。

「ナラニ、わたし、どうしちゃったの?」


 三晩に渡る「冬眠」から覚めた後、動揺した貴美はトランス状態に入ることさえできずにいた。それなのに、オーブが勝手に起動するなんてあり得ない・・・

 実はナラニに再会して安心したのがトリガーとなり、オーブが不意に全身を包んだのだが、夕暮れの強い陽射しに紛れて、貴美自身は気づいていなかったのだ。


「カミ、何が起きても驚かないでね。大丈夫だから」 

 なだめるように貴美に語りかけると、ナラニはそっと両手を伸ばした。

 突如、ナラニの全身が貴美と同じ白い光に包まれる。二人の両手が触れあった途端、いかずちに撃たれたように貴美は身体を硬直させた。

 思わず悲鳴をあげて飛びす去った貴美は、次の瞬間、愕然がくぜんと辺りを見回した。

 ナラニが五十メートルほど離れた波打ち際に立ち、こちらを見詰めているのが目に入った。


「なっ、何なのッ!?わたし、いつの間に・・・」

 ショックで力が抜け、そのまま砂交じりの草地にへたりこむように尻餅をついた。動揺して小刻みに震える脚を抑えようと両腕でしっかり膝を抱えて、まばたきを繰り返しながら、近づいて来るナラニを放心して見つめていた。


 ナラニの身体を包んでいたオーブは消え、顔には驚愕と感嘆が相半ばしたような表情が浮かんでいる。



 *「竹取物語」より引用しました

** 「青い月の王宮」 第56話「目覚めの時」 第57話「青い瞳の」

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