第19話
「これは……!」
透は愕然として空を見上げた。
晴れた日は明るい薄紫色の空が、今は、暗い茶褐色の暗雲を孕んで、地鳴りのように不気味なうなりをあげていた。そしてその空の中心には、不規則に放電を繰り返す、巨大な闇色の塊が浮かんでいたのである。
「あれが
ようやく城内を抜けて前庭へたどり着くと、そこには娑加羅を始めとする、現八大竜王の五人全員が揃って四聖獣を待ち受けていた。
「玄武、見ての通りです。もはや一刻の猶予もありません」
「わかっている。娑加羅、君はあそこへ行く方法を知っているか?」
透は背負っていた龍二の身体を下すと、簡潔に要点のみを口にした。無駄な会話を一切省いたのは、自分たちがこの状況を理解していると伝えるためだったが、どうやら娑加羅には透の意図がしっかり伝わったらしい。
透にならって娑加羅は、肝心なことのみを口にした。
「いいえ。あの場所へ行けるのも、行く方法を知っているのも、飛竜様だけです」
「そうか…しかし、飛竜は…」
「解っています。身体は飛竜様でも、心は龍二様なのでしょう?そしてその龍二様も、神霊力を奪われて今は無力。ですが、大丈夫。こんな時のために、八大竜王がいるのです」
「竜王…八つの星?…そうか、お前たちは」
「ええ、そうです…我々は飛竜様の力を分け与えられた、いわば予備の燃料庫のようなもの。あいにく今は五人しかいませんが、龍二様のお力を戻すには十分でしょう」
そう言うと娑加羅は他の四人に合図をして、龍二の身体を円の中心にして並び立った。
「神はその御力を千切った。それは八つの星になり…だったっけか。あの竜族の伝承、やっぱ真実だったんだな…」
聖らが完全に理解した表情で見守る中、五人の竜王の身体から淡い光がオーラのように滲み出た。その光は次々と彼らの身体を離れると、龍二の小さな体を幾重にも包み込んだ。
「…………っっ」
「龍二!!気が付いたか!!」
ふっ、と、小さな息を吐いて、龍二の閉ざされていた瞼が開く。
透はほっとした表情を隠しせず、身を起こす龍二の顔を覗き込んだ。
「兄ちゃん……」
龍二も兄の顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。そして、
「ああ……君たちが力を分けてくれたんだ。ありがとう」
自分の前で跪く竜王たちに気付いて、龍二は優しい声で礼を言った。
「いいえ。礼など無用です。我らの王よ」
娑加羅ら五人にとっては、初めて目にする『龍二』の笑顔。
まだ幼さの残るその表情は、彼らが初めて目にするもので。
それは彼らの心を温かくすると同時に、一抹の寂しさをももたらすものだった。
「どうだ?動けそうか?」
「うん。大丈夫。このくらいなら…なんとか」
心配そうな透に明るく答えると、龍二は支えられながらよろよろと立ち上がった。
「早速で悪いが、神座へ行てえんだ、龍二。お前なら、行き方が分かるんじゃねーか?」
「……………っ」
性急な聖の問いに龍二は、黙ったまま俯いた。
それは、彼をよく知る者から見れば、肯定を意味する所作だった。
何故なら龍二という子供は、元来、素直で嘘の付けない性格の持ち主で──それ故に、こんな態度ひとつで、簡単に心が読めてしまうのである。
「じゃあ、早いとこ頼むぜ。これ以上、野郎の好き勝手にはさせらんねえからな」
戦意旺盛な聖と大輔が、意気揚々と不気味な空を見上げた。だが、いつまで待っても龍二は動こうとしない。どころか、皆の視線から逃げるように、無言のまま深く俯くばかりだった。
「なにしてんだよ?早くしないと世界が…」
「勝てないよ…」
「…………え?」
「ラーヴァーナは僕の…飛竜の持ってた神霊力を手に入れたんだよ?今、彼は破壊神そのものなんだ。いくら四聖獣でも勝てないよ!!」
伸ばされた大輔の手を逃れて後退ると、龍二は激しい感情のままそう叫んだ。年相応に幼く、今にも泣き出しそうな顔をして。
「なあ……龍二」
「いやだよ!兄ちゃんたちが死んじゃうよ!そんなの…そんなの嫌だよ!!」
どうにか説得を試みようにも、龍二は耳を塞いで嫌々と首を振るばかりで、全然人の話を聞こうとしなかった。まるで駄々っ子だ。
「龍二……」
それでも兄である透は、幼い弟を辛抱強く宥めようとしたが、不意にその肩を、聖の腕が強い力で引き留めてきた。
「………聖?」
「悪いな、透。あとで殴られてやっから…」
常になく真剣な様子の聖を見て、透は何事か察したらしい。前へ出た聖に説得の役目を譲って身を引くと、少し離れて成り行きを見守る姿勢を取った。
「あき兄……?」
そんな聖の常にない気配を敏感に感じ取った龍二が、驚いて顔を上げた次の瞬間、
「ああっ!?」
乾いた軽い音を立てて、龍二の白い頬が鳴った。
衝撃に声を上げたのは本人よりむしろ、側に控えていた竜王たちの方だった。肝心の龍二はというと、何が起こったのか分からないと言った顔で、呆然と手を挙げた聖の顔を見上げている。
「情けねえこと言うな!!俺らが死ぬから嫌だと!?だからほっとけってのか!?馬鹿言ってんじゃねえ!」
落雷のごとき怒声を浴びせられて、龍二はビクッと細い肩を震わせた。
こんなに怒った聖を見たのは初めてだった。龍二の知る聖は、どんな時でも陽気で明るく、冗談好きで、良くからかわれたりもしたけど、いつでもどんな時でも自分に優しかったから。
「戦えば負けるだと!?なぜ俺達の力を信じられない!?いつからそんな、弱っちくなっちまったんだ!?……お前は…人だったころのお前は、生まれた時から死にそうなほど病弱で…でも、いつだって生きることに必死だったじゃねえか!?」
「辛くても、苦しくても、どんな時でも、透や俺達に無理して笑って見せるお前を、そんなお前のことを俺は、本当に強い奴だと…尊敬してたんだぞ!」
「僕は強くなんか…そ、それに、今回はそんな、病気なんかじゃなくて、神が相手なんだよ?奇跡でも起こらなきゃ勝てるわけ…」
なおも反論し言い募ろうとする龍二に向って、再び聖が手を上げる。もう一度殴られるのかと、龍二は無意識に身体を固くした。
だが、思ったような衝撃は訪れず、代わりに温かい手が、彼の頭を撫でてくれていた。
「ば~か。だったら奇跡を起こせば良いじゃねえか。知ってっか?龍二、奇跡ってのはな、神の力が起こすものじゃねえ。この地上に生きる、すべての生命こそが起こせる力なんだぜ?」
いつもの明るい声で聖は笑ってそう言った。恐る恐る見上げた視線の先には、龍二の知っている、龍二の大好きな、いつもの『あき兄』の変わらぬ笑顔。
なにか呼ばれた気がして周囲を見渡すと、透も、大輔も、冴月も、皆、力強く笑ってくれていた。四人の瞳が龍二に強く語りかけてくる。『自分らを信じろ』と。小さな怯える心を励ますように。
「さあ、龍二」
透に優しく促されて、龍二はこくりと頷いた。
身体の前へ上げられた指が、ゆっくりと宙に円を描く。するとそこに、光の魔法陣が現われた。空間に浮かんだ魔法陣は、水の波紋のように揺れながら、最後の決戦へ向かう戦士達を待っていた。
「でも…でも、気を付けてね。四聖獣の力でも、今のラーヴァーナを倒すのは…」
「心配すんじゃねえよ。まあ、一人一人じゃ敵わなくても、俺達は四人!!多少、卑怯な気もするが…まあ、勘弁っつーことで!!なっ、大輔!!」
「多少じゃなくて、かなり卑怯だと思うけどね」
「うるせーな!?テレビの戦隊物見ろよ!?これで普通だぞ!!」
「そういやそっか。戦隊物ってだいたい五人だから、一人少ない分俺らの方が良心的かもね!?」
「そーだろ、そーだろ!!なっ!?」
人界に居た頃とまるで変わらない、ふざけた様子の二人の掛け合いに、強張っていた龍二の顔も思わず綻びる。心なしかこの場の緊迫した空気も、いくらか和らいだようであった。
「龍二、俺達は行くが、その前にひとつだけ確認しておきたいことがある」
透は言いながら愛剣を手に、魔法陣の前へ立った。
残された時間はあまりない。だが、これだけは確認しておかねばならなかった。
未だ回答の得られておらぬ、飛竜の行動に関する疑問。もしも、そこにまだ何か隠された罠があるなら、今の内に看破しておかなければ、後々大事な場面で足をすくわれかねないからだ。
「飛竜は神の代理人でありながら、なぜ、その意志に逆らってまで、我々を地上へ降ろしたんだ?いったい、なんのために?」
飛竜にとって──いや、龍二にとっても、その矛盾について問われることは、ずっと覚悟していたこととはいえ、かなり辛いものであったらしい。
龍二と飛竜は、記憶を共有する魂の兄弟。もう一人の自分。
そして飛竜の魂が眠りについた今、彼の持っていた悲しい記憶も、楽しい思い出も、そして許されぬ罪の記憶も、すべて龍二一人のものだった。
再び俯いてしまった龍二だったが、それでもぽつりぽつりと、声を震わせながらも話し始めた。
「…この世界に生まれた時、飛竜の中には感情が無かった。言われたことを実行するだけの人形に、そんなもの必要なかったから。でも…青龍が…そして、紫龍やたくさんの人間が、飛竜に感情を与えてくれたんだ。だから……ッ」
そう、感情を知ってしまった飛竜の心には、それまでにはなかった迷いが生じたのだ。
愛する人間たちの住むこの世界を、この手で滅ぼしたくないと。
しかし、それでも飛竜は神の意志に──アカシックレコードの指示に逆らえなかった。
世界を滅ぼさなければ。
──滅ぼしたくない。
人々を殺し尽くさなければ。
──殺したくない。
そんな矛盾のすえに飛竜は、一方で滅亡へのステップを用意しながら、その一方で救いの手として、彼ら四聖獣を世界に遣わせたのである。
「それが飛竜の罪…か」
透は優しい声で一言囁くと、龍二の頭を片手で乱暴に撫で回した。
「もう泣くな、龍二。兄ちゃんたちを信じて、ここで待ってろ」
「でも……ッ!?」
「良いんだ。俺は、少なくとも俺だけは、お前や飛竜に…聖たち仲間や、もっとたくさんの出会いを与えてくれたこの運命に、心から感謝してるんだからな」
思いがけない言葉に驚いて、龍二は透の顔を見上げた。するとそこには、龍二ですらこれまで見たこともない、晴れやかで嬉し気な兄の笑顔があったのである。
「娑加羅、龍二を頼む」
「命に代えてもお守りします。どうぞお任せください。…ご武運を」
当然とばかりに娑加羅が答える。気が付けばいつの間にか龍二の周りを、半円を描いて立つ竜王たちが守護していた。そう、彼らの心はいつも、いつでも、ただ一人の魂へ捧げられているのだ。
今も昔も、そしてこれからもずっと。
「行くぞ、みんな」
「おーう!!」
龍二と竜王らが見守る中、次々と四人は魔法陣の光の中へ消えていった。
透の力強い背中が、無言で皆を励ましている。そのすぐ後を、摩那斯へ向けてウインクしながら聖が追い、大輔はそんな聖の行為に呆れて肩をすくめつつ後ろを着いていった。そうして最後に、心持ち緊張した表情で、冴月が魔法陣へ入ろうとした、時、
「待って、青龍!」
突然、それまで黙って皆を見送っていた龍二が、彼女呼び止め駆け寄ってきた。
「飛竜さ……いえ、あの、なにか?」
思いつめた表情の龍二は、それでも一瞬、言うべきか否かと逡巡した。しかし、伝えるのは今しかないという、切羽詰まった思いに背中を押され、決心したように謎めいた言葉を口にする。
「君だけは彼のことを…どうか、羅刹王のことを、悼んでやって欲しい。せめて、君だけは」
「……えっ、あの、それは?」
龍二はそれ以上、何も口にしなかった。
というか、初めから言うつもりもなかったらしく、小さな唇をきゅっと絞ってしまう。
「……行ってまいります…真竜の王」
訳も分からぬまま仕方なく冴月は、魔法陣へ足を踏み入れた。途端、虹色に輝く水の波紋が視界を阻む。そして、彼女を物言いたげな目で見上げていた龍二の目が、次元の向こうへ消えていった。
四聖獣が光の魔法陣に、水のような波紋を残して消え去ると、王城はまた先刻までの静寂と沈黙を取り戻した。空は相変わらず不気味なうなりをあげて、放電を繰り返していたが、龍二と竜王の立つ場所だけが、何故だか、奇妙なほどの静寂に包まれていたのだ。
誰も何も喋ろうとはしない。痛いほどの沈黙。
娑加羅は、いや、五人の竜王達は待っていた。彼らの永遠の王が、彼らの望む主であるために、彼らを心から信頼してくれるその時を。
「……奇跡、か。あき兄らしいよね」
どれほどの時が過ぎただろう。
ポツリと呟いた龍二の言葉で、滞っていた空気に動きが生じた。永遠に続くかと思われた沈黙が破られ、止まっていた時の針が動き始めた。そして、ずっと背中を見せたまま考え込んでいた龍二が、初めて竜王らへ振り返り、宣言するかのように言葉を紡いだのだ。
『力を貸して欲しい』と。
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