第24話

 湿った土の匂いと草の香り、小鳥のさえずる声、小さな虫たちや、生き物たちの息吹。声明に溢れた森を、優しく流れていく風。目を閉じていても伝わってくる風景は、まるで楽園にいるかのような錯覚を、彼女の意識に刷り込んできた。

「………気が付いたか、冴月」

 泣きながら目覚めた彼女を、心配そうな六つの目が見守っていた。一番間近で覗き込んでいた大輔が、にっこり笑ってハンカチを渡す。それは大輔が人界から持ってきていたお気に入りの品で、彼が人として生きていた唯一の思い出だった。

「ありがとう、大輔…ふふっ」

 受け取ったハンカチには二頭身のヒーローが描かれており、使おうとする人に向かって必殺技を放っていた。しかも生地全面にでかでかと『拭け!!』の文字。その文字とヒーローの表情とが、あまりにもお茶目で、思わず見る者の笑いを誘っていた。

「お前な~ちょっとは場面考えろよ?なんでこのシリアスな時に、二頭身の、しかも特撮ヒーローな訳?」

「いや、でもほら、冴月笑ってるし…ぐえ!!」

 後ろから聖にヘッドロックを掛けられて、苦し気にじたばたと暴れる大輔。しかもちょっぴり本気で絞まっているらしく、その顔からは血の気が引き始めていた。

「あ…あの、そのくらいにしておいた方が…」

 冴月は身を起こし掛けて、ふと、自分がもう片方の手に握っていたものに気が付いた。

 いつのまに握りしめたのか、その手の中には輝く小さな竜珠があった。見覚えのある、懐かしい光。それは遥か昔、真竜の王飛竜へ託した、彼女自身の竜珠であった。

「ラーヴァーナ…『おっちゃん』…」

 冴月は一言呟くと、再び涙を零し始めた。彼女には解っていた。これを再び自分の手に戻してくれたのが、飛竜ではなくラーヴァーナであるのだと。そしてあの白い世界で見た光景が、忘れていた青龍自身の過去であったということも。

 そして今こそ冴月は理解した。決戦前、龍二の告げた言葉の意味を。彼がどうしても、自分に伝えたかったことの意味を。

 残忍な悪の王、破壊神として死んだラーヴァーナ。そんな彼の死を悼むことが出来るのは、確かに自分以外には有り得なかった。


 あの日の彼の笑顔と、胸の奥の想いを知る者は、冴月の他に存在しないのだから。


「羅刹王は確かに青龍の竜珠を使って、人界との境界に張られた結界を破った。だけど何故か、竜珠を壊すことはしなかった。いや…出来なかったんだ」

「それはきっと、羅刹王の心にとっても、幼いお前との記憶と思い出が、大切な宝だったから」

 冴月の頭を撫でながら透は、慰めの言葉を継いだ。

「飛竜と、ラーヴァーナ。偉大な二人の王が守ってくれた命だ。彼らに報いるためにも、今度はお前がその命を使って、いつか誰かの命を救ってやるがいい」

「ええ…ええ!きっと…!」

 冴月は涙に濡れた目を瞬かせながら頷いた。何度も、何度も。

 その時、彼女の涙で霞む青銀の瞳には、心配そうな仲間たちの姿と──彼らの背後で、照れながら笑う、昔のままのラーヴァーナが映っていた。


「さてと…そろそろ良いかな。こっち来て見てみな、冴月」

「………え?」

 冴月が落ち着くのを見計らっていた聖が、彼女を呼ぶとすぐ側の茂みを掻き分け始めた。その時になって冴月は、自分の居る場所の違和感に気付いて疑問を覚える。

 周囲はどこを見渡しても深い森だった。しかし、滅びに向かっていた神霊界では、これほどの緑に覆われた場所など、もはやほとんど残されていなかったのだ。

 唯一、地上最後の楽園とうたわれた、ナーガルジュナを除いては。

「ここは……」

「イイからおいで」

 疑問に首を傾げる冴月を、大輔が手招きする。仕方なく冴月は自分の背より高い雑木を、背の高い透に助けられながらなんとか通り抜けた。

 すると、そこには──

「……………ッッ!!」

 はるか地平線まで続く、命溢れる緑の森の大絨毯。柔らかな太陽の光を受けて、眩しくきらめく湖は、清く青い水を豊かに湛え、そこから緑の合間を縫って、幾筋もの川が流れていく。おそらくきっと、その流れの行き着く先には、白い波をさざめかせる青い海があるのだろう。

「まだあんだぜ、上を見な、冴月」

「え………」

 空を指差す大輔に釣られ、視線を上げた冴月は、そこでさらに意外なものを見ることになった。

「あれは……」

 白い雲を浮かべた空の色は、吸い込まれそう透き通る青。

そして天空にあって、世界を照らす太陽もまた、涙のように美しい惑星あお

「地…地球…!?」

 青い、青い地球と、白く輝く月。

 彼らが寿命の近付いた赤色太陽だとばかり思っていた二つの太陽は、実は人間たちの住む『人界』

──地球とその衛星、月であったのだ。

「私達が太陽と思っていたのは…人界だったの?」

「そうみたいだな…俺達も知らなかった」

 夢のような素晴らしい絶景に感動しつつ、冴月は透の声で背後に立つ彼を振り返って見た。だが、改めて見た透の姿に、小さな違和感を覚え、そしてその違和感の正体に気付くと慌てて、

「透、剣は…剣はどうしたの?それに私達元の姿に…竜王たちは!?」

「竜王達なら無事だ。今、脱出した街の人たちの安否を確かめに行ってる。それから剣は…剣はどうやら羅刹王と一緒に消えたみたいだな…彼に、止めを刺した時に」

「えっ!そうなのか!?もったいねえなあ!!」

「良いんだ。どのみちあの力は大きすぎて…今のこの人間の体では扱い切れないし、それに、もう必要ないんだ…少なくとも、俺には、ね」

 そう惜しげもなく言い切った透の、どこか晴れやかな表情を見て、冴月と大輔は顔を見合せた。

「ふうん?でも、ちょっと触らせてほしかったな~」

「いつまでもうるせー奴だ!透が良いっつってんだろ!!」

「んだよ!?ちょっと触りたかったって言っただけだろ!?」

 まだ何か言いたげな大輔に、再びヘッドロックを掛ける聖と、そんな聖の鼻を指でつまんで反撃する大輔。ふざけて騒ぎながらも彼らの顔は、なんだかとても嬉しそうであった。

「さあて…馬鹿はほっといて、龍二探しに行こうぜ、透」

「そうそう!!馬鹿はほっといて、龍二探してやんなきゃ!」

「いや、探す必要はない。龍二の居場所は解っている」

 いい加減、仲の良すぎる二人を無視して、透は背後に連なる深い森を振り返った。


 だんだんと深さを増す森の中で、不思議と方向を見失うこともなく、四人は無事に目的の場所へ辿り着いた。

 そこは位置的に見ておそらく、少し前まで真竜族の神殿が建っていた空間。だが今は神殿の姿は跡形もなく、鬱蒼とした木々の途切れた広場には、天まで届きそうなほど見事な巨木が根を下ろしていた。

 そして、燦々と温かな木漏れ日のさすその巨木の根元に、太い幹へ小さな背を凭せ掛け、力なく両手足を投げ出して座る龍二の姿があった。

「地の竜…か?」

「うん…そう。凄いでしょ」

 巨木を見上げつつ問う透に、龍二も同じく巨木を見上げながらそう答える。

 愛し気に見詰める瞳の先には、空を覆わんばかりの大樹の姿。無数に分れた太い枝々、生命に溢れ風にさざめく緑の葉、そして、大人が数十人がかりでも囲えないほど太く逞しい幹。

 それはまるで昔、何かの本で読んだ『世界樹』のようだと透は思った。

「目覚めることはないよ…ここでずっと、永遠に世界を見守るの」

「神霊界を…そして人界までも覆い尽くしたこの森は、お前の…?」

 龍二はその問いに、かぶりを振って否定した。

「彼だよ」

 あえて名前は告げなかったが、四人には伝わったようだった。

「消えゆく彼の強い想いが、最後に奇跡を起こした。彼は神ならぬ人の身で、神にしか使えない『大いなる再生の力』を使った…」

 誰よりも深く世界と人とを愛し、その行く末を案じてやまなかった彼だからこそ、この大いなる奇跡を起こせたのかも知れない。そしてそれゆえに彼は、神の計画に利用されてしまったのだ。

「奇跡を起こすのは人。その想い…か。聖の言った通りになったな」

 言いながら透は考えた。

 地球の歴史に記された数々の出来事は──生命が海に生まれ、海から地上へ進出し、様々な進化を遂げ、猿から道を隔てて人類が歩き始め……それらすべての事象もまた、生命が生きるために起こした奇跡ではないのか、と。

「へ??じ、じゃあ、神はどこ行っちゃったの?俺なんかてっきり、これは神の仕業かと…ひょっとして、消えちゃったとか??」

 単純に考えていたらしい大輔が、龍二の言葉を耳にして驚き、混乱した様子で龍二に詰め寄った。

「神はいるよ…今もたぶん、人界に…人間として」

 静かな目で天を見詰めて、龍二は言葉を継いだ。

「でも僕には神がこれからどうする気なのか…それぞれの世界がどうなっていくのか、もう解らないんだ。だって本当なら僕…飛竜の使命は、六千年前のあの日、すでに終わっていたはずだから」

 大きな目を伏せて、思いに耽る龍二。

 そう、神の記録通りにことが進んでいたなら、自分はとっくに消え失せているはずの存在だった。飛竜の肉体が数千年もの間、転生をしなかったのは、本来、必要なかったからに他ならない。

 それなのに今、ここには、龍二として生きる自分がいた。

 結局のところ、精確な未来など神にも、誰にも予測できないということなのかも知れない

だが、それで良いのだ。


 何もかも決定付けられた道をただ歩くなど、死んでいるのと同じなのだから。


「けど、残念だなぁ…神がもしまた、記録通り世界を動かそうとした時、透や龍二の力があれば簡単に阻止できたかも知んないのに。二人とも気軽に捨てちゃうんだもん」

「まーだ言ってんのか?てめえは?」

 未練がましく呟く大輔に、怒ったような声で聖が応える。大輔は反射的に自分の首を庇ったが、しかし、思っていたような攻撃は何もなく、その代わりに楽し気な聖の声が降ってきた。

「そんときゃ、人が自分の力でなんとかするんだよ!…信じてやろうぜ、人の力を」

「………ああ、そうだな!!」

 自信に満ちた聖の顔を見て、大輔も自然と笑っていた。

「立てるか?龍二」

「うん。大丈夫だよ、兄ちゃん」

 兄の手に支えられながら、龍二は立ち上がった。

 ゆっくりとその深い黒の瞳に、一つの決心と寂しさが込み上げてくる。

 言わなくてはならない。そう、思った時、

「さあて…これからが大変だよな。まず、何から始めるよ?」

「バーカ、大輔。家を建てるところからに決まってんだろ。人間、住むとこと、食うものがありゃ、あとはなんとでもなるもんだし?な、龍二!」

 計ったかのように二人から先に話しかけられ、開きかけていた口を塞がれてしまった。驚いて顔を上げた龍二はそこで、あくまで優しく自分を見つめる、四人の瞳に気が付いたのである。

「え……あの…」

「残るんだろ?神霊界に」

 とっくにすべて見通されていたのだ。透の柔らかい笑顔を見て、ようやく龍二はそうと悟った。

「僕…自分に何が出来るか解んないけど…この世界のために、何かしなくちゃって…兄ちゃんたちと別れるのは、とても辛いけど…寂しいけど、この神霊界を救ってくれた彼のためにも、そうしなくちゃって…だから、でも、兄ちゃん」

 目にいっぱい涙をためて、途切れ途切れに話す龍二を、皆の視線が温かく見守っていた。

「…ホントに良いの?人界に帰れなくなるよ?それに…人界だってきっと、大変なことになってて…それでも?」

「ばぁか。俺らがお前ひとり残して帰る訳ねーだろ」

「そうそう。それにさっき聖が言ったけど、人界は人間たちに任せるのが一番なのさ。人の力を信じて…さ」

「これからの人界にとって、私達の力や、神様の力はもう必要ないんです。きっと。でもこの世界は…神霊界は私の故郷ですから」

 なんでもない口調の中に、優しさがこもる。聖が、大輔が、そして冴月が、声なき声で語りかけてくる。『皆の気持ちは同じだよ』と。

 最後に龍二の視線は、目の前に立つ兄に注がれた。

「兄ちゃん……」

「何度も言っただろう?お前は俺が守るって」

 めくるめく思い出。セピア色に染まる記憶。

 幼かったころの透は、小さな龍二に約束をした。

 今と同じ言葉で。今と同じ、真っ直ぐな優しい瞳で。

「行くぞ、龍二」

 当然のように差し出された手が、泣きたくなるほど嬉しかった。

「………うん!!」

 温かな兄の手を取り、仲間たちに囲まれながら、真竜族の新たな王『龍二は』歩き始めた。

 五つの影が、緑の森に消えていく。

 後に残るのは、巨大な生命の木。

 雲海のような緑の葉が、さざめく光の中で風に揺られていた。

 誰かに囁くように。いつまでも、いつまでも。


 そしていつか、進化する螺旋の歌。

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螺旋 音楽 RINFAM @rinfam

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